第四十一話 火華、京を焦がすーー延暦寺VS法華宗
夜更けの京は、春の風に撫でられて静まり返っていた。人の気配も途絶え、虫の声すら薄れている。
けれどもその静寂は、まるで薄氷のように脆く、唐突に破られた。
「火だッ! 寺が燃えておるぞ!」
「おい、あれは……本法寺じゃないか!」
怒号と共に、南の空が真紅に染まった。
闇を焦がす炎が夜を真昼のように照らし、煙が京の屋根の上を覆い尽くしていく。
燃え上がっているのは、法華宗の大寺――町衆の信仰を一身に集める拠点だ。
屋根瓦の上で火の粉が乱舞し、遠くからでも爆ぜる音が轟いてきた。
「退けい、法華宗の徒ども!」
「貴様らのような異端者に、都の地を踏む資格はない!」
夜陰の中、寺を包囲していたのは延暦寺の僧兵たちだった。
黒ずんだ鎧直垂に身を包み、薙刀を構える数十の僧兵が、まるで死神の群れのように立ち並ぶ。
赤々とした炎が彼らの兜と刀身を照らし、血塗られた戦場の幻影のように揺らめいた。
「……やはり来たか、比叡の連中め」
寺門が軋む音とともに開かれる。
そこから現れたのは法華宗の僧兵たちだった。
白い法衣が炎に染まり、彼らの手にも薙刀や槍が握られている。
先頭の壮年の僧が、声を張り上げた。
「延暦寺の者ども! これ以上、我らの信徒を踏みにじるな!」
「はッ、貴様らが増長するからこうなるのだ。我らは古より京を護ってきた比叡の山法師。法華宗ごとき新参が出しゃばるな!」
「新参だと? 仏の道に古今の別などあるまい。信を集めた我らを妬むとは……浅ましい!」
怒声が怒声を叩き返し、夜の京に響き渡る。
僧兵同士が睨み合い、薙刀を構える音が金属の擦れる冷たさを伴って鳴った。
炎の光が刀身に反射し、赤い閃光が波紋のように揺れる。
「坊主ども、やるしかねぇな!」
「延暦寺を血で染めてくれる!」
いまにも衝突する――その瞬間だった。
夜空をひらりと一枚の花びらが舞った。
「……桜?」
怒気と火の粉が渦巻く修羅の空気の中、それはあまりにも静かで、あまりにも美しかった。
ひとひらの桜が夜風に流れ、僧兵たちの間へとゆっくり落ちていく。
続けざまに、数十枚の花びらが嵐のように舞い踊ったかと思うと――
「な、なんだと……!」
突風とともに、一人の男が僧兵たちの中央へと降り立った。
軽やかに膝を折り着地したかと思えば、鞘から刀を引き抜く。
一閃。
闇を裂く音とともに、舞い散る花びらが剣の軌跡に沿って渦を描いた。
桜吹雪と剣閃――それはまさに、戦場に咲く一輪の花。
「て、てめぇ……!」
「まさか……愛洲の剣――!」
どよめきが僧兵たちの間を駆け抜ける。
そこに立っていたのは、愛洲門派の武人――愛洲景秀だった。
嵐山に道場を構える剣客集団。
戦場に舞う桜を象徴とする「桜華剣」で知られる、正道七武門の一角である。
「……双方とも、武器を下ろせ」
その声は静かでありながら、雷鳴のように重く響いた。
怒声に満ちていた空気が、一瞬にして凍りつく。
法華宗の僧も延暦寺の僧も、声の主の威圧に押されるように動きを止めた。
「京は一つだ。血で染めるのはたやすい。だが護るは難い。……僧兵といえど、民草を巻き込む覚悟がある者だけ、前へ出ろ」
一歩踏み出しただけで、空気が震えた。
愛洲景秀は剣を構えていない。
だがその場にいた誰もが――斬られる、と錯覚した。
「……チッ」
「いちいち口を挟みおって……」
延暦寺側の僧が吐き捨てる。
しかし薙刀の刃先は、確かにわずかに下がった。
法華宗の側もまた、怒りを飲み込みながら構えを崩す。
京の誰もが知っている。
愛洲門派には逆らわない――力を誇示するためではない。秩序の剣を掲げる存在だからだ。
「……比叡の坊主よ」
愛洲景秀は、静かに延暦寺側へ向き直る。
炎が刀身を照らし、彼の影を長く引き延ばした。
「火を放ち、民を巻き込むそのやり口。己の信を掲げるなら、もっと正々堂々とやれ」
「ぬかせ、愛洲。これは仏敵を掃除しておるだけだ。京を穢す者を放ってはおけん」
「仏敵か……便利な言葉だな」
夜気を切り裂く冷たい声。
刀先がかすかに動いた。
実際には、一寸も進んでいない。
それでも延暦寺の僧兵たちには、自分の喉元に刃を突きつけられたような錯覚が走った。
「――もう一度、問う。退く気がないなら……その首を置いていけ」
夜風が止み、炎の音だけがごうごうと鳴る。
やがて一人の僧兵が舌打ちをし、薙刀を背に回した。
「……覚えておれよ、愛洲。仏の敵と共に滅びるなよ」
吐き捨てるように言い残し、延暦寺の僧兵たちは夜の闇に消えていった。
炎の粉が彼らの背を照らし、影を滲ませる。
残されたのは、燃える寺と、呆然と立ち尽くす法華宗の僧たちだった。
「……助かった」
法華宗の僧が深く頭を下げる。
額に流れる汗と炎の熱が混ざり、声は震えていた。
「我らと延暦寺の争いに首を突っ込めば、愛洲殿とて只では済むまい。それでも――なぜ止めてくださった」
愛洲景秀は刀を鞘に納め、夜風の中で一度だけ息を吐いた。
「――京が、焼けるからだ。我らは正道七武門の一角・愛洲門派である」
それだけを残し、彼の姿は闇に溶けていった。
桜の花びらが夜空に舞い、燃える京を覆う煙の上を、いつまでも漂い続けていた。




