第四十話 京、崩れの兆し ― 羅刹牙の影、正道七武門を裂く
伏見の丘に佇む冥焔館は、夜の底で息を潜めていた。風が灯籠を鳴らし、館の奥に潜む炎が、壁に鬼のような影を映す。
円卓には地図と封を解かれた報告書。空気は凍てついていた。
「なに──黒縄屋が潰えたと申すか!我ら破軍衆の資金源というのにか!」
羅刹牙の怒声が雷のように響き、分厚い机を拳が叩いた。木の板が裂け、誰一人として息を呑む音も立てられぬ。
「護衛の鉄牛は何をしておった! あやつは我が手勢の中でも期待の剛腕よ!」
その怒気を、芦屋道幻だけが受け流した。
静かに書状を差し出し、口を開く。
「主君、現場の報せによれば……鉄牛殿は乞食の小僧に討たれたとのことにございます」
羅刹牙の眉間に皺が刻まれる。
「乞食の小僧だと? 虚言を申すな。その報告を上げた者ども、斬首にせよ!」
「されど、黒縄屋には尋常ならぬ痕跡が残っておりました。戦いというより、意図して消された形跡。あれは武人ではなく、忍びの手口にございます」
羅刹牙は深く息を吐き、低く呟く。
「……裏で動いているのは誰だ。桐山の件も、あわせて報せよ」
芦屋の目が細く笑う。
「それが──桐山は捕らえられました。吉岡派の牢にございます。策が露見いたしましたゆえ」
「なんだと……!」
羅刹牙が再び机を叩く。だが、その怒りはすぐに変わった。冷笑。獲物を見つけた獣のような、愉悦の笑みへ。
「つまり、吉岡派の内部に裏切りが露見した。あの連中の結束は強固で誇り高い。裏切り者が出れば、互いを疑い、絆は腐るであろう、ふ、ふはは……」
羅刹牙の喉が低く鳴り、笑いが零れる。
「……くく、実に愚かなるものよ」
「左様にございます。桐山は霊丹の力欲しさに、我らの駒となっておりましたが、本人にその自覚はない。
牢に入れられた今も、自らを正義の剣士と信じて疑わぬでしょう。破軍衆とは関わりなどない……と。
されど、吉岡の内はもう穢れました。信が崩れた組織は、いずれ自ら崩壊いたしましょう」
芦屋は冷たく笑う。
羅刹牙は腕を組み、しばし黙考した。
「……失敗もまた、策の糧よな。桐山は駒を失ったが、同時に吉岡派を腐らせる毒にもなった。わずか一手でな。やはり、おぬしの読みは確かだ、流石だのう、道幻」
「はは……主君の盤においては、負ける手すら勝ちに化けますれば」
芦屋の声には、一片の感情もない。
その計算高さが羅刹牙を満足させる。
「さて、吉岡派が揺らげば、正道七武門の均衡は崩れる。延暦寺は混乱に乗じて動くであろう。法華宗はそれに抗う。宗派の争いは、もはや避けられぬ」
「その混乱を、我らが導けばよい。戦を起こす必要などない。
火を点けるより、すでについている火に風を呼ぶ方が早い」
羅刹牙は、地図上に指を滑らせた。
その指先が、京の議論の中心──一条烏丸観音堂で止まる。
「延暦寺と法華の争い……。世に名が残るほどの炎となるやもしれぬ。
だが、あれは起こすものではない。
宗派の誇り、信の火種──それを我らが吹き広げれば、京に立つ者は皆、灰と化すのみよ」
──それが羅刹牙の信条であった。
芦屋が頭を下げる。
「勘助を京に送りましょう。あやつの舌は剣より鋭く、言葉で宗派を裂くことができまする」
「よかろう。伝えよ──正しき言葉で、偽りの都を崩せと」
羅刹牙の声が響く。その瞳は炎のように光り、すべての策を見渡していた。正道も外道も、宗も武も、彼の掌の中にあるかのように。
だがふと、羅刹牙の視線が机上の書状に戻る。一文が、彼の指に止まった。
──乞食の小僧に討たれた。
「……梵寸、か。聞いた覚えもない名だが、妙な響きよの」
芦屋が静かに答える。
「その名、各地の密偵にも探らせております。何者かはまだ掴めませぬが、鉄牛を討ったという報告が事実ならば……尋常ではございませぬな」
「よかろう。放っておけ。いずれ正道七武門とともに潰える。我らの風が吹けば、京に立つ者は皆、灰と化すのみよ」
羅刹牙が立ち上がる。その影が壁を這い、鬼の形に変わる。
外では、風が強まり、灯籠がひとつ吹き消えた。
――静寂。
それは嵐の前触れだった。
京の夜はまだ穏やかだが、確かに空の底で何かが蠢いていた。
【第一章 完結】




