第四話 最愛の妹、懐かしき温もりと飢えと
「よし、これで体の臭いも落ちたな」
髪をかき上げつつ、梵寸は妹・華をそっと抱き寄せた。
「もう……にいにったら、今日は変だよ? どうかしたの? コホッ、コホッ……」
その声を耳にしても、梵寸は言葉を返せなかった。
――死んだはずの妹が、今こうして生きて自分の腕の中にいる。
奇跡としか言いようのない現実に、胸の奥が熱くなり、涙腺がまた緩む。あれほど泣き尽くしたはずなのに、なお目頭がじんと痛んだ。
「ちょ、ちょっと! 抱きしめすぎ! 苦しいってば!」
妹は抗議しながら、ぐいっと兄の胸を押し返した。その拍子に、
――ぐぅぅぅぅぅ……
間の抜けた音が、部屋の沈黙を破った。
「……ねぇにいに、ご飯は?」
華が遠慮がちに問いかける。
梵寸は、わずかに顔をしかめて答えた。
「すまぬ。さっき、乞食に金を取られてしまったのだ……」
その一言に、妹の顔色がさっと青ざめる。
「……じゃあ、晩ごはん……なし?」
うつむいた兄の姿を見て、華は力が抜けたように地面へ座り込み、小さな声でつぶやいた。
「お腹すいたよぉ……ううっ……」
ぽろぽろと涙がこぼれた。痩せた頬を伝うその涙は、兄の胸をひどく締めつけた。
そのとき、戸口の向こうから人影の気配が漂った。
「梵寸、また金を取られたんだって? 小吉から聞いたよ。ほんっと、しょうがない子だね」
引き戸が開き、袋と徳利を手にした女が現れた。
遊郭で働く「お梅」である。
お梅はかつて、路上で飢え死にしかけていた梵寸と華を助けてくれた恩人だった。それ以来、母のように二人を見守り続けてくれた存在である。梵寸にとっては、この世に残された数少ない灯火のひとつだった。
――だが、本来ならば彼女は1536年に起きた「法華の乱」で暴徒に斬り殺されているはずだった。
(お梅さんまで生きている……。やはり過去に戻ったことには感謝せねばならぬな。受けた恩を返さねばならない)
胸の奥でそう呟いたとき、華はもう我慢できず、お梅の胸に飛び込んだ。
「お梅さんっ! にいにがお金取られて、ご飯なくて……助けてぇ……!」
泣きじゃくる妹を抱きしめながら、お梅はやわらかく微笑み、優しく頭を撫でながら袋を差し出す。
「ちょうど小吉から話を聞いてね。台所から少し拝借してきたんだよ。ほら、二人でお食べ」
袋の中には、白く握られた飯が四つと、少しくすんだ色のお茶が入っていた。
「わあ……ありがとう、お梅さん。コホッ、コホッ、コホッ」
華は涙も拭わずに握り飯へ手を伸ばし、夢中で頬張った。
その姿を見て、お梅は苦笑交じりに梵寸へ目を向ける。
「梵寸、あんた……また肥溜めに入ってたんでしょ? うっすら臭うもの。情報を得るためとはいえ、そこまでやるなんて。妙婆さんも褒めていたよ。良い耳目を得たってね」
そう――梵寸は妙婆から耳目を任されていた。
乞食仲間の中で耳と目を広げ、些細な噂を拾い集める役目である。
そのためには手段を選ばなかった。肥溜めに潜り、汚物にまみれようと、役立つ話を拾えればよかった。
その甲斐あって、遊郭の経営者である妙婆からの信頼は厚かった。
もっとも、乞食仲間からは「糞の梵寸」などと嘲られる羽目になってしまった。
「ぬはは……そんな呼び名もあったな。どれ、わしもひとつ……ん?」
握り飯に手を伸ばしかけた、その瞬間。
空気がぴりりと張り詰めた。
戸口の向こうに、先ほど梵寸から金を奪った三人の乞食が立っていたのだ。
「おい梵寸! 今お梅が入っていくの見たぞ。出てこいや!」
「握り飯、もらったんだろ? 寄越せや!」
三人は血走った目をして木刀を握りしめ、じりじりと近づいてくる。
だが、梵寸は――笑った。
「……ああ、馬鹿らしい」
腹の底からこみ上げる笑いを押し殺しながら、肩を小さく震わせる。
(ふっ……なんとまぁ、滑稽な)
先ほどは混乱のあまり、殴られても抵抗できなかった。だが、今は違う。
体はまだ乞食の姿であろうとも、中身はすでに変わっている。
――わしはかつて甲賀衆、赤尾家の惣領であった男。
武人でもない乞食風情に屈するものか。
「梵寸! 何、ニヤニヤ笑ってんだ!」
「ぶん殴られなきゃわからねぇらしいな!」
三人が同時に木刀を振りかざし、突進してくる。
その瞬間――
「やめな!」
梵寸の背後から、お梅が進み出た。
「止めなさい! この、クズ乞食ども!」
毅然とした声が夜気を裂いた。




