第三十九話 十二歳の乞食と古の恩人
闇夜に月が滲み、冷たい風が路地を抜けていく。妙婆の遊郭、その裏庭。灯りの少ない空間に、乾いた金属音がひとつ響いた。
梵寸の喉元に、鋭い忍者刀が突きつけられている。刃を握る男――赤尾玄蕃。甲賀五十三家のひとつ、赤尾家の忍びである。
「貴様! 我が名を知っているとは……何者だ!」
怒号のような声が夜気を裂く。赤尾の目には警戒と殺気が入り混じっていた。
その声を受けながら、梵寸はわずかに目を伏せる。
懐かしい響きだ。かつて、死に戻る前の七十九の晩年。己を拾い、忍びとして導いてくれた恩人の声。
五十年以上の歳月を隔てた再会――だが今、梵寸は十二歳の乞食にすぎない。
名を呼んだ瞬間の失言を、己でも悟っていた。しかし、それを取り繕う言葉を選ぶ間もなく、赤尾の刀がさらに喉に迫る。
妙婆とお梅が息を詰めた。緊張が夜気を凍らせる。
「答えよ。どこで我が名を聞いた」
「……ふむ」
梵寸は軽く息を吐き、静かに言葉を紡ぐ。その声音は、子供とは思えぬほど低く、落ち着いていた。
「境地が上がると、直感というやつが冴えすぎる。ふと頭に“赤尾”と浮かんだだけのことよ」
赤尾の眉がぴくりと動く。その返答は虚勢でもなく、恐怖でもなく、まるで自らを試すかのように平然としていた。
「……ただの直感で、我が名を言い当てたと申すか」
「そうだ。信じぬなら、試してみるがよい」
梵寸は一歩も退かない。月光が頬を照らし、幼い顔立ちに老練な影を落とす。
その眼差しには、幾千の死地をくぐり抜けた者だけが持つ、沈着な光があった。赤尾は刀を振り下ろす寸前で動きを止めた。
しばしの沈黙。幼子の細い体に、不自然なまでの威圧が宿っている。
「……貴様、何者だ」
「乞食の梵寸。それ以上でも、以下でもない」
短く答えるその声には、一分の曇りもない。
だが胸の奥では、遠い過去――いや未来の記憶がざわめいていた。
赤尾玄蕃、かつて己の命を賭して甲賀の未来を託した男。その忠誠と無念を、梵寸は知っている。野洲河原の戦い、決死隊の結成。信長の鉄砲に散った赤尾の最期を、梵寸は見届けた。
――だが、今はまだ、その運命の三十七年前。歴史は書き換わる前夜にある。
赤尾はなおも刀を構えたまま、じっと梵寸を見据える。その目が訝しげに揺らめいた。十二歳の子供の顔。皺ひとつないその肌。
だがその瞳には、まるで百戦を経た老忍びのごとき深みが宿っていた。妙婆が口を開く。
「まぁまぁ、赤尾よ。子供の戯言を真に受けるでないよ。直感か、縁か……忍びにゃ、どちらも武器さね」
柔らかな笑い声が、張りつめた空気をわずかに和らげる。お梅も息を吐き、胸をなで下ろす。
そのわずかな隙に、赤尾はゆっくりと刀を下ろした。
「……妙婆、口を出すな。だが、確かに奇妙な縁だ」
そう言って、彼は刀を鞘に納めた。
しかし眼光は鋭く、油断の欠片も見せない。
「よかろう。だが忘れるな、梵寸。おぬしの正体、いずれ必ず見極めてみせる」
その声には、武人としての誓いが滲んでいた。
「好きにせよ」
梵寸は短く答えた。それだけの一言で、まるで長い因果を受け入れるような響きがあった。
夜風が吹く。紙灯籠が揺れ、薄明かりが三人の影を長く伸ばす。赤尾はしばらく梵寸を見据え、何かを測るように瞳を細めた。
そして、無言のまま踵を返し、闇の中へと消えていった。妙婆が口の端を上げる。
「まったく、あの人は昔から堅物さね。あんたもようあの眼を受け流したもんだよ」
「ふ……慣れたことよ」
梵寸は微笑を浮かべ、空を見上げた。
月は薄雲に隠れ、形を曖昧にしている。過去と未来、その狭間に立つ己の姿が、どこかその月影に似ている気がした。
胸の奥で、幾十年を越える因果が静かに鳴った。かつて導かれた恩人と、今度は導く側として相まみえる。それが己に課せられた宿命だと、梵寸は知っていた。
夜風が再び吹く。闇の底、遠く犬の声が響く。その中で梵寸は、己の掌を見つめた。皺のない手。だが、そこに宿る重みは、老忍びのそれだった。
――時は再び動き出す。
十二歳の乞食と古の恩人、ふたりの運命は、この夜、静かに交わった。




