第三十六話 正道七武門・吉岡派の罪
吉岡道場の広間には、重たい沈黙が沈み込んでいた。
障子の向こうでは、風が竹を揺らす音さえ遠慮しているかのようだ。
畳の上にずらりと正座する弟子たちの背筋は、張り詰めた弦のように固く、誰ひとりとして咳払いすらできない。
その中央に、ひときわ大きな影があった。
吉岡流宗主――吉岡直元。
「吉岡五剣」の頂点に立ち、洛中では“洛武威”と呼ばれる武の象徴。三十を過ぎても壮健そのもので、眼光はまさしく抜き身の刃のごとし。
頬には幾筋もの刀傷が走り、そのひとつひとつが修羅を生きた証であった。
その直元が、弟・泰清から事の一部始終を聞き終えると、静かに息を吐き、そして正面の小さな影を見据えた。
「……貴様が、梵寸か」
その声は、まるで岩盤を軋ませるような重みを帯びていた。
次の瞬間――。
ドンッ、と大気が震えた。
直元がわずかに一歩を踏み出し、全身から殺気を解き放つ。
空気が軋み、見えぬ鎖のような圧が広間を満たした。
「――ッ!」
「ぐっ……!」
若い弟子が悲鳴をあげ、腹を押さえて崩れ落ちた。血の飛沫が畳に散る。
二人、三人と続けざまに膝をつき、やがてその場に倒れ伏す。
彼らの肺腑は宗主の神気に押し潰され、吐血せずにはいられなかった。
「くっ……これが、宗主の気迫か……!」
「た、耐えろ……全身に神気を巡らせろ、さもなくば――死ぬぞ!」
必死に気を練る弟子たちの額に汗が滲み、それでも次々と意識を失っていく。
その中で――ただひとり。
梵寸だけが、立っていた。
十二歳の細い体は、風に揺れることすらない。
瞳は静かに直元を見返し、その中には畏れよりも確信が宿っていた。
道場の空気が、凍りつく。
「……馬鹿な」
直元の胸に、初めて動揺が走った。
『わしの殺気を受け、血も吐かぬだと……? この道場の者ですら膝を折るというのに……十二の小僧が……』
その考えが浮かぶより早く、頬を伝う汗が己を裏切った。
道場の弟子たちもまた、信じられぬものを見るように息を呑む。
「宗主の殺気を……受けている……? あの小僧が……?」
「嘘だろう……俺たちより、強いというのか……」
ざわめきが波のように広がる。
直元はその動揺を見て、歯を噛みしめた。
『このままでは、まるでわしが試されておるようではないか……吉岡の面子が……』
その刹那、梵寸が口を開いた。
「直元殿。わしは乞食の梵寸。――お主ら吉岡派には、三つの罪がある。」
その声は低く、だが確実に広間を震わせた。
誰もが息を呑み、音すら立てぬ。
梵寸は小さな足で畳を踏みしめ、まっすぐに宗主を見据えながら続ける。
「一つ。我が妹をさらい、黒縄屋と結託し、売ろうとしたこと。
二つ。妹を奪われたことを訴えに参ったお梅殿に、恥をかかせ、暴を働いたこと。
三つ。黒縄屋は破軍衆の金脈。正道を掲げるはずの吉岡派が、破軍衆と手を組んだこと――。
これら、大罪にあらずや。」
その声音は、まるで断罪の鐘。
道場を支配していたのは、怒りではなく、静かな威厳だった。
「な、なんだと……?」
「破軍衆だと……? まさか……吉岡派が……」
弟子たちが顔を見合わせ、動揺が広がる。
誰もが信じたくなかった。だが、梵寸の口調には確信があった。
直元の心にも波が立つ。
『破軍衆……まさか、そんな……。だが、奴の言葉には虚がない。まるで全てを見てきたような眼をしておる』
彼は額の汗を拭い、ひとりの弟子を見やる。
「……桐山左馬之助。答えよ。これは真か。」
名を呼ばれた桐山は蒼白になり、膝をついた。
「ち、違います! 宗主! これは小僧の罠にございます!
我らは陥れられたのです!」
声は震え、目は泳いでいた。
続いて、山田源次郎が頭を擦りつけるようにして訴えた。
「宗主、どうかお助けを……! このとおりでございます……!」
弟子たちの視線が一斉に突き刺さる。誰もが心の底で問いを抱いていた。
――嘘をついているのは、誰だ。
空気がひび割れるほどの沈黙のなかで、直元は唇を噛みしめた。
『この場を取り繕うことはたやすい。だが……もし本当に破軍衆と繋がっておるなら、わしが見て見ぬふりをした時点で、吉岡派は終わる』
その瞬間だった。
「……その小僧の言うことは、真実だよ」
しゃがれた女の声が、道場を貫いた。
弟子たちは一斉に顔を上げ、戸口の方へ視線を向ける。戸口がゆっくりと開かれた。




