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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第一章 乞食から忍びへーー死に戻った梵寸の再起
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第三十五話 剣聖に最も近き武人

木刀が風を裂いた。

「いくぞ小僧! ――吉岡流剣術・第二ノ型、風断!」


鋭い掛け声とともに、泰清の踏み込みが爆ぜた。

間合いを詰める音すらき消え、木刀は灼けつくほどの剣圧を帯びて梵寸に迫る。


――ボッ。

空気がはじけ、風が裂けた。

刃無き木刀にさえ、名門吉岡門派の誇りが宿っている。突風が渦を巻き、畳の塵が舞い上がる。

その直撃を受ければ、骨の一本どころでは済むまい。

だが、梵寸は見切っていた。


『なるほど。型に忠実なればこそ、見やすい……』


胸中で薄く笑う。

甲賀の忍びの歩法を一瞬だけ混ぜ、影が揺らぐような軌跡で泰清の眼前をすり抜ける。


『甲賀忍法・第二ノ型――幻鴉惑乱』


名を声に出すことはない。

今この場で甲賀の術を使ったことが露見すれば、禍根かこんを残すやもしれぬ。

技の名を心で唱えた瞬間、梵寸の姿は掴みどころを失い、泰清の剣は空を斬った。


「なにッ――!」

驚愕が遅れた瞬間、梵寸の小さな拳が正確に頬を撃ち抜いた。

乾いた音が、張り詰めた空気を裂く。


「ぐっ……!」

泰清の顔に赤が走り、血が畳に滴り落ちる。

それでも崩れぬ。足を開き、木刀を握り直す。


「我が剣を避け、一撃を入れただと……! 貴様、何者だ!」

頬を伝う血を拭いもせず、なお燃えるような瞳で睨みつける。

その視線の奥には、武の誇りが宿っていた。

梵寸は鼻で笑う。


「ふん……我は乞食よ。されど、ただの乞食ではない」

その声には、七十九年の歳月を生きた者の響きがあった。

だが外見は十二歳。童の姿で発せられる老練な声音が、逆に道場の者たちを震え上がらせる。


「この小僧、何をほざくか!」

「我ら門派を愚弄するつもりか!」

ざわめく門弟たちが木刀を構え、一斉に飛びかからんと身構えた。


「よかろう、小僧。ここで命を落とすがよい!」

泰清が怒声を上げ、踏み出そうとした――その瞬間だった。

空気が、沈んだ。

音が消える。

息を吸うことさえ、苦しい。

重圧。


それは殺気などという生易しいものではない。

空間そのものが圧縮され、肺が潰れそうになる。

畳が軋み、木柱が呻く。

道場にいた者たちは次々と膝をつき、うめき声を漏らした。

「ぐっ……な、なんだこれは……」 「息が……できぬ……!」


誰もが動けぬ中、梵寸だけが静かに顔を上げた。

『ふむ……これは、神気か。いや、武の極みに達した者のみが放つ“理”の重さよ』


足音が、奥から響く。

一歩。

そのたびに、畳が軋む。

二歩。

空気が波打ち、灯の火がゆらめく。

三歩。

誰もが視線を上げられぬまま、ただその“気”に押し潰されていく。

道場の奥より、ひとりの男が現れた。

長身。

背筋は岩のようにまっすぐで、衣の裾がわずかに揺れるたび、風が生まれる。

その歩み一つひとつに、鍛え上げられた剣士の“理”が滲み出ていた。


「宗主……!」

泰清がはっと息を呑む。

現れたのは――吉岡派宗主、吉岡直元。

日ノ本を代表する剣の化身。

数合のうちに十余の達人を屠り、破軍衆の包囲を一人で抜けた男。


彼が歩めば風が止まり、視線を向ければ草も凍る――そう噂される存在だった。

その眼差しは、炎と氷。

見据えられた者は、魂の奥まで射抜かれ、己の弱さを悟るという。

直元が一歩、また一歩と進むたび、道場の畳がわずかに沈む。


誰一人、声を出せぬ。

目の前に立つだけで、剣を構えることすら忘れてしまう。

「宗主殿……!」

泰清が慌てて膝をつき、頭を下げる。声が震えていた。


直元は返さぬ。

ただ、梵寸を見据えて立つ。

沈黙が場を支配する。

その静けさが、咆哮よりも恐ろしい。

梵寸は、わずかに口角を上げた。

「……ほう。これはまた、面白い。七十九年このかた、わしが“圧力”と感じるのは久方ぶりじゃ」


十二歳の童の姿で、老忍の心が震える。

武の極みに立つ者――その気配に、理屈を超えた“畏れ”を覚える。


直元は、静かに息を吐いた。

その一呼吸で、場の重圧がさらに濃くなる。

「小僧――名を名乗れ」

低く、だが雷鳴のような声だった。


畳が微かに鳴り、門弟たちは誰も顔を上げられない。

その声音には、尋ねるというより「名を差し出せ」と命じる威があった。

梵寸の唇が、ゆっくりと動く。

だがその言葉は、まだ誰にも届かぬ。

道場に満ちるのは、ただ、武の理が支配する沈黙のみ――。


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