第三十四話 乞食の拳、吉岡道場を揺るがす――血と誇りの対決
京の空気は張りつめていた。
梵寸の胸の奥では、怒りと憎しみが煮えたぎっていた。妹・華は誘拐され、弟子・小吉は血にまみれて倒れ伏し、恩人・お梅は無惨にも辱めを受けた。その全ての元凶が、京に名を轟かせる正道武門――吉岡門派である。
「落とし前は、必ずつけさせてもらうぞ……」
その呟きは独り言に過ぎぬはずなのに、聞いた者の背筋を凍らせるほどの迫力を持っていた。痩せ細り、破れた衣を纏った十二歳の小僧の姿。しかしその声音には、老獪な甲賀惣領の威厳が宿っていた。
梵寸の歩みは一分の迷いもなく、吉岡道場の大門へと向かう。
――京を代表する剣の一門。
その門を一人で叩くなど、常識では狂気の沙汰だった。
門前には数人の若き門弟が控えていた。彼らはぼろをまとった少年の姿を目にし、鼻で笑う。
「乞食が何の用だ。ここに施しは無い、立ち去れ!」
「どけい!」
梵寸は低く一喝する。
その声に門弟たちは思わず身を竦ませた。十二歳の少年が放つ声とは到底思えぬ、冷ややかで重い気配だった。
「わしは吉岡の宗主に用がある。そこを通せ」
その一言に門弟は怒気を露わにし、手を振り上げる。
「小僧が、二度言わせるな!」
振り下ろされる掌。だが次の瞬間――。
パァン! パァン!
乾いた音が二度、京の空気を裂いた。梵寸の両掌が閃き、門弟の頬を往復に打ち抜いたのだ。目にも止まらぬ速さのビンタ。門弟は呻き声をあげ、地面を転げ回った。
「な、何だと……!」
その騒ぎに気づいた奥から、七人の門弟が駆け寄る。
「沢屋! 何を騒いでいる!」
「……血!? お前がやったのか!」
彼らの怒声が道場前に響き渡った。次の瞬間、七人が一斉に取り囲み、梵寸を制圧しようと飛びかかる。
だが――。
パシィン! パシィン! パシィン!
往復ビンタが次々と閃き、門弟たちの頬を薙ぐ。飛びかかる者は打たれ、崩れ、呻き声を残して沈んでいく。わずか数秒の出来事であった。
「ば、化け物か……」
青ざめた門弟のつぶやきを背に、梵寸は血に濡れた掌を振り払い、大門を押し開けた。
道場の中は広く、数十人の若き門弟たちが稽古に励んでいた。掛け声と木刀の打ち合う音が響く中、その只中を裂くように、梵寸は現れる。肩には縄で縛られた二人――山田源次郎と桐山左馬之助を担いでいた。
彼は二人を無造作に放り投げる。
「う、ぐぅっ……!」
床に転がる二人を見て、場が騒然となった。
「桐山! その姿……いったい誰にやられた!?」
桐山左馬之助は血に濡れた顔を上げ、叫んだ。
「こやつじゃ! この小僧が、我らを……!」
どよめきが走る。吉岡の誇り高き門弟たちが怒りに紅潮し、梵寸を囲む。
「無礼者! 我ら吉岡を愚弄する気か!」
「斬り伏せろ!」
木刀を構えた数人が一斉に襲いかかる。だが――。
パァン! パァン!
往復ビンタが炸裂するたび、門弟たちは宙を舞い、床へ叩き伏せられていく。稽古場に響くのは、木刀の音ではなく、ビンタの乾いた衝撃音となった。
「……そこまでだ」
静かで重々しい声が道場内を制した。人垣が割れ、威風堂々たる壮年の武人が姿を現す。
名は吉岡泰清。吉岡門派の幹部にして、弟子を指導する剣豪である。彼の眼光は刃のごとく鋭く、ただ立つだけで場を支配する威があった。
泰清は木刀を手に、梵寸を射抜くように見据えた。
「小僧……貴様が桐山を打ち据えたのか」
梵寸は眉一つ動かさずに応じる。
「問答は無用。わしの望みはただ一つ――宗主に会わせよ」
その言葉に泰清の眉間が深く寄った。
「宗主に会うだと? 身の程を知れ。最後の警告だ、ここで退け。さもなくば――」
梵寸は一歩も退かない。真っ直ぐに泰清を見据え、冷ややかに言い放つ。
「同じことを繰り返すが、わしは宗主と話す。それ以外の声に耳を貸すつもりは無い」
泰清の眼光に怒りの炎が灯る。そして、ゆるりと木刀を構えた。腰を低く、木刀を上段に構えるその姿は、吉岡流の正統そのもの。真正面から、力で叩き伏せる剣である。
「ならば力ずくで黙らせてやろう。吉岡の剣、味わうがいい!」
泰清の声が轟いた瞬間、場の空気が張りつめる。弟子たちが息を呑み、床板が軋むほどの気迫が充満した。
泰清は叫ぶ。
「――いくぞ小僧! 吉岡流剣術、第二の型・風断!」
次の瞬間、泰清の姿が掻き消える。間合いを一気に詰めたのだ。
「ボッ!」
凄まじい風切り音が爆ぜる。泰清の木刀が振り下ろされ、突風が道場を裂いた。剣圧をまとい、押し寄せる突風と共に敵を叩きのめす、正道吉岡派の一撃。
正々堂々、真正面から――。
名門の誇りを背負った剣が、梵寸へと襲いかかっていた。




