第三十三話 京に轟く吉岡の剣――外道破軍衆の影
ーー後に京を揺るがす戦乱の火種は、この一月ほど前にはすでに撒かれていた。
天文の京は、華やかに見えても常に不安を抱えていた。商人が威勢よく声を張り上げ、子どもが路地を駆け抜ける賑わいの裏には、戦乱の影が人々の心を曇らせていたからだ。
近ごろ京を騒がせていたのは、「外道破軍衆」と呼ばれる浪人たちであった。日ノ本各地から流れついた剣客、槍使い、武芸者の寄せ集め。仕官の口を失い、新たな主人を求めて京に押し寄せた彼らだったが、将軍家や公家、寺社勢力の庇護を得る名門たちがすでに都を固めていた。割り込む余地などなかったのである。
「仕官先が無ければ、力で奪えばよい」
そう考えた彼らは徒党を組み、伏見を拠点に夜ごと都へ押し入っては町人や旅人を襲い、金品を奪い、抵抗する者は容赦なく斬った。女や子どもすら犠牲にする蛮行に、民の怨嗟は積もる一方であった。
だが、民を守ろうと立ち上がった者たちもいた。それが「正道七武門」である。七つの名門武家が矜持を競いながらも、都の治安を守ることを第一とした。その一角を担うのが、武道場吉岡派であった。
吉岡の剣は、勝利のためだけにあるものではない。弱きを助け、乱を鎮めるための剣である。門弟たちは修行を怠らず、時に市井に立っては治安を守り、民衆から厚い信頼を得ていた。
◇◇◇
その日もまた、市中で破軍衆の一団が暴れ出した。
「道を開けろォ! ここは破軍衆の縄張りだ!」
「逆らう奴ァ、叩き斬るぞ!」
刀を振り回す浪人たちに、商人は店を閉ざし、母は子を抱えて逃げ惑う。恐怖が市場を支配しようとした瞬間、吉岡派の若き門弟たちが立ちはだかった。
「ここは京の町だ。好き勝手は許さぬ!」
声を張り上げ、門弟たちは一糸乱れぬ構えで浪人を迎え撃つ。しかし、その中にひときわ異様な存在があった。大太刀を振り回し、狂笑をあげながら門弟を蹴散らす巨漢――鬼塚鉄牛である。
「弱えなァ! これが吉岡の剣か!」
鉄牛の大太刀が振り下ろされるたび、地面が裂けるような衝撃が走る。門弟たちは必死に防戦するが、一歩、また一歩と押し込まれていく。
そのとき、町人たちのざわめきが静まり、一人の武人が前に歩み出た。吉岡派宗主――吉岡直元である。
「無頼の徒が京を荒らすなど、断じて許さぬ」
直元は静かに告げ、腰の刀を抜いた。
「出やがったな、大将!」鉄牛が嘲る。「お前を斬り捨てりゃ、この町は俺らのもんだ!」
大太刀がうなりを上げる。だが次の瞬間、直元の一閃は雷光のごとく鋭く、鉄牛の軌道を断ち切った。
「なっ……!」
鉄牛の目が驚愕に見開かれる。力任せの大太刀は、あまりに速い直元の太刀筋に受け流され、肩口を斬り裂かれていた。
「この京には、民を守る剣がある」
毅然とした直元の声が市場に響き渡る。鉄牛は呻きながら膝をつき、仲間に支えられて退却した。破軍衆は動揺し、やがて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
やがて市場に歓声が満ちる。
「吉岡様だ!」
「さすが京の誇り……!」
「我らを護ってくださるのは、やはり吉岡宗主殿だ!」
人々は涙を浮かべ、直元の前にひれ伏し感謝を捧げた。門弟たちは誇らしげに胸を張る。しかし直元は刀を収め、静かに民へと頷くだけであった。その姿は、勝利に酔うことなく、ただ務めを果たした者の背であった。
だが、その背を見つめる一人の若者の胸には、別の感情が渦巻いていた。
桐山左馬之助――二十歳そこそこで「真境」を突破し、吉岡派でも将来を嘱望される有望株である。だが近ごろ、その顔には翳りがあった。いくら修行を重ねても、さらなる境地が開けぬ。己より年若い者が先に抜きん出る姿を見せつけられ、焦燥と劣等感が募るばかりであった。
「俺は……このまま終わるのか」
胸の奥で繰り返すその呟きに、ある夜、甘い囁きが差し込んだ。
「霊丹というものをご存じか」
声をかけてきたのは、吉岡門下に紛れ込んだ浪人の一人。実は破軍衆が放った密偵であった。
「これを服せば、己の限界を超えられる。剣の境地もまた一気に開けよう。お主ほどの才ならば、すぐにでも門下を凌ぐ存在になれるはず」
「……そんなものが、あるのか」
「あるとも。ただ、選ぶのはお主自身だ」
密偵は意味深な笑みを残し、闇に消えた。桐山の心は大きく揺らぎ、迷いが深く刻まれた。
◇◇◇
同じ頃、伏見の一隅にある破軍衆の本拠では、密やかな酒宴が開かれていた。
獣のような眼光を放つ巨躯の男が低く笑う。破軍衆の頭領――破軍鬼将・羅刹牙である。
「吉岡を内から崩せるかもしれんのか」
向かいに座すのは痩せぎすの陰陽師。陰湿な笑みを張り付けたその男は、芦屋道幻と名乗る宗家筋の陰陽師であった。
「はい。桐山という若者は己の才に疑いを抱き、焦っております。そこへ我らが密偵が霊丹の話を吹き込んだ。もし口にすれば、彼は我らの手駒も同然……」
羅刹牙は豪快に笑い、盃を傾けた。
「愚か者の野心ほど扱いやすいものはない。吉岡が割れれば、正道七武門の均衡も崩れる。そうなれば――京は我ら破軍衆のものよ」
闇に溶けるように笑い声が響き、都の夜は不穏に揺れ動いていった。




