第三十二話 星辰の呪印 ―月呪を封じる兄妹の誓い―
1536年。戦火と疫病に荒れ果てた京都の街。 かつて「都」と呼ばれた華やぎはすでになく、瓦礫の間を流れる鴨川のほとりには、飢えに喘ぐ乞食たちが群れをなして蠢いていた。
その中に、薄汚れた襤褸をまとい、まだ十歳の幼い身を震わせる少女がいた。名は――華。
冷え切った地面に身を縮める華の肩は小さく痙攣している。彼女を蝕んでいたのは「月呪ノ業」と呼ばれる異能。生まれつき魂に刻まれた呪いが、臓腑を内側から凍てつかせ、じわじわと命を削り取っていた。
「……ゴホッ、ゴホッ」
白い吐息が夜気に散るたび、命の残り火が削られていくように思えた。
だが、その傍らには一人の少年が寄り添っていた。十二歳の少年――梵寸。彼はただの子供ではない。未来で甲賀忍びの惣領として老齢を迎え、1603年、徳川家康の裏切りによって不遇の死を遂げた男である。だが死の果てに、不動明王の神力に導かれ、彼は時を遡った。いま再び、1536年の十二歳の姿としてこの世に立っているのだ。
彼が誓うのは、未来で果たせなかったうちの一つ。すなわち――妹・華を救うこと。
かつて彼女は、この冷気の呪いに耐え切れず、凍えるように息絶えた。その夜の記憶はいまも氷刃のごとく梵寸の胸を貫き続けている。
「にいに……ごめんね、にいに……」
華の声は弱々しく掠れていた。
「華は……ここまでのようだよ。ひとりにして、ごめんね……ゴホッ、ゴホッ!」
己の死を悟りながらも、残される兄を案じる。その幼い優しさが、梵寸の心をさらに締め付ける。
梵寸は静かに首を振った。
「戯けたことを申すな。お前は生きる。必ずわしが救う」
彼の手には一本の鉄針が握られていた。松明の炎が照らし、その先端がぎらりと光る。
「役小角の秘伝書に記されておった……星辰の呪印。入れ墨を刻み、冷気を封じる術よ」
「……痛い?」
怯えるように華が尋ねる。梵寸は短く答えた。
「痛む。だが、耐えよ。これが命をつなぐ道じゃ」
幼い華は、唇を噛みしめ、小さく頷いた。生きたいという思いが、恐怖を押しのける。
梵寸は妹を床に横たえ、針を掲げる。焚かれた松明が揺らめき、炎の影が二人を包んだ。
――ぷすり。
針が幼い肌に突き立てられるたび、細い悲鳴が漏れる。
「うっ……」
血と共に冷気がにじみ出し、白い煙となって立ち昇る。華は歯を食いしばり、小さく呻きながらも耐え続けた。
「……生きる……生きるんだ……」
か細い声で紡がれるその言葉が、梵寸の胸を突き抜ける。
やがて、幾時間もの儀式を経て――。
「……終わった」
梵寸の額には玉のような汗が滴り、手は血にまみれて赤く染まっていた。
華の全身には、役小角の秘術が描き写された呪印が刻まれていた。
背には、星雲を背に舞う龍。鱗は星座を模し、尾は腰まで流れ落ちる。赤い瞳は血のごとく輝き、金の炎を吐き出して冷気を焼き払う。
胸には、炎を纏う鳳凰が翼を広げ、心臓を抱き守る。星屑の光が散り、凍える鼓動に温もりを宿す。
腹部には曼荼羅の円。その中央で大蛇が己の尾を噛み、冷気の連鎖を永劫に封じていた。
右腕には雷神の紋様。稲妻が螺旋を描き、指先に火花が踊る。冷気を打ち砕く雷の剣だ。
左腕には海と月。波濤と三日月が絡み合い、巨大な蛸の触手が呪いを海底へと沈める。
両脚には天地の力。右脚には山脈と古木、狼の遠吠えが響き、左脚には歯車と鎖が刻まれ、時の流れを封じる。
首筋には星座の鎖が輝き、魔を遠ざける結界となる。幼い顔の目尻には、一つの星が涙のように光っていた。
それこそが梵寸の誓いの証であった。
完成の瞬間、華の体から凍気が引き、代わりに微かな温もりが戻ってきた。
「……にいに?」
か細い声と共に、華の瞳に光が宿る。星辰の呪印が彼女を包み、月呪ノ業を封じる聖なる鎧となったのだ。
梵寸は深く息を吐いた。
「やったぞ……華。これでお前は生き延びられる」
華は震える唇を動かした。
「……ほんとに、華……生きていいの?」
梵寸は妹の手を強く握りしめ、力強く答えた。
「生きろ。わしがそばにいる限り、必ず」
その言葉に、華の頬を涙が伝った。兄妹の誓いは、戦乱と呪いの世を生き抜くための新たな灯火となった。




