第三十一話 月呪ノ業――氷の呪いに目覚める妹
鬼塚鉄牛は喉の奥から血反吐を吐き出し、最後の咆哮をあげながら前のめりに崩れ落ちた。
巨体が床を揺らし、畳が悲鳴を上げる。
「にいに! にいにぃっ!」
華が駆け寄ろうとした刹那、黒縄藤蔵の影が獣のように動いた。
「ちょこまか動くな、小娘!」
がっしと華の腕を掴み取り、鋭い短刀を白い首筋に押し当てる。
冷たく光る刃先が、少女の細い喉元を脅かした。
「動くなよ……。妹の命が惜しければ、この場を去れ!」
その言葉に、山田もすぐさま声を張り上げる。
梵寸の強さに震えながらも、必死に虚勢を張っていた。
「そうだ! そうだ! 去る前に、俺の前で土下座しろや!」
鼻を鳴らし、口角を歪めて叫ぶ。
「糞の梵寸が少しばかり強いからって、いい気になるんじゃねぇぞ!」
梵寸は額を指で軽く叩き、肩をすくめてみせた。
「しまったのう……。久々に強者を相手取ったせいで、少しばかり油断してしもうたわ」
その声音には余裕があった。
なぜなら、この二人を一息で葬ることなど、彼にとって造作もないからだ。
「お主らごときが、わしを脅すとは……片腹痛い――」
そのときだった。
「……に、いに……?」
華の顔色がみるみる蒼白になり、唇が震え始める。
「にいに……さむいよ……さむいよ……」
「華!?」
梵寸が振り向いた瞬間、室内の空気が一変した。
凍りつく。
少女の吐息が白い靄となり、咳をするたびに冷気が放たれていく。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
咳とともに広がる冷気は、壁を、床を、畳を、白く凍らせていった。
氷が音を立てて広がり、冷気の奔流が人々を呑み込んでいく。
「な、なんだ、この小娘は……! 体が冷てぇ……!」
黒縄藤蔵の顔が青ざめ、慌てて華の腕を放した。
「ひ、ひゃあ! 冷てぇっ!」
山田は悲鳴をあげ、後退ろうとする。
しかし――。
「なっ……動けねぇ! 足が……凍りついてやがる!」
床と足が氷で繋がれ、無理に引きはがそうとするほど膝が軋んだ。
黒縄も同じく、足元を氷に囚われ、顔を引きつらせていた。
「ぐっ……ぬ、ぬけねぇ……!」
梵寸の瞳が細くなる。
「……やはり抑えきれなんだか」
彼は知っていた。
己の妹が背負わされた宿命を。
これまで血流を操る秘術で、妹の「月呪ノ業」を封じ込めてきた。
だが――今。
鬼塚の吐いた大量の血と、恐怖と混乱が重なり、その封印はあっけなく砕け散った。
華の小さな身体から、呪われた氷の力があふれ出す。
それは彼女の意志ではなく、怯えと絶望に応じて広がる災厄。
「梵寸! 助けてくれ! 糞の梵寸って二度と言わねぇからよ!」
山田が喚き散らす。
「わしを助けろ! 金ならいくらでもやる! だから――ぐっ!」
黒縄も必死に叫ぶが、言葉を遮るように、梵寸の指が二人の首筋を突いた。
点穴――。
二人の目が裏返り、そのまま床に崩れ落ちる。
静寂が戻ったのは一瞬だけ。
すぐに、部屋全体が白く染まっていく。
壁は氷の華に覆われ、畳は硬く凍りつき、吐く息は白煙となった。
「にいに……ゴホッ……こわいよ……!」
華は胸を押さえ、苦しげに咳き込みながら震えていた。
梵寸はその細い肩を抱き寄せ、低く言った。
「案ずるな、華。必ず、この兄が救う」
冷気の中で、梵寸の声だけが温かく響いた。
――ここから、月呪ノ業を巡る新たな試練が幕を開ける




