第三話 華、在りし日のぬくもり
「おい! 梵寸! どこへ行くんだ!」
背後から小吉の声が響いた。だが、その叫びは梵寸の耳に届かなかった。彼の心は、ただひとつの思いに押し流されていたからである。
彼は川沿いの小径をひた走った。息は焼けるように熱く、冷えた風が頬を打つ。視界は揺れ、胸は裂けんばかりに高鳴った。
――華が……生きている?
そんなはずはあるまい。しかし、その望みが一筋の光となって胸を突き動かしていた。
見慣れた道。いつもの木立。だが、走る彼の目に映る景色は、まるで別の世界のように輝いていた。木々の葉はやわらかな光をまとい、土の色すら温かみに満ちていた。
やがて辿り着いたのは、妹と共に暮らしていた小屋である。
小屋――と呼ぶにも忍びない。枝を骨組みに、藁を屋根とし、扉の代わりには編んだ藁が垂れている。粗末で、脆く、風雨を凌ぐのがやっとの住まいであった。
その藁をかき分けて中に入ると、暗がりの奥に小さな影が横たわっていた。
やがてその影はもぞもぞと身を起こし、眠たげに目をこすりながら、梵寸の方を見つめた。
「……にいに? おかえり。今日の稼ぎは――うわっ! く、くさっ! また肥溜めに落ちたの!? うぅ、くっさぁ……」
その声。その仕草。その愛らしい顔立ち。
疑いようもなく――華であった。
「……ああ、華。華が……生きている……!」
声にならぬ嗚咽が、梵寸の喉から漏れた。彼は震える手を伸ばし、一歩、妹へと踏み出す。だが――
「ちょ、ちょっと待って! まず川に行って! にいに、くっさすぎるよ! 家に臭いが染みるってば、コホッ、コホッ……!」
小さな手で制され、梵寸は情けなくも小屋を追い出される。仕方なく川へ身を投げ、頭から冷水を浴びた。流れに逆らって身体を擦るうちに、汚れは落ちていった。
だがその心は、凍える水にも溶かされぬ温かさで満ちていた。
――華は、生きている。
その事実ひとつが、涙を止めなかった。冷たい流れに頬をさらしながらも、胸の奥は春の日差しのように明るかった。
華は、生まれつき身体の弱い子であった。湿気や寒さに敏感で、しばしば咳き込み、寝床に伏せることも多かった。
二人が物心つく頃には、すでに親の姿はなく、“軽がる道”と呼ばれる屍捨て場で、寄り添いながら震えていた。
拾ってくれたのは遊郭で働く女――お梅である。彼女の庇護の下で、梵寸と華は辛うじて生き延びてきた。
しかし――死に戻る前の人生においては、華は病に蝕まれ、若くして息を引き取っていた。
梵寸がようやく出世し、甲賀衆・赤尾家へ迎え入れられる直前のことである。
薬を買うこともままならず、米を満足に食わせることもできなかった。それでも、梵寸は自らのすべてを妹に与えようとした。命を削り、時間を削り、人生そのものを切り刻んで、ただ華を生かそうとした。
――だが、守れなかった。
その悔恨が、梵寸を突き動かしてきた。甲賀の里で血に染まる依頼をこなしても、心は虚ろであった。彼が生きる理由は己の欲望ではなく、過去から逃れるためにすぎなかった。
けれど今――華はここにいる。あのぬくもりが、再び掌に宿ろうとしている。
もしやり直せるのなら、今度こそ守る。
どのような運命が立ちはだとうとも、この命に代えても。
冷たい川の流れの中、梵寸の胸には静かに、だが烈しい決意が芽吹いていた。




