第二十八話 鬼塚鉄牛、破軍衆の影を背負う巨漢
張り詰めた静寂を破ったのは、畳の軋む音だった。
店の奥から、ふてぶてしい体躯を揺らして現れたのは黒縄屋の主人――黒縄藤蔵である。
肥えた体に似合わぬ鋭い眼光で、床に倒れ伏した桐山を一瞥するや、商人は短く息を呑んだ。
「……小僧、只者ではないな。桐山左馬之助は吉岡派の弟子。それも、神気を扱える真境に達した男だぞ」
ただの門弟ならば武芸好きの町衆と大差ない。だが“真境”に辿り着いた者は流派が誇る武人。命を懸けた戦場でこそ輝く存在だ。
その桐山を瞬時に沈めた梵寸の力量に、黒縄藤蔵はただならぬ気配を感じ取っていた。
彼は低く呟き、背後に声を投げた。
「――先生、頼みます」
その瞬間、座敷の奥から、地を震わせるような重い足音が近づいてくる。畳を踏みしめるたびに、床板が悲鳴を上げるかのようだった。
やがて現れたのは、巨岩を思わせる体躯の武辺者。
黒縄屋最強の用心棒――鬼塚鉄牛である。
炎に焼かれたような肌、丸太のように太い両腕。武の道に生きる男が纏う威圧は、ひと目で常人のそれではないと分かる。
鬼塚はまず、倒れた二人を無造作に眺め、それから梵寸を真っ直ぐに見据えた。
「……子供相手に手を汚す趣味はない。今のうちに小娘を置いて立ち去れ」
岩を砕くような低声が店内を震わせる。
しかし梵寸は一歩も退かない。瞳に宿した冷ややかな光は、年若き顔立ちに似つかわしくない威を放っていた。
「子に見ゆるは皮の仮初め。我が内に棲むは、阿修羅の境地ぞ」
その言葉に、鬼塚の眼が僅かに細められる。
「ほう……阿修羅だと? 忍びの者が到達できる最高の境地の一つを自ら名乗るか」
そして大地を震わせるような豪快な笑い声が店に轟いた。
「がははははっ! ならば俺はどうだ? もしお前が阿修羅なら、俺は剣聖か剣神にでもなるのかよ!」
笑いながらも、鬼塚の視線は梵寸を値踏みするように揺れない。その子供じみた姿から一向に怯えを見せぬことに、むしろ妙な気味悪さを覚え始めていた。
「……童の姿でありながら動じぬか。だが俺は破軍衆の鬼塚鉄牛。剣士の上位の境地にある。戦場で死線は幾度も越えてきた。――本当にやる気か?」
挑発を孕んだ言葉。
梵寸はその名を耳にして、わずかに息を呑んだ。
「破軍衆の……剣士だと?」
破軍衆――京の南、伏見を拠点とする浪人集団。士官の道を失った数千の兵が群れ、都の旧勢力を駆逐しようと蠢く新興勢力である。
数においても凶暴さにおいても、いまや京最大の兵力。残虐をも辞さぬその振る舞いに、京の民は日夜怯えて暮らしている。
だからこそ正道七武門が総力を挙げて彼らを都に入れぬよう防ぎ続けているのだ。その一角を担うのが、先の吉岡派であった。
その吉岡一門の弟子・桐山が、破軍衆の資金源である黒縄屋と繋がっていた――。
梵寸が驚きを隠せなかった理由はそこにあった。
しかし彼はすぐに冷静さを取り戻し、唇の端に薄笑いを浮かべる。
「破軍衆の剣士ならばなお結構。一人であれど討ち取れば、京の治安維持の一助となろう。外道の剣士など、恐るるに足らぬ」
静かなる声ながら、その言葉には場の空気を凍らせるほどの重圧が宿る。
鬼塚は不意に背筋を冷気が走るのを覚えた。戦場を幾度も越えてきたこの身で、小僧ひとりに冷や汗をかかされるとは。
「な、何だと……俺が、こんな小僧ごときに……?」
理性は笑い飛ばそうとする。だが本能は、目の前の存在を侮ってはならぬと警鐘を鳴らしていた。
鬼塚は深く息を吐き、気持ちを立て直す。そして無骨な手で刀の柄を握りしめ、静かに抜き放った。
刃が走る音が、黒縄屋の空気を一層鋭くする。
梵寸もまた、眼光を鋭く細めた。
黒縄屋の薄闇にて――今まさに、一撃必殺の火花が散ろうとしていた。




