第二十七話 桐山、再び相まみえる
東山の路地裏には、なお黒縄屋の屋敷から立ちのぼった煤煙が漂っていた。
梵寸は華を抱きかかえつつ、背後に追っ手の気配を感じ取る。石畳を踏むたびに瓦礫が砕け、乾いた音が闇を裂いた。
先頭に現れたのは、息を荒げた山田源次郎である。
頬には数日前の一撃の痕が赤々と残り、敗北の屈辱に顔を歪めていた。だが「夢隠し」の術により、恐怖と畏怖の記憶は薄れ、怒りと羞恥だけが胸を満たしている。
「梵寸ッ! こうなったら華もろともやってやる!」
怒声と共に刀を振り下ろす。
だが迎え撃つ梵寸の眼差しは、十二歳の姿に不釣り合いな落ち着きをたたえていた。
「――戯け者め」
短刀が闇に閃き、次の瞬間、山田は肩を撃たれて地に崩れ落ちる。刀は石畳に転がり、甲高い音を立てた。
「痛ぇ……梵寸、てめぇ……!」
這い上がろうとするも、膝は震え、恐怖が滲み出す。二度も打ち負かされたという事実を、心が受け入れられない。
「桐山様ッ! こいつを……叩き潰してください!」
絶望にすがる声が夜を震わせた。
瓦礫を踏みしめ、姿を現したのは吉岡派の弟子・桐山左馬之助。
山田とは比べものにならぬ鍛錬を重ねた体躯と、鋭い眼光。腰の長剣を抜き放つや、路地の空気が一層張り詰めた。
「なるほど……貴様が梵寸か。童にしては威勢がよい」
嘲りの声。だが彼もまた「夢隠し」の術により、過去の敗北を忘れていた。己がこの小僧の前に屈した事実など、夢にも思い出せぬ。
梵寸は華を庇いながら、一歩進み出て告げる。
「童と侮るは勝手よ。じゃが、その侮りこそ命を縮める毒ぞ……」
しゃがれを帯びた声音は、老爺のごとく深く、冷たかった。十二歳の貌に七十九年の修羅が同居する異様さに、山田は思わず息を呑む。
しかし桐山は鼻で笑い、刃を構えた。
「小僧相手に秘技を使うまでもなし。この長剣で叩き斬ってくれる!」
鋼の閃きが走る。踏み込みは鋭く、風を裂いた。
山田の目には、桐山が圧倒する姿が鮮やかに映った。
だが、梵寸の瞳は揺るがなかった。
視線はただ一点、踏み込みの瞬間を射抜いている。
「……遅い」
低く呟いた声と同時に――。
「ぐがっ……!」
梵寸の拳が閃光のごとく顎を撃ち抜いた。
音を置き去りにした一撃。ごりり、と骨の砕ける音が路地に響く。
数本の歯が血と共に宙を舞った。
「桐山様ッ!」
山田の絶叫。
桐山は糸の切れた人形のように崩れ落ち、長剣を取り落とした。
路地に静寂が訪れる。
犬の遠吠えが、どこかで虚しく響いた。
梵寸はゆるりと短刀を下ろし、土埃を吸い込むように深い吐息を漏らす。
「……これしきか。七十九年を越えてなお、我が道は果てぬ」
その声音には勝利の歓喜ではなく、老境の達観が漂っていた。
戦いは続く。だがこの場において、勝敗は既に決していた




