第二十六話 影走る救出、東山の夜
「お梅さん、華はどこに?」
梵寸はお梅の破れた衣の綻びを整えると、
優しく手を添えて起こした。
「山田は……黒縄屋に売ると言っていた……。東山、雲居寺の近くの路地裏にある店さ……。私はいいから……華を……華を助けておくれ!」
お梅の体は震え、立ち上がることすらかなわぬ。だが彼女の言葉は、自らを顧みず華を思う一心に貫かれていた。その姿は梵寸の胸を深く打ち、怒りと決意を燃え立たせた。
「承知した。だが必ず戻る。だからお梅さんは……ここで待っていてくれ」
梵寸は頷き、夜陰に紛れて東山へ向かった。街の灯が揺れる路地を抜け、暗い石畳を踏みしめる。やがて、黒縄屋の屋敷が闇に浮かび上がった。
◇◇◇
門前には数名の使用人が立ち、周囲を監視していた。夜更けにもかかわらず、彼らの眼差しは獲物を狙う獣のように鋭く、よそ者を一人も通すまいと構えている。
だが梵寸の歩みは風に等しく、気配は存在せぬも同然であった。十二歳の肉体でありながら、齢七十九にて積み重ねた修羅場の経験がその身に宿っていた。
『正面突破は愚策……まず華を救う。その後に報いを与えればよい』
梵寸はそう胸中で呟くと、音もなく屋敷の裏手に回り込む。闇に包まれた廂の下をすり抜け、やがて灯火の揺らめく一室を見つけた。窓越しに覗き込めば、そこには必死に抗う華と、無情に押さえつける山田源次郎の姿があった。
「逃げられると思うな、小娘……」
山田の手が華の腕を掴み、苛立ちに任せた平手がその小さな頬を打ち据える。華は呻き声もなく崩れ落ち、瞳から光を失いかけていた。梵寸の胸を怒りと焦燥が焼き、血の温度が一気に上がる。
『山田……華に触れること、この世の終わりと知れ……!』
彼は役小角の里で授かった短剣を抜き放つ。その刃は月影を映し、闇の中で一条の冷光を放った。梵寸の身体は影そのものと化し、音も気配も残さずに忍び込む。使用人たちの視線の隙間を縫うごとく、一歩ごとに夜闇へと溶けていった。
やがて華の傍らへたどり着く。気配を察した山田が振り返るより早く、梵寸は華の名を呼んだ。
「華……もう大丈夫だ。わしが連れ戻す……!」
涙に濡れた瞳が兄を映す。その瞬間、華の心の堰は決壊した。小さな身体は梵寸へ飛び込み、細い腕で必死にしがみつく。
「にいに……! にいに……! うわあああああっ!」
嗚咽とともにあふれる安堵と恐怖。梵寸はその背をしっかりと抱き締め、胸に響く鼓動で応える。
「さあ行くぞ、華――!」
二人は影に紛れ、脱出を試みた。だがその刹那――。
「梵寸! てめえ……生きて帰れると思うな!」
怒声が夜を裂く。山田が刀を抜き放ち、駆けつけた黒縄屋の使用人たち十数人が灯火を背に刃を光らせた。東山の石畳に、影と刃が交差する。夜風が木々を揺らし、戦いの幕は静かに上がった。
「俺に逆らいやがって!この場で斬り殺してやる!」
梵寸は華を庇い、低く構えた。声には揺るぎない威が宿る。
「愚か者ども。わしを誰と心得る。忍びの極みに到達した梵寸が来た以上――汝らの刃は届かぬ」
その言葉に一瞬、場の空気が張り詰めた。十二歳の貌に不釣り合いな威厳。七十九年の修羅場を経た魂が、幼き肉体から放たれていた。
「梵寸を殺せ!」
山田の号令とともに、四方から刃が迫る。梵寸は華を後ろへ押しやり、低く跳躍した。短剣が閃き、最も近くの使用人の手首を打ち払い、刀を落とさせる。地に転がる金属音が夜を裂いた。
「ひるむな! 乞食の小僧一人だ!」
「おう!」
使用人たちは叫び、次々と斬りかかる。梵寸は身を沈め、影のように走り抜けた。刃が空を裂き、火花が散る。十二歳の肉体は軽く、俊敏さは風そのもの。七十九年の知恵と経験が、その一挙手一投足を導いていた。
「……たわけ。剣は振るうものにあらず。決するものぞ」
梵寸の声が低く響き、次の瞬間、二人目の使用人が呻き声を上げて膝を折った。急所は外しつつも、呼吸を奪う一撃。命は奪わず、だが立てぬよう徹底した技であった。
「ば、化け物め……!」
恐怖に駆られた声が夜気に溶ける。だが山田は退かぬ。狂気を帯びた眼で梵寸を睨み、刃を向ける。
「梵寸ッ! こうなったら華もろともやってやる!」
「汝ごときに、我が妹を穢させぬ!」




