第二十五話 影の刃、京に潜む
「華を……連れ去ったのは……吉岡道場の山田源次郎と桐山左馬之助です……」
小吉は、血に濡れた身体を必死に支え、荒い息の合間に名を告げた。傷口から滴る血が掌を赤く染める。梵寸の眼差しには、怒りの炎が徐々に燃え広がっていった。
「あやつらか……許せぬ……!」
拳を握りしめる音が、静まり返った家に響いた。
長らく追い求めてきた冷気体質の治療の希望――その糸口を踏みにじられたのだ。喜びは瞬く間に絶望に変わり、怒りは理性をも揺さぶった。
「俺を散々打ち倒した後……お梅さんが来たんだ……華が山田に連れ去られたと知り……ゴホッ、ゴホッ……吉岡道場へ助けに向かった……」
小吉の言葉に、梵寸の血は逆流するかのように沸き立った。
華を攫ったのが、よりにもよって山田源次郎――。その名を耳にした瞬間、怒りは頂点へと達する。
「奴らは、一線を越えたな……。場合によっては、吉岡一門ごと葬ってくれよう」
梵寸は役小角の隠れ里で得た傷薬・癒刃散を小吉に振りかけ、静かに立ち上がった。向かうは、京の武門の象徴――吉岡派である。
◇◇◇
戦乱の京、四条坊門の雑踏を抜けると、吉岡道場の門は威風堂々とそびえていた。
将軍家に仕えた吉岡直元の剣術はいまなお健在にして、その一門は京の剣客たちの頂点に君臨する。町人たちは囁く――
「一騎当千の門弟どもが刀を振るうたび、京の空気すら戦場のごとく震える」と。
梵寸は正面に立ち並ぶ門弟を一瞥した。だが正面突破は愚策。人質を取られる危険は避けねばならぬ。彼は横手の薄暗い路地を抜け、密やかに屋敷へ近づいた。
『甲賀忍法第一ノ型――闇影潜行』
気配を消し、影のごとく移動する秘技である。
壁を伝い、静かに屋敷へと忍び込む。やがて、かすかな呻き声が梵寸の耳を打った。導かれるように足を進め、小屋の窓から覗き込む。
そこには――お梅が倒れていた。
衣は乱れ、顔は赤く腫れ上がっている。
「お梅さん!」
梵寸は窓を押し開き、静かに滑り込む。お梅はわずかに目を開き、涙に滲む瞳で彼を見た。
「ぼ、梵寸……来てくれたのか……。すまないね……華を助けに来たのに、このざまだよ……」
床には濃く湿った染みが広がり、空気には鉄臭い匂いが漂っていた。梵寸は彼女の破れた服を整え、焦りを隠さず問いかける。
「大丈夫か……お梅さん! 怪我は……!」
母にも等しい存在の無惨な姿に、梵寸の胸は裂かれる思いであった。
「梵寸……心配いらないよ。顔を一発張られただけさ。お返しに散々噛みついてやったから、奴らもたまげたろうよ」
その勝ち気な言葉に、梵寸はかすかに安堵の息を漏らす。彼女が心まで折られていないことが救いだった。
だが、お梅の声はすぐに震えに変わる。
「それより……華を助けておくれ。山田に連れて行かれたんだ……。早くしないと……華が……売られてしまう……」
「な、なんと……! 華が……売られるだと!」
人身売買――それは国禁の重罪。
正道を掲げるはずの吉岡一門が、その闇に手を染めていたとは。梵寸の理性をも揺るがす衝撃が、胸を打った。




