第二十四話 血に濡れた帰還
「――さらばだ」
洞窟に梵寸の声が響いた。その一言は、単なる別れではない。過ぎ去った日々と、これから待ち受ける修羅の世とを繋ぐ、覚悟の響きであった。
役行者の隠れ里に滞在したのは、わずか数日。されど胸に去来するものは、幾年の旅を終えたかのように重かった。
彼は剛蓮と静雅に、己が知る秘伝の一端を授けた。
神気を巡らす法、呼吸の理、そして道を誤らぬための心得。
それを受け止めた二人の瞳には、若きながらも確かな決意が宿っていた。
「継尊様、せめて雷丸と霞をお連れください。我らの力では、あなたを待つ暗き未来に抗えぬやもしれませぬ」
剛蓮の声には必死の響きがあった。だが梵寸は首を振る。
「いや。お前たちの言はもっともだが、二人はここに残せ。これからの日ノ本は修羅の世となる。群雄割拠の果てに、鬼のごとき男が現れる。その名は織田信長――武力で天下を握らんとする怪物よ」
二人は息を呑んだ。梵寸の瞳には、未来を知る者の冷たき光が宿っていた。
「抗うには、この里全体を鍛え直さねばならぬ。お前たちが力を尽くせば、必ず後に役立つ。雷丸も霞も、その支えとなろう」
静雅は唇を噛みしめ、やがて深く頭を垂れた。
「承知いたしました。ならば我ら、この命をかけて里を守りましょう」
その言葉に梵寸はようやく微笑む。
未来を知るということは、便利であると同時に、背負わねばならぬ重荷でもあった。
「継尊様――!」
合唱のように響く人々の声が、別れの時を告げる。
梵寸は振り返らぬ。ただ一度、天を仰ぎ、胸に誓いを刻んだ。
――華。必ず救う。
そして彼は京を目指し、風となって駆け出した。
◇◇◇
往路では半日かかった道のりも、復路は違った。
神気を巡らせた今の梵寸は、一歩ごとに大地を蹴り、森の木々を流星のように置き去りにしていく。
風が頬を打つ。だが、その冷たさすら胸の焦燥を冷ますことはできなかった。
役行者の霊薬で傷ついた丹田を癒すため、帰還を一日遅らせざるを得なかった。
判断は正しかったはず。己が倒れれば、救うべきものすら救えぬのだから。
だが――その一日の猶予が、取り返しのつかぬ事態を招いたのではないか。
「遅れたのは……わしの過ちか……?」
声にならぬ問いが喉に刺さる。心臓が胸を乱打し、鼓動が耳を揺さぶった。
過去の記憶が蘇る。守れなかった命、果たせぬまま散った約束。
その影が、梵寸の背を追い立てていた。
やがて東の空が朱に染まりはじめる。朝焼けに照らされた京の町並みが広がり、見慣れた家の影が視界に入った。
胸に渦巻くのは、期待と恐怖。
「華! 小吉! 帰ったぞ!」
戸を開け放つ声は、喜びと安堵を同時に孕んでいた。
しかし――。
目に飛び込んできたのは、血に濡れた地獄の光景であった。
藁の上に、少年が倒れていた。
小吉ーー。
衣は裂け、全身に打ち据えられた痕が刻まれている。身体は異様に熱く、震えが止まらなかった。
「小吉!」
梵寸は駆け寄り、抱き起こす。腫れ上がった顔から、掠れた声が洩れた。
「し……師匠……」
瞼の隙間から涙が零れ、頬を伝う。
「おい、何があった! 華はどうした!」
必死の問い。だが小吉は首を振り、震える唇で言葉を絞り出した。
「俺を……殺してください……」
「……なに?」
「言いつけを……守れなかった……! 俺は……弟子失格だ……だから……!」
叫びは嗚咽に変わり、部屋に響いた。
小吉は拳を握り、藁を爪で掻きながら涙を流す。
痛みよりも悔恨に苛まれ、己を許せぬその姿。
梵寸の胸は、鋭い刃で裂かれるように痛んだ。
――華に、何があったのか。
――なぜ小吉が、このように無惨な姿をさらしているのか。
答えを知るのが恐ろしい。されど聞かねばならぬ。
「小吉……華はどこだ。答えろ!」
それは怒号であり、また泣き叫ぶ悲鳴でもあった。
沈黙。小吉の唇が震え、声にならぬ声を吐く。
やがて――。
「……華は……っ」
その瞬間、梵寸の胸を走った寒気は、死神の鎌のごとく鋭かった。
家を吹き抜ける風が血の匂いを運び、静けさが恐怖を増幅させる。
梵寸の拳は震え、爪が掌に食い込み、血が滲む。
――再び、失うというのか。
――今度こそ守ると誓ったはずなのに。
胸に刻まれた黄金の印が熱を帯び、脈打った。
まるで「逃げるな」と叱咤するかのように。
梵寸は小吉を抱きしめ、震える声で言った。
「小吉……お前を殺すものか。わしは師だ。弟子を斬るなど、決してせぬ」
その声には確かな力が宿っていた。
「だからこそ、すべてを話せ! 華はどこだ!」
その叫びが、血煙ただよう家にこだました。




