第二十三話 隠れ里の雷丸と霞
永禄十一年(一五六八年)、戦国の炎はいよいよ勢いを増していた。
京の町は焼け落ち、田畑は荒れ果て、街道には無残に打ち捨てられた屍が転がる。幼子の泣き声と母の嗚咽が交じり合い、嗅ぎ慣れてしまった血と煙の匂いが鼻を刺した。
梵寸はその地獄絵図を見下ろす山道を歩いていた。胸に渦巻くのは怒りと無力感、そして――固き決意。
「……救えるものなら、救わねばならん」
彼が目指すは、修験の祖・役小角が残したとされる隠れ里。外界と断たれ、薬草と清水に守られた静謐の地である。そこには医療の秘伝が伝わり、戦乱に傷ついた者を癒す力が秘められていた。
懐柔を望んだのは織田信長。覇道を歩むその男は、天下布武のために医療の力すら手中に収めんとした。
だが、梵寸の思いは異なっていた。
戦乱に呻吟する民を救うには、里の知恵こそ必要。軍略のためではなく、慈悲のためにその力を用いたかったのだ。
◇◇◇
梵寸は幾度となく隠れ里を訪れた。
「京の菓子じゃ。口に合えばよいが」
「ふむ……そなたも甘味を嗜むか。変わり者よのう」
剣を交えて汗を流し、夜は篝火を囲んで未来を語る。
「戦乱を終わらせねばならぬ。覇を唱える強者が現れるのも道の一つ。だが力に知恵が伴わねば、また同じ地獄が繰り返される」
熱を帯びるときもあれば、穏やかに諭すときもあった。梵寸の真意は、確かに里の人々の胸へ届きつつあった。
◇◇◇
数か月の後、夕暮れの刻。
家長の前鬼雷丸と後鬼霞が梵寸の前に現れた。
雷丸は剣を帯びた精悍な男。言葉は直截にして潔い。
霞は快活で感情豊か、されど芯に強き意志を宿す女であった。
「梵寸殿、そなたの心遣い、確かに我らの胸に届いた。里の者たちも前向きに考えておる。覇者・織田信長の旗の下に入ること、悪くはあるまい」
「ええ……未来を拓くためなら」
霞は柔らかに微笑み、その瞳に希望を宿した。
梵寸の胸は温かく燃えた。
ようやく一歩、世を変える力が繋がる――そう思えた。
◇◇◇
だが運命は、またも彼を試す。
松永久秀より急報が届いた。
「甲賀に戻れ」――理由も告げられぬまま。
従うしかなく京を離れた梵寸が、後に耳にした報せは――。
ーー隠れ里、皆殺しの報。
信じられなかった。あの穏やかで優しい者たちが、一夜にして滅んだなど。雷丸も霞も、屍と化したと。
「……おのれ、久秀」
怒りが血を沸かせ、幾度となく暗殺を夢想した。
だが、彼の手を止めさせたのは一つの知らせであった。
――医聖・曲直瀬道三が、隠れ里の秘伝を解き、民を救っている。
久秀は病に倒れた折、道三に助けられ、その縁で秘伝を渡したという。結果として無数の命が繋がったのだ。
「わしの面目は潰れた。だが……民が救われるのなら、それでよい」
そう己を納得させ、復讐を封じたのであった。
◇◇◇
――そして今。
死に戻った十二歳の梵寸の前に、かの二人が立っている。
雷丸と霞。死んだはずの友が、まだ無垢な姿でそこにいた。
「いざ、参るぞ!」
雷丸が木刀を振りかぶる。
「一撃くらい入れねば、後継者の面目が立たぬ!」
霞も横から踏み込み、瞳を輝かせた。
「二人同時ならどうかしら!」
しかし梵寸は悠然と構え、雷丸の斬撃を受け止め、霞の突きをひらりとかわす。
「くっ、まだ駄目か!」
「屈辱よ!」
霞は地を叩き、唇を噛む。
梵寸は朗々と笑った。
「ぬはは、おぬしらとわしとでは修羅場の数が違う。千度は死にかけ、千度は修羅を踏み越えた。そう容易く埋まる差ではないぞ」
二人は呆然と見上げ、里の大人たちは温かく見守っていた。
「継尊様も、歳はそう変わらぬはず……」
雷丸と霞の視線に、梵寸の胸はふと衝かれた。
――死んだはずの友が、今ここに生きている。
『今度こそ……必ず救う』
彼は心の奥で強く誓った。
二度と悲劇を繰り返させぬ。
雷丸も霞も、役小角の里も。
己のすべてを賭して守り抜く――そう決意したのであった。




