第二十話 呪詛との死闘と月呪ノ業
洞窟の奥に静けさが戻ったのは、梵寸が一冊目を閉じた時であった。その秘伝書には月呪ノ業の治療方法は記していなかった。
修験道の秘奥、霊丹の製法を脳裏に刻みつけた彼の瞳は、なお鋭く燃えている。丹田を鍛え直し、力を取り戻す未来が確かに見えた。だが──彼の前には、まだもう一冊の書が残されていた。
それは光を拒むように、わずかに黒ずんだ気を放っていた。役行者の強力な結界の痕跡が未だ息づいているのだ。
剛蓮と静雅は外で待っている。今この瞬間、この試練に挑むのは梵寸ひとり。
「……行くか。甲賀衆惣領が、恐れに屈するわけにはいかぬ」
梵寸は深く息を吐き、手を伸ばした。
指先が書の表紙に触れた瞬間、洞窟の空気が一変する。冷気が奔り、符が一斉に震え、闇そのものが形を得たかのように渦巻き始めた。
「ぐっ──おおおおおっ!」
声を上げた時には、すでに遅かった。
役小角が仕掛けた呪詛は容赦なく梵寸の身体へ流れ込み、血管を逆流する黒き炎のように内側から肉を侵し始める。肌は斑に変色し、骨の髄まで軋む。膝が崩れ落ち、石床に手を突いた。
「これは……闇の業火か……!う、うおおおおおおおおっ!」
体中を走る激痛に歯を食いしばる。目と鼻から血がにじむ。脳裏には過去の敗北、死に戻りの記憶が蘇る。
織田信長の冷酷な眼差し、仲間を救えず消えた夜、華の苦悶の叫び。
呪詛はそれらをえぐり出し、心を砕こうとする。
「わしは……甲賀衆惣領、梵寸じゃ! こんな業火に屈してなるものか!」
黒き瘴気が全身を覆い尽くそうとするその刹那、梵寸の丹田から赤々とした気迫が噴き上がった。
雷鳴のごとき闘志が体を満たし、呪詛とぶつかり合う。
洞窟は軋み、護符が次々と剥がれ落ちる。地鳴りのような轟音が、密やかな聖域を揺るがした。
闇と光が拮抗する時間は、果てしなく長く感じられた。
爪の先が黒く枯れ、血が逆流するような感覚に、梵寸は吐き気を堪える。だが瞳は決して曇らない。
「華を救い……甲賀衆を救い……日ノ本に平和をもたらすのだ! わしがこの乱世を終わらせ、新たな時代で藩主となるの……だ! その日まで、絶対に死ぬわけにはいかん! いかんのだ!おおおおおおおおっ!」
叫びは呪詛を裂く刃となった。
黒き炎は少しずつ押し返され、皮膚を覆った染みが薄れていく。
しかし呪詛もまた古の遺法。容易く退くものではない。血反吐を吐きながら、梵寸は気迫をさらに研ぎ澄ませた。
「わしの邪魔をするでない!退けえええええええええっ!」
梵寸の体内で、呪詛と神気が激しくせめぎ合い、雷鳴のような衝突音とともに火花を散らした。
その瞬間、全身の血管が裂けたかのごとく鮮血が噴き出し、彼は膝を折り、前のめりに地面へと崩れ落ちた。
冷たい土が頬を打ち、なおも体内では二つの力が渦巻き、彼の意識を闇へと引きずり込む。次第に梵寸の体は冷たくなってきた。
だが、その瞳の奥には、わずかに残る闘志の光が、微かに、しかしまだ確かに燃え続けていた。




