第十七話 禁じられた蛇穴
大和の山奥に、役小角の隠れ里と呼ばれる地がある。
その由来は、数百年前まで遡る。
修験の祖・役小角。人々から役行者と畏れられた男が、山を渡り歩いていた折のこと。
彼は里人を脅かす一匹の大蛇に出会った。常の獣ではない。数百年を生き、血肉を喰らい続けた末に精霊を宿し、毒を吐き、山そのものを支配する怪異と化していた。
小角は三日三晩の祈祷をもって大蛇を退け、深き地の穴に封じ込めた。
その跡地に築かれたのが、この隠れ里である。
以後、里人は掟を守り続けた。
――禁じられし穴へ近づいてはならぬ。そこに眠るは人食いの大蛇。
だが同時にこうも囁かれた。
――長き命を生きた獣は霊薬を宿す。その血肉は神気を呼び覚まし、人を超える力を授ける。
恐怖と欲望。その狭間で、禁忌は代々ささやかれ続けてきた。
◇◇◇
隠れ里には二つの家があった。
一つは前鬼家。もう一つは後鬼家。
古より役小角に仕えた鬼神の名を冠する二家は、里を護る柱であり、互いに競い合う宿命を背負っていた。
その跡継ぎが二人。
前鬼家の嫡男・雷丸。後鬼家の娘・霞。
いずれも齢わずか十二。だが同輩を遥かに凌ぐ才覚を持ち、幼くして術と武を修めていた。
幼い二人は焦っていた。大和の覇者は興福寺。寺の言葉ひとつで国衆すら首を垂れる時代、隠れ里も例外ではない。
発言権を得るには、ただ強さが必要だった。
「某たちが大蛇を討ち、その霊薬を得れば……神気は増し、誰もが認める強者となれる」
雷丸の瞳は野心に輝く。
霞もまた拳を握りしめた。
「ええ。我も強くなりたい。このままでは、興福寺に飲み込まれて里の未来がないもの」
幼さゆえの驕り。責務の重圧。
その二つが、彼らを禁じられた穴へと向かわせた。
◇◇◇
封じられた地下の空洞は、異様な静けさに満ちていた。
だが奥底からは湿った熱気が立ち上り、鼻を刺す腐臭が漂っている。
雷丸は震える手で刀を握りしめ、霞は印を結び神気を巡らせる。
二人の胸は早鐘を打ち、恐怖を雄弁に物語っていた。
「……出てこい、大蛇……!」
雷丸の叫びに応えるかのように、大地が轟いた。
次の瞬間、土壁を突き破って姿を現したのは、二十メートルを超える漆黒の巨蛇。
眼は血に濡れ、口からはどす黒い涎を垂らす。
かつて役小角に退けられた怪物は、いまなお生き永らえ、飢えに狂っていた。
◇◇◇
雷丸の雷撃は巨蛇の鱗を焦がし、霞の放つ鎌風は巨体を切り裂く。
だが傷は浅く、巨蛇は怒り狂って尾で地を薙ぎ払った。
二人は宙に舞い、壁に叩きつけられる。
「ぐはっ……!」
「きゃああっ!」
若き二人には、あまりに重い相手だった。
巨蛇の眼には、子供などただの餌にすぎぬという残酷さが宿っている。
怪物は穴を破って里へと這い出した。
家屋はなぎ倒され、悲鳴が響く。牙が人を貫き、尾が人々を叩き潰す。次々に血が地を染めた。
しかもこの日に限って、家長たちは興福寺へ赴いており不在だった。
里を護る柱を欠いた今、抵抗は虚しく崩れ去る。
「だめだ……もう終わりだ……!」
「誰か……誰か助けてくれ……!」
人々の絶望の叫びが夜空に満ちる。
雷丸と霞は血に塗れ、ただ見つめることしかできなかった。
◇◇◇
その時だった。
木々の影から、稲妻が走った。
――甲賀忍法・第三ノ型《雷影突刃》。
影より飛び出したのは、一人の乞食の子供だった。
刃が雷鳴のごとく闇を裂き、巨蛇の頭部に突き刺さる。
大蛇は痙攣し、のたうちながら地を揺らした。
その巨体が最後の抵抗を見せるより早く、少年は喉奥にこみ上げる熱を抑えきれず、真紅の血反吐を吐いた。
丹田が灼けるように痛む。
それでも口元を歪め、笑うように表情を作った。
――甲賀の忍びとして、最後まで死を偽るために。
地が傾き、視界が黒く沈んでいく。
遠くでざわめきが聞こえた。
「し、死んだのか……?」
「いや、まだ息が……!」
「どっちでもいい。あの大蛇を倒したのは確かにあの男だ」
「すげえ……一撃だったぞ……!」
ざわざわとした声が、水面のように揺れる。
梵寸は薄く瞼を開いた。視界は赤黒く霞み、人々が輪を描くのが見える。
五十人近い群衆。その半数は傷を負い、血に染まっていた。
大蛇と戦っていた男たちは、恐怖と安堵の狭間で肩を震わせている。
梵寸が倒れ伏す中央。巨大な蛇の死骸はなお痙攣していた。
口から泡混じりの黒血を垂らし、毒々しい臭気を撒き散らす。
――やはりただの獣ではない。
梵寸は薄れゆく意識の中で悟った。
『これは伝説の鬼蛇……千年生きた大蛇か。もっと慎重に戦うべきであった……』
鬼蛇とは千年を生きた怪物。牙は毒気により相手の経脈を腐食させ、その心臓には仙丹が宿る。
仙丹を得れば解毒能力が高まり、人の身を超える力を得ると伝えられていた。
「この男を助けろ!」
霞が血塗れの梵寸へ駆け寄った。顔には恐怖が残るが、それでも命を救おうとする眼差しがあった。
雷丸も震える手で、梵寸の体を抱き上げる。
――里を救ったのは、一人の乞食であった。




