第百三話 朽ちゆく京の刃、梵寸は月下に立つ
風が吹いていた。夏の名残を引きずる湿り気と、焼けた土の匂いが京の東門に重くのしかかる。
追い払ったはずの外道破軍衆の足跡が、まだ道に残っていた。
梵寸、吉岡直賢、吉岡泰清の三名が東門に辿り着いたとき、そこで目にした光景は、三人の胸を容赦なく締めつけた。
月光に照らされた石畳の中央で、吉岡直元が五本の剣に貫かれ、血に染まりながら倒れていた。
その傍らには、満月の光を浴びてなお蒼ざめる顔で泣き叫ぶ少年――直綱が膝をついていた。
「祖父上! いやだ……いやだ……!」
直綱の叫びは、ひび割れた瓦の上を滑り、夜空に吸い込まれていく。
少し離れた場所では、芦屋道玄と五人の精兵が薄笑いを浮かべてこちらを眺めていた。
陰陽師である道玄は、黒い衣を風になびかせ、その目に人を斬る冷ややかさを宿している。
横に立つのは武人・山本勘助。直元との一戦に横やりが入った不満が顔に浮かんでいた。
「祖父上! 祖父上!」
直綱が泣き崩れる横で、直賢が呟いた。
「……父上が、負けるはずが……」
直賢は京で名を馳せた父の背中を知っていた。幼い頃から、その強さと気迫は武の化身そのものだった。
だからこそ、目の前の光景は理解を拒んだ。
「父上! 敵の人質となった直綱が悪いのです! 直綱を……殺してくだされ!」
震える声で直綱が叫ぶ。涙に濡れた眼は、幼さゆえの残酷さと、家を守ろうとする必死さが混じっていた。
その一言で、梵寸はすべてを察した。
直綱が人質にされ、直元はその隙を突かれたのだ。
梵寸は直元に近づき、静かに膝をついた。
「……遺言は……」
直元は、苦しさの色を見せまいとするかのように、呼吸を整え、小さな声で語り始めた。
「後継者は……直賢へ……鍛錬を怠らず……京を守れ……」
「は! 父上! 必ず吉岡派を盛り立ててみせます!」
直賢の声は震えていたが、そこには確かな覚悟があった。
直元は、その姿に安心したように微笑んだ。
「正道七武門は……宗派、大名の争いに関わらぬと……決まっておった……巻き込んで済まなかったの」
梵寸は直元に頭を下げた。
「……いや……梵寸どの。詫びるのは……わしの方じゃ」
直元は薄く笑った。
「我らの剣は……民を守るためのもの……宗派の争いのためではない……
わしの死が……京の民の犠牲を減らすなら……それでよい……
お前の責ではない……梵寸どの……」
梵寸は深く頷いた。その小さな体には、老練な魂が沈むように宿っていた。
「直元殿。ならば、わしの持つ力を見せよう。
そしてわしは……吉岡派に大きな借りを作った。
今後、どのような事であろうと一度だけ、望みを叶えようぞ。
――そこでわしの力を見ているが良い」
直元はフッと笑みをこぼした。
梵寸は立ち上がり、外道破軍衆に向けて歩き出す。
「お前たち……見ておくが良い……あれこそ本物の武人ぞ……」
直元の言葉に、直賢も泰清も無言で頷き、梵寸の背中を見つめた。
◇◇◇
月光の下、梵寸は勘助、道玄、五人の精鋭の前に静かに立った。
風に乗る土埃の匂いが、場の緊張をさらに鋭くする。
梵寸は無言で掌をくい、と曲げて挑発した。
それを見た道玄の顔が紅潮した。
「無礼な小僧め……。精兵ども、殺せ」
精兵五人は全員、二段階・絶境。剣匠として名を馳せた強者ばかりである。
一人が梵寸の前に歩み出る。
「小僧、死ぬ覚悟はあるか。うははははっ! 武器もないのか」
嫌な笑みを浮かべ、顔を梵寸の前に寄せた。
「一撃入れさせてやるよ、うへへっ」
その顔を見た瞬間、梵寸の目に冷たい光が宿った。
「ならば……甘えさせてもらおうか。――ほれ」
右手で敵の左頬を張り、返す裏拳で右頬を張る。
その速さは、風が切れるよりも早く。
「ぶぉッ!」
大の男が回転しながら吹き飛び、背後の岩に叩きつけられた。
「な……!」
外道破軍衆は、一瞬息を呑んだ。童の腕力ではありえない。しかし梵寸は涼しい顔で立っていた。
「貴様ら、四人でかかれ!」
道玄が扇を前に突き出す。四人の精鋭が梵寸を囲み、剣を構えた。
「おうりゃあああ!」
四方同時の斬撃。梵寸は、斬られたと思われた瞬間、影のように消えた。
次の瞬間――四人全員の顔面に二発ずつ拳骨が叩き込まれ、四方へ吹き飛ぶ。
月光の下、砂が舞い、剣が石畳に散った。
梵寸は、風の中に一人立つ。その姿は童であり、同時に老練な武の化身でもあった。
◇◇◇
「梵寸殿は……童なのに、なぜあれほど強いのでしょうか」
直綱が震えた声で呟く。
直賢は唸るように答えた。
「分からぬ。だが――あやつは一人で西門の精鋭二百を一瞬で無力化し、さらには北門と南門の戦いにも介入して即終わらせた……。あれは……もう、人の域ではない」
泰清も思い返していた。かつて一度、梵寸と手合わせをした時、自分は童のような扱いのままいなされて終わった。
「……本当に、何者なのだ……あやつは」
◇◇◇
「これは愉快よ」
勘助が一歩前に出た。
月光に照らされたその顔には、武人としての高揚が浮かんでいた。
「直元との戦いに、策士風情が横槍を入れおって、残念に思っていたところよ」
その声音には武人らしい誇りがある。陰陽師である道玄とは違い、武人である勘助は、真正面からの戦いを好む男だった。
「勘助! 戯れ言は不要、早くやれ!」
道玄が怒声をあげる。
「言われずとも。今宵はついておる。素晴らしき武人二人と戦えるとはな。実に楽しき日よ!」
勘助は剣を抜き、梵寸に向けて踏み込んだ。
その踏み込みは重く、鋭く、夜気を裂くようだった。
梵寸は、わずかに首を傾けた。
その表情には、老人のような静かな諦観と、十二歳の童らしい無邪気さが入り混じる。
京の夜に、再び風が吹いた――。




