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乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第百一話 龍震王威、本能寺に轟く

京は炎に包まれ、泣く声と呻きが夜風を震わせていた。

梵寸は、焼け落ちる瓦の音を背に、本能寺へと急いでいた。あそこだけは絶対に失わせてはならぬ。そうすれば、来年、京の都を揺るがすあの悲劇の道筋も変えられるかもしれぬ。


焦げた匂いをかき分けて走る途中、前方の路地がざわめいた。武装した影——いや、百人規模の集団がこちらへ向かってくる。


「……む?」


梵寸が身構えると、先頭から太い声が響いた。


「梵寸どの!」


吉岡直元。

あの約束を交わした、誠の武人がそこにいた。


「我らは円城寺を引かせたあと、本圀寺を焼き討ちしようとしていた外道破軍衆と遭遇したのだ。そやつらから真の目的は本能寺の焼き討ちにあると聞いたから来たのだ」


彼らは、梵寸の要請どおり円城寺軍を引き返させ、本圀寺で外道破軍衆の策を知り、本能寺へ向かう途中だったという。


「円城寺の件、恩に着るぞ、直元どの」

梵寸は深々と頭を下げた。


だが次の瞬間、梵寸の表情はすぐに険しくなった。


「……都の被害は甚大じゃ。法華宗を裏切った三好と外道破軍衆が手を組み、法華宗の寺を次々と燃やしておる。わしの方にも本能寺を焼き討ちすると情報が入った。本能寺は——絶対に焼かせられぬ」


梵寸は深刻な事態になったと告げる。

吉岡直元は、息を呑み、それからゆっくりと頷いた。


「まさか三好が裏切ったとはな。許せぬ。我ら吉岡の剣は、京の民を守るための剣。宗派の争いではない。協力して本能寺の焼き討ちを阻止しよう」


百人以上の足音が、ただちに梵寸の後へ続いた。


本能寺に到着すると、すでに寺門は破壊され、僧兵の姿もない。延暦寺の僧兵はここを去り、すでに退いた後のようであった。


梵寸はすぐに布陣を決めた。


「寺門は四つ。わしが一つ、直元どのが一つ、残りを半分に分けて守る。良いな!」

「承知した!」


吉岡派の弟子たちが、煙の向こうへ散っていく。

梵寸と直元は、一瞬だけ視線を交わし、無言で頷いた。

だが、その静けさはすぐ破られた。


遠い闇の中で、蠢く影——

こちらを監視していた“何者か”がついに動き、ぞろぞろと軍勢を連れて各門前に現れた。


「あれは……外道破軍衆の軍勢だ!」


外道破軍衆の兵の数はかなり多い。吉岡派の六倍ほどいた。


「吉岡派よ、兵を引け! さもなくば——皆殺しにする!」

外道破軍衆軍師・芦屋道玄は開口一番叫んだ。


「我らは京の民を守るために剣を抜く者。兵力劣勢だからと脅しに屈する道理はない」

直元は一歩も退かず、平然と答えた。


「ならば吉岡派は今日で終わりよ……やれ」


道玄は手を上げると、戦は始まった。外道破軍衆の四つに分かれた軍は一斉に門の攻略にかかる。


西門を守る梵寸の前には二百。

南門を守る吉岡直賢ら五十と、北門を守る吉岡泰清ら五十の前には二百ずつ。

そして東門、吉岡直元の前には——

外道破軍衆の幹部・山本勘助と、五名の真境の達人を率いる芦屋道玄が立ちはだかった。


金属がぶつかる甲高い音。

武人の叫び声。

吉岡派は、わずか百余りとは思えぬ鋼の意地で、本能寺を死守し続けた。


梵寸の前には、なお二百名の外道破軍衆が黒い波のように押し寄せていた。

黒い甲冑に黒刀を帯びた指揮官が、悠然と歩み出る。

兜の奥から聞こえる声はひどく冷ややかだった。


「小僧よ。今なら逃げる機会をやろう。命だけは助けてやる」


黒い鎧を着た指揮官は梵寸が童と見下し、威圧をしてくる。なぜ、梵寸がたった一人で二百の軍の前にいるのかを考えていなかった。


「ほう……気前の良いやつじゃな」

梵寸は、鼻で笑った。

その薄ら笑いに、指揮官の口調がさらに冷たくなる。


「無駄死にか……やれ」


その一声で、二百の黒装束が刀を抜き一斉に梵寸へ駆けだした。二百の黒装束が、濁流のように梵寸へ殺到した。月光を梵寸の血の色に染め上げる。

外道破軍衆の兵たちは確信していた。この小僧は、今夜ここで死ぬ、と。


梵寸は静かに目を閉じた。

胸の奥、丹田の奥、もっと深いところ。

不動明王と交わした、あの約束が熱を帯びる。

ただ、民を護るために……威を放て。目を開いた瞬間、梵寸の体が微かに震えた。

それは、怒りではない。

慈悲の震え。

彼の丹田が、静かに神々しい光で輝きはじめる。


「……実はの。半年ほど修行を続けたおかげでな、丹田の強化が進んでのう」


その言い回しは、まるで「少し成長した」程度の気安さだった。

だが、周囲の空気が、重く淀み始めた。

風が止まる。

夜の虫の声が、ぴたりと途絶える。次に続いた言葉で、空気が一変する。


「一度くらいなら……天境の技を出せるようになったのじゃ。

——食らうが良い。《龍震王威りゅうしんおうい》!」


瞬間。梵寸の丹田から“何か”が爆ぜた。

それは、龍の息吹。

地脈を伝う、天地の脈動そのもの。

大地が息を吸い込み、そして吐き出す。地鳴り。

轟音ごうおん

大地そのものが巨大な龍の背のように波打ち、揺れ、唸った。

石畳が跳ね上がり、土が噴き出し、夜空に砂煙が舞う。


その振動は、ただの地震ではない。

龍の咆哮が、魂を震わせる。


「う、うおおおおおお!?」

「立っていられぬ……!」

「な、なんだこの揺れは!」


刀を抜き、駆けていた外道破軍衆は、まるで風に吹かれた落ち葉のように崩れ落ち、揺れる地面にのたうった。足が絡まり、刀が手から離れ、兜が転がる。


それだけではない。

地響きの中に潜む“龍の威圧”が、二百の武者の精神を一瞬で叩き潰した。


それは、殺意の奔流を、慈悲の壁で押し返す力。

弱い者から順に白目をむいて失神した者。失禁した者。中には呼吸を忘れ、そのまま泡を吹いて倒れた者すらいた。

ただ、立ち上がれぬほどに、心と体を折られる。


「この大地の揺れ……強大な神気の爆発! あれは古文書で見た伝説の……龍震王威ではないのか!」


芦屋道玄が目を剥いて叫ぶ。

直元の声さえ、震えていた。


「……あやつ、とてつもない武威を感じたが、そこまでの……達人だったのか……ふっ」


吉岡直元は剣を地に刺して膝をつきながら、悔しさか歓喜かわからぬ笑みを浮かべていた。

彼の体も、余波でよろめいていたが、目は輝いていた。


やがて揺れが止むと、本能寺西門の前には——

二百名の外道破軍衆が、誰一人立てぬまま横たわっていた。

息はあり、脈は打っている。

ただ、戦う意志は、永遠に失われたかのようであった。梵寸は頭をかきながら、のんびりと言った。


「……おっと。少しやりすぎたかの。意識のある者は……おらんか」


返事はない。地面に倒れ伏した二百の黒装束を横目に、梵寸はくるりと踵を返した。


その背中には、わずかな疲労の影が差していた。

約束を守るための、代償。


「さて、次は——吉岡直賢が踏ん張っておる南門じゃな」


その背は、まだ戦いの中へ歩き続けていた。



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