第一話 伏見にて、雪は消えたり
1603年 伏見城下
赤尾梵寸は、憤っていた。
伏見城の城門を出るその足取りは、老いた体には重く、雪を踏みしめる音だけが乾いた心に響いていた。
「――旗本、だと?」
信じていた。あの男、徳川家康の言葉を。
甲賀衆は幾度となく命を賭して家康を救った。戦乱のただ中、死地から幾度も連れ帰ったのは、他でもない我らだった。
その恩に報いる、と家康は言った。甲賀の地を戻し、里を治める者として遇する、と――。
だが、その約束は霧のように消えた。ただの「口約束」として。
「おのれ家康……ぶぉっ!」
怒りと悔しさが突き上げ、梵寸は雪の上に膝をついた。
口から血がどっとあふれ出す。赤黒く染まる白雪。その場に倒れ伏した。
「もはや……これまでか……。我ら甲賀の……悲願……。里を……取り戻したかっ……た……」
そのまま、赤尾梵寸は息絶えた。享年七十九。
だが――物語は、そこで終わらなかった。
* * *
意識が戻った。
風が吹いている。雪はなく、代わりに埃っぽい匂いが鼻をついた。
「……ここ、は……」
梵寸は背中に硬い木肌を感じ、座ったまま空を仰いだ。
見上げれば、晴れ渡る空。辺りには人々の往来。叫び声、笑い声、赤子の泣き声――まるで、かつての洛中のような喧噪が広がっていた。
「……く、臭い……」
己の体を見下ろし、ようやく気づく。
衣は薄汚れ、布とも呼べぬ布切れ。肌には染みついた便の臭い。かつて乞食として生きた頃と、同じ臭い。
「まさか、これは夢か。わしは……戻ったのか。あの頃に……」
目の前の世界は、あの雪の伏見ではなかった。
時は、百歩も二百歩も遡った過去――乞食・梵寸として、京の片隅に身を置いていたあの時代であった。