白い子
すこし、まるで千鳥足になりながらピンポイントに背中を押してくる風に追われて、鐘塔のもとにたどり着くのはあっという間だった。
次の鐘が鳴るのには、まだしばらくあるはずだ。
『私には聞こえませんわね……』
「やっぱり私の気のせいなんじゃ」
『姉さんが聞こえてるんだろ、なら何かあるんだよ』
もう手を伸ばせば届くという距離まで来て、ぱたりと風がやむ。
『その証拠に風もやんだろ』
「……」
声なき声ってか、と指先を伸ばして塔の壁面へ触れてみたら想像以上にひんやりとして、つるりとした表面だったからかつての世界に花瓶などで使っていた陶器を思い出した。
凹凸の継ぎ目はなくて、まじまじと見ればみるほどこの世界の技術でどのようにしてこれを作ったのか不思議に思う。彫刻技術が高いのだろうか。
三角柱でできたそれの一つに入口の扉がある。
扉も白く、重厚な形で人が入るには充分な大きさなのだが取っ手がない。中に入ろうにも入れない状態だ。
きっと職員か限定された人にしか入れない仕組みなのだろう。
「ま、入れないよねぇ」
『入れないわけありませんわ』
「へ?」
どうぞ、扉に触れてくださいまし、と言われるまま少し触れてみると、まるで触れた先が水面だったかと見間違えるほど波打ったかと思うとその瞬間扉が無くなっていた。
感触どころか、扉自体が消えたなんて。
『この世のものでマスターを拒むものなどありませんもの、意図してマスターがそう望まない限り』
「えええ……」
『入ってくださいまし、距離はありますが人がこちらに向かってきています』
慌てて隠れるように入ると、すぐに後ろに扉が再び現れた。
入った瞬間に、まばゆいまでの光に包まれて目が慣れたころにその視界に広がった情報に呆然とした。
広さが、可笑しい。
確かに鐘柱は大きかったが、こんな、百人は余裕で寝れそうなほどの広さはなかったはずだ。上に至っては終わりが見えない。
光がどこから発しているかもわからないけれど、影も出来ていない。この建物自体が発光しているのだ。
床は大理石、って柄じゃないけれど白濁色の石で出来ている様子だ。
つるりとした状態で一歩踏み出してみても引っかかりが何一つない。
「なにここ……」
『鐘の中だね。ああなるほど……僕たちに聞こえないわけだよ、こいつ弱ってたんだ』
「どういうこと?」
―――お恥ずかしい限りです、と聞きそびれてしまいそうなほどの小さな鈴の音が上から聞こえた。
見上げると、白いレースで包まれたすべてが白い、五歳程度にしか見えない子供が姿を現す。
ゆっくりふわりと降りてくるそれに、思わず手を差し伸べると一瞬目を見開いたその子は瞬きした後、泣きそうな様子で嬉しそうに笑ってその小さな両手を載せてくる。
重さはほとんどない。ほんのり暖かいその子の手を握りながらそれを支えた。
「きみは……?」
小さな口が一瞬開き掛けるも、すぐに閉じて瞼を伏せた様子で泣きそうな瞳がきらりと濡れて光った。
泣かせたいわけじゃないのに、どうしたことだろうか。
白い髪、白い肌、瞳だけが金色だ。
「私の目と似てるね、貴方の方がずっと薄くて綺麗だけど」
―――嬉しい、とまた鈴が鳴る。
『やっと私にも聞こえましたわ。この距離でないと聞こえないだなんて』
「なんで弱ってるの?」
『それを説明するには、少しマスターには解説が必要ですわね』
この世界にある、鐘は全て繋がっているという話は前に聞いた。
でも鐘の音が変に小さくなったりなんて聞いたこともないし、鐘自体に問題があれば誰か気付くはずだ。
『この世界の鐘は繋がっているんですが、それは見えているところのことではないのです』
地中で、根で繋がっているのですわとメティは言う。
「根……え、植物なのこの子?」
『それも間違いではないですわ。生きているという点では一緒ですから』
確かに触れた感触も、軽さも人のそれではないと思ったけれど。
幼い頃から親に教えられる世界の創立の物語で、この世は―――――この世界が出来たのは最初は一つの大きな木だったと語り継がれている。
その木は白く、大きく、様々な生き物を産んだ。
根は広がり、大地を広げ、葉から落ちた朝露は湖を作り、湖には新たな湖の中で根が芽生え、新しい木が生まれて、また生き物が生まれた。
”全ての地上は繋がっており、すべての命も繋がっている。”
だから、みんな仲良く暮らしていこうね、というのが子供に教えられる情操教育の一つになっている。
口での伝達だから地域によって少しずつ話に装飾が憑いていたりはするらしいけれど、どの話も必ず中心になっているのは「白い木」だ。
『神がこの世界に人間が生まれた時に、生きていくために必要だろうと鐘を創ったんですわ。すべての地域で繋がって、人の生活の要となるようにと』
この小さな子が、と身長さに合わせるためにしゃがんでみる。
抱きしめてしまったらすっぽり収まりそうなほど幼そうなのに。
肌が白すぎて顔色が悪いのかどうかすらわからないけれど、こんな子供がそんな凄いことをしているなんて。
「ごめん、呼ばれてたなんて思いもしてなかったから気付かなかった」
小さな手は、小さいなりに力強く私の指先を掴んでいる。
私がその必死さと泣きそうな様子にほだされて、流石に申し訳なくて謝るとぶんぶんと首を振って、酷く困った顔をしてまたさらに泣きそうな様子で口をぱくぱくと動かしている。
声が聞こえないってのは不便だ。
ちりんちりんと、なんども聞こえる小さな鈴の音がこの子の気持ちの必死さを伝えようとしてくる。
『他の数多の生き物が言葉を発せられないなんてのはよくあることですが、鐘の力を持つエーテルが話せないというのはエーテルの枯渇しか考えられませんわ』
「枯渇?これまではどうしていたの」
『通常は空気中のものであったり、マスターの言葉を借りるなら植物ですから自身で自身のエーテルを創れるのですけれど……』
妙に渋るメティに、クリアがはっきり言ったらいいと割り込んできた。
『誰かが取ってるのさ。この子のエーテルを』
「そんなの、出来るの?」
『何言ってるんだい、ユラ。ユラの町は皆取られていただろ』
言われてから、あっと思い出す。
実生活に被害もなかったから、軽いものだと考えていたが言われてみればあれもそうなのだ。
「誰に……?」
『さぁ。僕たちからしたら、誰というか、こんなのするのは人間以外いないよねってぐらいしか分からないし興味もないな』
『クリア、その言い方では人間すべてが悪く聞こえてしまいますわ』
だってそうだろ、そんなことを考えてやろうなんてするのは人間だけなんだから。と言った彼にメティは押し黙る。おそらく私に配慮して言えなかったのだろうが、内心はおそらく同意見なのだろう。
「この子どうなるの」
『どうもこうも、死ぬだけさ。まぁすぐにってことはないよ。百年後か、二百年後か。鐘が自動で鳴らなくなる程度にしか人間は考えないかもね』
そもそもの存在が大きなものだから、削れていくのはゆっくりとしているのだろう。
なんとなく、それは分かったけれど、それは大丈夫と言えるのだろうか。
クリアの言っていることを考えていると、また小さく音で逢いたかった、と聞こえた。
「私に?」
辛そうに笑う、小さな子。
「どうして?」
――――あったかいから。と、鈴の音が鳴る。
『私たちからしたら、マスターは灯なんですわ。その光に焦がれてしまうのです』
『君になら何をされてもいいと思ってしまう』
そんな、そんなことを言われても私にはそんな権利も責任も持っていないし、持てもしない。
分かんないよ、というとそれでも構わないと言ってくる彼らに、たまにとても不安になる。私は人だから、そんな無条件になんでも許せるなんて感情が良く分からなかった。
この世界に来て、産まれて、生きてきた。
急にそんなことを言われて、のらりくらりとかわしてきた。
これからもそうするつもりだったし、それでもいいと彼らは言う。
でも、聞こえるようになってしまったら―――そんなの、無視できないじゃない。
「私に、してほしいことがあったんじゃないの?」
特別扱いされたいわけじゃないけれど、縋られた手まで振りほどけるほど自分の性格は悪くないと思っている。それが出来ることならの範疇にはなるのだけれど、聞いてみるぐらいは良いじゃない。
しかし小さな子は、首を振る。
笑顔でただ、小さく首を振った。
握った私の指を少し引き、それを頬に当ててほほ笑んだ。
もうこれで、満足だとでもいうように、幸せそうに笑うのだ。
勘弁してほしい、たったこれだけで満足そうに笑わないでよ。
「どうしてこう貴方たちってみんなそうなの……」
てっきり私、クリア達に凄い力があるって言われてからずっと警戒してたのよ。
あれをやれって、これをやれって言われるんだと思って、出来るだけ本題に入られないようにって意識していたつもりだったのに。
「誰も、私に何かしてほしいとは言わないのね」
自分に違う力があると言われて、思い出したのはあの聖女の女の子。
誰にでも優しく笑って、今もきっと周りに気を使いながら慣れない世界で元の世界に帰してもらうことも出来ないまま一生懸命生きているあの子。
私なら無理、って思っていたの。
私はそんな気真面目でも、自己犠牲に溢れる人間じゃなくて、自分のしたいことやりたいことを優先したい俗っぽい人間だ。
だから、彼らが私の力でこうしてほしいって言ってくるのをどうやって振り切ろうかって悩んでいたこともあったのに気付いた時には私の考えが誤っていたことにハッと驚かされた。
いつだったか言った、メティの言葉。
ただもう、私の幸せを願っていると―――ただ、それだけなのだ。
二人が私にエーテルの説明をしたのは、私が私の身を守れるようにするためであって自分たちのためではない。逆に自分たちを使ってもらうためにと、惜しみなく心を配ってくれる。
「助けてって言えばいいじゃない!」
エーテルの感覚が分かってきた今ならわかるのだ。自分が保有しているそれが、けた違いなのが。
それがバレないように隠す感覚ももう掴んでいて、人は誰も私がその力を持っているなんて気付きもしない。
私が叫んだ声に痛ましそうにする、その優し気な瞳。
ああ、子供だと思っていたけれど、違う。この目は慈愛の瞳だ。
いつだったか、産まれてきた世界に絶望したことがあったのだ。
何だこの世界はと、絶句し、環境の悪さ、すべての生活レベルがかつてとあまりに異なること、食事の口の合わなさにしばらくまともに食べれなくて、親は必死に出してくれているのにと泣いた日。
衣食住は生きることの要だ。
それが全て崩れたら、そんなの精神が可笑しくなる。
幼い身体に精神もつられていたのかもしれない。
一度、そんなときに何もかも嫌になって家出したことがあった。
小さい足は履物も履かず、走る地面は舗装なんてされていないから砂利だらけ。
混乱した頭のおかげで暫くは痛みも鈍かったが、子供の足で走れる距離なんて知れていて、疲れを感じた時には足の裏の痛みに耐えられなくなっていた。
勝手な話だ、勝手に出て、勝手に痛くなって、ばかみたいと涙が止まらなかった。
そんな時だった、小さな白い鳥がふわりと飛んできたのは。
「あの時、鳥を飛ばしてくれたの貴方だったのね」
座りこんだ周りは、森と町の境目。
もう辺りはすっかり暗がりになって、遠くを見ると日が落ちて緋色になっているのが唯一はっきりと分かる明るさだ。
かつてのような電気のライトが並木道についてなんかいないから、日が暮れ切ってしまったらもう何も見えないだろう。
それに気づいたら足元から全身一気に冷え込みまで感じ始めて、悴み始めたころだった。
小さな光が私の周りを一周した。
よくよく見ると、それは手のひらに乗るぐらいの小さな小さな鳥だった。
「鳥が私の周りを何度か回ると、不思議と痛みも寒さもなくなって、そのままついていったら町の鐘の下だったわ」
真っ暗な中、しばらくして考えてみたらめちゃくちゃに走ってきていたはずなのに、鳥を追いかけている間、周りも見えないのに一度も転ぶことも躓くこともなかった。
鐘の下にたどり着き、あっという間にどこかに飛んで行ってしまったのを見送っている背中に両親や町の皆が探してくれた声が届いた。
街では大変な騒ぎになっていたらしくて、日が暮れてしまったからみんなで手分けして森にまで探しに行くところだったらしい。
あの日、エーテルでつくった鳥を見て、通りで懐かしいと思ったわけだ。
あの時のことなんてすっかり忘れていたのに。
「ありがとう」
あの日、貰ったもの―――――返すね。
自分の中で隠していたエーテルを、まるで花が開くようにして解き放つ。
怪我を治してくれて、助けてくれて、明かりをくれてありがとう。
『どうして』
ああ、やっぱり声可愛いじゃない。
やっぱり見た目に合った声がいいよね。
「私、貴方のおかげであれからこの世界でもう少し頑張って生きてみようって思えたの」
胸からあふれるのはまばゆい光。
私にあげられるものがあるなら、貴方にあげたい。
これが、私が初めてエーテルを自分から何かに使おうと思った、最初の一つだった。