「不登校」を取り扱ったテレビ番組
たくさんのアクセス、評価、ご意見を頂戴し誠にありがとうございました。
日本の話、現在、不登校の子供達が何十万人かいるという。
その現実について、その番組は不登校の子供達の思いを汲み取ろうとしていた。
「君は何故、学校に行けないのか、または、いけなくなったのか」
始まりから最後まで語られる幾人かの「言葉」を聞いていて、既に大人になってしまっている僕は「そうなのか」と思い入った。
勿論これは、「そうなのか?」ではなく、肯定しての「そうなのか」である。
出演していた子供達は感受性が他の子よりも強いのだろうと感じた。
出演している子供達の家族は、概ね優しい人達だった。
学校に行けない子供達を見守る家族は、子供の気持ちを汲み取り、現状をより良く変えようとしているようだった。自主性を重んじる活動に参加させたり、サークルに参加させたりしていた。行政も、不十分ではあるが、何とかしようと試みていた。
番組は提起するだけで「だから、こうでなくてはならない」とは語らなかった。
淡々と、不登校を、不登校の子供達の目線で語らせることにより、何かを訴えようとしていた。
僕は、番組中の個々人の立場や考えに対して感想は述べない。それは、子供達の美しい心を傷つけたく無いからだ。
理解は出来たと思う。ただし、全ては肯定しきれなかった。
僕は、その子供達を見ていて「ああ、なんて幸せな」と思ってしまった。
何不自由なく暮らしている子供達は生き生きとしていた。
今日の食事にも困らず、最新式のゲーム機を持ち、綺麗な服を着ている。
満たされている子供達。欠けているのは、学校で過ごしている時間のみであった。
ふと、彼らと同世代の子供達はこの番組を見て何を言うのだろうか、と思った。
学校に行っている子供達は、この番組を見て、何を感じ、何を考え、何を言うのか。
もう大人になってしまっている僕には無い感性は、何を感じ取るだろうか。
学校に行けなくなった子供達と、学校に通っている子供達は、二極化して分けてはいけない。
全ての子供達を、不登校と、それ以外に区別してはいけないと僕は思う。
だって、学校には、行きたくないと思いながら通っている子供もいるのだ。
百人の子供が居れば、百の思いがあるのだと僕は思う。
この番組では汲み取られていなかった視点、この番組を放映した某局が数年前に放送した「ひきこもり先生」は鮮烈だった。皆と同じ教室には入れないけど、学校に通っている生徒に焦点が当てられていた。ただし、ドラマはフィクションである。
学校に行けない。
行けなければ行かなくて良い。
僕は、この意見に大いに賛成する。
死を選ぶくらいなら、逃げろ! 一過性の地獄に縛られる必要は無い。
学校に行かないのは、恥ずかしいことでは無い。
他者と違う事は、肯定して良い。それは君に与えられた才能でもある。
撤退には名誉がある。学校なんて、ある一面を切り取れば凡庸性能の量産工場でしか無い。
ただし、学校には行かなくても良いが、学ぶことを止めてはいけない。
自分をアップデートする必要は絶対にある。
コミュニケーション能力も、勉強も、運動能力も、身につけられるものは身につける方が良いに決まっている。何かに特化しても良い。広く浅くでも良い。
人には、一人でも生き抜いていく力が必要なんだ。
突き詰めれば、自分を助ける事は自分にしか出来ない。先ずは自分なのだ。
人は一人では生きられないということは正解だ。ただし、必要とされない人は受け入れてくれない現実は確としてある。残念だが、社会とはそういうものだろう。
子供らは、学校には行けないが無気力ではなかった。楽しいと思えることは出来ていた。
子供らは、ネットを使い他者とコミュニケーションを持つ。ゲームは楽しめる。
好きなこと、楽しいと思えることは出来ていた。
ゲームは楽しい。僕も楽しいと思う。
ゲームのイベントはクリア出来る。食事を抜いても、睡眠時間を削っても、続けられる。倒されても、挫けても、挑んでいける。そしてゲームはクリアできる。頑張ればクリア出来る。
でも、その充足は果たして本物なのだろうか。
ゲームは、そもそもクリア出来るように出来ている。
気付いて欲しい。実は君はクリアさせられているのだと。
金銭と引き換えに、そのカタルシスは用意されている。
チュートリアルを用意し、導き、達成させるのは、君が対価を支払っているからなんだ。
君のためを思って、君の成功を導いているのでは無い。
君を成功に導くのは、お金を稼ぐためなのさ。
見せかけの楽園は、蜃気楼と同じ。夢を見ているのと同じ。
醒めれば終わる。
子供達を見守る環境は、優しかった。
しかし、少し考えてみて。その心地よさは永遠では無いということを。
優しい親は、いつまでも君を守れない。
時間は残酷であり、君が成長すればするほど、親は退化していく。
親は君よりも早く死ぬ。
親は、老いて君の助けを必要する時が来る。
親は、いつまでも君を庇護出来ないのである。
時間の経過は、どの子供にも平等に自立を促していくんだ。
一人で生きていける自分にならなければならいのは、実は最低限の事だったりする。
君は、将来、君を育んでくれた親を支えられる人に成らなざるを得ない。
君が、いくら拒んでも、親は君に頼らざるを得なくなる。
行けない学校は拒否を許されるが、老いた親は拒めない。
勿論、親の介護をすることが人生の目標では無いし、お金で自分の人生を確保することも出来る。
もっとも、親が、とんでもない財産を残してくれればそんな苦労はしないが、さて、君の持ち得ている環境は、どうだろうか。今のまま時を過ごしていって、五十年後、君はどうなっているだろうか。君の未来は数年先で終わらない。
現在は、将来の夢を語ることも出来る。
しかしそれは、未成年の子供に許された「夢物語」を見られる特権です。
夢を現実にするためには、乗り越えなければならない壁があるのです。
夢を見せてくれる職業に憧れることは出来るし、そうなれる自身を想像することも出来る。けれど、どれだけ夢を膨らませようと手は届かない。
それは、どんなことにも到達する為のプロセスがあるから。
プロスポーツ選手でも、一流のパティシエも、ユーチューバーでさえ、過酷な競争を戦って勝ち抜いた勝者であることを知ってください。
近所にあるパティスリーも、ヘアサロンも、ラノベ作家も、建築家も、サラリーマンも、みんな何かを乗り越えてきている。生きてゆくために、歯を食いしばっていることもあるでしょう。
社会は、学校なんかよりもっと厳しい。
羨望の眼差しで見つめている優等生も、他者と同列にふるいに掛けられる。
こんなはずではなかった、と、脱落する者もいる。
学校に、無理に行く必要は無い。大切な事は、子供の時期に、目の前にある様々な事を乗り越えられる自分を形成することだと思う。
学校は変えられない、と君は言うけど、社会なんて、もっと変えられない。
学校には確かに理不尽は多いけど、社会にある理不尽なんて、そんなものではない。
校則がおかしいというけど、おかしな法律はたくさんある。
校則は破れるが、法律は破れない。
学校は社会から隔絶されている。
外に出れば、否応なしに厳しさに晒される。
自己中な人間や、欺す人間、騒音、ゴミ、迷惑を掛ける者、窃盗、殺人、性犯罪者は、案外側に居るのかも知れない。
世の中の、大多数は善意で形成されていて、世界に優しさは溢れている。
世界の国々と比べても日本は安心できる社会を構築している。
その日本でさえ、ヤングケアラー、貧困家庭、教育の格差、差別、誹謗中傷が横行する。
負けないためには、負けない自分になるしかない。
人生に起こる様々なイベントをクリアさせていく力は、自身で身につけるより他に手立てが無い。
君の戦場は、学校だけではない。壁は、次々と目の前に立つだろう。
時には逃げ、時には回避し、時には挫折する。
しかし、大丈夫です。停滞しなければ、前に進む。
心のベクトルを自身の幸福へ向けてください。
学校に向けなくても良いです。自分がより良きと思う方向に少しでも進んでいって欲しい。
僕の近親者、親戚に壮年のニートと、青年のニートがいます。
彼らは、普通の児童、生徒でした。
最終的には、政府のセーフティーネット、生活保護を受けて暮らしていくのでしょう。
彼らの過去に何があったのかは知る由もないですが、まざまざと世知辛い現実を見ています。
昨日の番組を見ていて、子供達と彼らのことが重ねて見えてしまった。
子供達の将来がまるで見えませんでした。
今では心の病の病名を頂いている親戚。
彼らを見ていて思います。成人してから不幸を跳ね返す力を得るのはとても難しい。
だから、無限の成長力と、可能性を有する子供達に伝えたい。
大人として扱われるまでの時間は短い。
どうか、子供のうちに「壁を乗り越える力」を身につけて欲しい。
理不尽や逆境を跳ね返し、一人になっても生きてゆける力を身につけて欲しい。
それは、学校に行かなくても出来るから。
以上です。
なんとなく、「王様の耳はロバの耳」って、穴に向かって叫んでいます。
反響は、あると怖いので、直ぐに消すかも知れません。
僕は、自分に自信がありません。