白竜庵3
遅くなって申し訳ありません。
白竜庵はこれで終わり。
久路人と雫の覚醒回です。
「ふふ、久路人、寝ちゃった」
「ん・・・」
「よいしょっと・・・」
花びらを散らす桜の木の下で、雫は眠っている久路人を抱え、自らの膝の上にその頭を寝かせた。
「よっぽど疲れてたんだね」
つい先ほどまで2人は抱き合っていたのだが、最近の疲れが溜まっていたのか、あるいは雫の胸の中がそれほどに心地よかったのか、久路人はいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
『できれば、後者の理由の方がいいな』と雫は思う。
「本当に寝てるのかな?どれどれ・・・」
「・・・んぅ」
「ふふっ!!かわいいなぁ、久路人」
雫は、久路人の寝顔を微笑みながら見つつ、そっと頬を撫でる。
深い眠りについているのか、起きる様子のない久路人は、雫の手が触れても眠ったままだ。
それは、久路人が雫に完全に心を許している証である。
剣士としても一流の腕を持つ久路人ならば、どんなに深く寝入っていても、誰かが不用意に触ろうとして来れば飛び起きる。
それがわかっている雫にとっては、このひと時は自身の征服欲やら独占欲が大いに満たされるものであった。
「・・・これで、ここに来た目的の一つは達成かな」
ひとしきり久路人を撫でまわして満足した雫は、『ふぅ・・』と一息を吐いてからこぼした。
「最近の久路人ったら、本当にピリピリしてたもん。こうやってゆっくり休まないとね」
雫が久路人をデートに誘い、誰の邪魔も入らない白竜庵に連れてきた目的の一つは、久路人を休ませるためだ。
人外の久路人であるからして、肉体的な疲れはほとんどない。
しかし、精神的な疲労や焦りが溜まっているのに雫は気付いていたし、そのように久路人にも告げた。
過去の事もあって、久路人自身も自覚はあったのだろう。
だからこそ、あのまじめな久路人が休養のために訓練を休んだのだ。
「今日は、ずっとこうしてていいからね」
「・・・・・」
「ふふ・・・」
再び、久路人の頬を撫でる。
安らかな寝息を立てる久路人に、雫は優し気な目を向けた。
「さて、と・・・」
しかし、そこで雫から笑顔が消えた。
雫自身の扱う氷のように、温度のない表情へと変わる。
「それじゃあ、もう一つの目的の方も、やっちゃおうかな」
雫は冷たい目で、白竜庵を、否、作り物の箱庭を見回した。
その眼には、この世界に来た時の、熱に浮かされていた様子は微塵も残っていない。
「・・・ここは、本当にいいところだよね。さすがは『白竜様』。すごい術だよ」
『白竜様』
世界のすべてを『久路人』と『久路人以外』で分けて考えている雫としては、大変珍しい呼び方だ。
かつて自分の背中を押してくれたリリスでさえも、『リリス殿』としか呼ばない雫が『様』を付けているのには当然理由がある。
それは、白竜が水を司る存在の頂点に位置する存在だからだ。
妖怪の世界は縦割り社会であり、力の弱い存在は上位の存在に対して逆らうことはできない。
同じ属性に属するものならば、さらに強い強制力が働く。
極めつけに、蛇は水の属性を持つ生き物であり、蛇の妖怪は力には雲泥の差があれど、竜に最も近いと言ってよく、雫を含む蛇の魂には白竜の情報がごくわずかに含まれている。
だからこそ、雫には白竜への畏怖が本能レベルで沁みついており、今では妖怪という括りを脱し、上下関係もだいぶ白竜に近づいた雫であっても、癖のように『白竜様』と呼んでしまうという訳である。
なお、この話を久路人にした際には久路人の独占欲を刺激してしまったのだが、『白竜様は女、っていうか雌だよ』と雫が告げたことで事なきを得ている。
「ここは、一つの独立した世界に近い。永続してる陣みたいなものなんだね。確かメアが言ってたけど、狭間の一部を加工して造った空間だっけ。だから、土地の管理者の京たちの許可がなければ入れない」
雫は、周りの風景を見回しながら呟いた。
雫の分析した通り、白竜庵は特殊な空間だ。
現世と常世の仕切り板である『狭間』の中に極小の穴を空け、そこに加工を施すことで固定した世界。
ただし、外の世界の霊脈の影響は受けているようで、この世界の維持に霊脈の力は必要である。
そのため、ここに入るには土地の管理者の許可、つまりは白竜の許しが必要となる。
雫達が入り込めているのは、この土地を管理している京が白竜に代理の管理者であると認められており、その京に許されているからだ。
もっとも、京は白竜に会ったことはないらしいので、勝手に管理者に据え付けられたと思っているようだが。
「うん。ここは、本当にいい所だよ。私の理想に限りなく近い」
半日だけではあるものの、久路人と2人きりの世界で、思う存分遊び、話し、笑うことができた。
今も、何の心配もせずに眠る久路人が示すように、邪魔者が入って来る気配もない。
まさしく、雫にとっての理想と言っていい場所で・・・
「けど、やっぱりダメだ」
唐突に、雫の口から冷たい声がこぼれた。
「足りない」
それは、雫がここで半日を過ごして感じたことだ。
久路人が眠ってしまい、一時的に1人だけになってしまったからこそ、さらに強く意識できるようになったことだ。
最初は、ここが理想の世界なのだと思った。
事実、白竜庵の屋敷を出て、湖にたどり着いた時には、世界が輝いて見えた。
久路人と共に水の中を散歩し、雫の作った弁当を美味しいと言いながら食べ、桜の花びらが舞い散る中で抱き合えた。
それは、雫にとって幸福以外の何物でもない。
『ずっと、ずっと・・・こうしていたいな』
そう久路人に言ったのは、本心からだ。
久路人も、それに応えてくれた。
2人の想いは、願いは、同じモノだった。
「足りないよ」
だが、『したい』というのは、単なる願望に過ぎない。
雫の言葉は、現実にはなっていない。
足りていないのだ。
追いついていないのだ。
それがわかっているからこそ、否、わかっていても、『したい』と言ったのだ。
雫は、足りないモノを形にする。
「一日なんかじゃ、足りないよ」
それは、あまりに儚い時間。
自分たちは、明日にはここを出なければいけない。
そうしなければ、京たちが無理やりにでも引きずりだしに来るだろう。
そうでなくとも、もしも旅団が白流に侵攻してくれば、この土地の霊脈もただでは済まない。
そうなれば、この白竜庵とて安全ではない。
それでは、雫の理想には届かない。
「ずっと、ずっと、ずぅ~~~っと!!私と久路人だけの世界は、永遠に続くモノじゃなきゃいけないの!!」
それは、雫の魂の叫びだった。
『雫の理想』。
それは、久路人の伴侶として、一生を添い遂げること。
伴侶として結ばれることならば、できた。
けれども、世界は2人だけのモノではない。
今のままでは、久路人と自分が誰にも邪魔されずに添い遂げることは、きっとできない。
それには、邪魔なモノが多すぎるのだ。
どんなに素晴らしい時が過ごせたとしても、たった一日では意味がない。
無限にも等しい『一生』を、2人『だけ』で歩き続けることこそが、雫の願いなのだから。
「ああ、でも、これでわかった。私の、もう一つの目的も、達成できた」
不意に、雫の声のトーンが元に戻った。
雫は、やっと理解できたのだ。
『これこそが理想の世界だ!!』と思った場所に飛び込んで、味わったからこそ見えてきた、『足りない』部分。
それは、雫の願いに具体的な肉付けをするパーツだ。
「私の『理想』の再構築。世界に望む『変革』の定義づけ」
そして、それを得ることこそが、雫が白竜庵に、自らの理想を叶えられそうな場所に訪れたもう一つの目的だ。
陣の構築、ひいては神格を得るのに必要なモノは、それに足る霊力と、世界に変革を望む意志。
雫はここに来たことで、己の願いの真の形を理解したのだ。
故に・・・
「これが、私が望む『変革』なんだね」
水無月雫は、『神格』に至る資格を得た。
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「ここは・・・」
いつの間にか、雫は1人だけでどことも知れない場所にいた。
その世界は白く、まるで水の中のようだったが、肌を撫でる感触は地上のそれだ。
白く思えるのは、雫の目の前にある大きなガラス張りの水槽のような扉が原因のようである。
水槽のような扉の中には、白く輝く水が詰まっていた。
雫は、おもむろに扉に近づいて、手を当てる。
その瞬間、『ジャラリ』という金属音がした。
「何これ?鎖?」
ふと手首を見ると、そこには黒い金属で作られた輪がはまっており、そこから伸びる鎖が果てのない空間のはるか向こうにまで伸びていた。
さっきの音は、この鎖がこすれた音のようだ。
気が付いたら自分の体に鎖が取り付けられているなど、正直不愉快な話であるが・・・
「なんでだろう・・・この鎖、触ってるとすごく落ち着く」
雫は、愛おし気な表情で鎖に触れた。
なんだか、この鎖はとても大事なモノと自分を繋いでくれているような気がするのだ。
鎖から、温かな何かが流れ込んでくるような気がする。
「あれ・・・?」
雫が鎖に手を触れていると、唐突に、扉の中に何かが浮かび上がってきていた。
それは、小さな一匹の蛇だった。
思わず、雫は鎖から目を離し、扉に注目する。
その蛇の正体に、強い既視感を感じたからだ。
「これ、昔の私?それに・・・」
蛇が現れるとともに、水で満たされていただけの水槽は、その中身を変貌させる。
雫は、じっと扉を見つめた。
水槽の中の蛇の、心の声が聞こえてくる。
『この世界には、敵しかおらん』
白蛇は、この世界のことが嫌いだった。
いつもいつも、自分に恐怖と苦しみを与える存在が、大嫌いだ。
自分を蝕むだけの日々を嫌悪していた。
知性のない、野生の蛇だった頃からそうだった。
周りにいる生き物は、すべて敵か、あるいは餌だった。
瘴気の流れ込んでくる穴の近くに隠れ潜み、霊力を得て妖怪になった後でも、それは変わらなかった。
『力だ。力がいる。生き抜くための力が』
白蛇が妖怪になったばかりの頃は、現世にも多くの妖怪がはびこっていた。
中規模の穴から出てくるような強めの妖怪もゴロゴロおり、見つかれば戯れに殺されてしまうほどに力の差があった。
同格の妖怪であっても、共食いは日常茶飯事であり、白蛇も多くの妖怪を倒して糧としていた。
知性を得た白蛇は、己がそんな弱肉強食の世界に閉じ込められていると自覚していた。
故に、自身が生き抜くためには力が必要だと考えた。
そして、穴を潜り抜け、常世へと渡ったのである。
それは、白蛇にとっても命を失いかねない賭けであった。
『死にたくない。だが、死なないためには、死ぬかもしれない目に遭わねばならない』
白蛇は、死を恐れた。
常世での毎日が綱渡りだった。
白蛇の目的は生き残ることのみであり、その先のことなど考える余裕はなかった。
それを不幸だの不満だのと思えるほどのゆとりすらなかった。
だが、言いようのない苦しさと、焦り、恐怖だけは常に傍にあった。
それを糧にして、白蛇は常世を生き抜いた。
生き抜いて、大妖怪と呼ばれるほどの力を手に入れた。
『ここまでの力を得れば、むしろこの場にいる方が危険だな』
かつては現世だろうが常世だろうが大して変わりはなかったが、大妖怪にまで上り詰めた白蛇にとっては、現世の方が安全だった。
白蛇は大穴から現世へと戻り、とある地にあった湖を住処にして暮らし始めた。
それは、大妖怪としてはとても珍しい判断だった。
力の強い妖怪は、狂暴な気性の者が多く、己の力を高めて振るうことを大いに好んだからだ。
白蛇からしてみれば、そんな生き方は野蛮で命を縮める愚かな生き方でしかなかったのだ。
『・・・暇だ』
しかし、現世で安全な暮らしを手に入れた白蛇が、満たされることはなかった。
命の危機の次に白蛇を苛んだのは、退屈だった。
毎日毎日、何をして過ごせばいいのかわからなかった。
特にやりたいこともなかった。
気の向くままに、そこらの人間の集落を覗きに行ったり、辺りで鉄砲水を起こして遊んでいたが、それでも心のどこかが寒かった。
『妾は、何のために生きているのだろう?』
いつしか、そんなことを考えるようになった。
それから、いろんなものに興味を抱くようになった。
自分を満たしてくれるモノを探すために、現世を徘徊した。
しかし、人間や力の弱い妖怪は、白蛇を恐れて逃げるばかり。
現世に流れてきた大物からは、幾度も戦いを挑まれた。
次第に、白蛇は湖の底に籠るようになった。
結局、力を得て、命の危機から遠ざかったというのに、白蛇は満たされなかった。
いつの間にか、あの苦しみと焦りと、恐怖が戻ってきていた。
だから、白蛇はこの世界のことが嫌いなままだった。
そんなある日のことだった。
『そなたが、この湖の主か?そなたに、貢物を届けに参った』
湖の畔に、僧侶が1人現れた。
男にしては小柄で、笠を深く被っていたから顔は見えなかった。
僧侶は白蛇が時折ちょっかいをかけていた村からやって来たらしく、酒の入った桶を持っていた。
白蛇は、その酒を飲み干した。
酒を飲めば、酔って夢見心地になれると聞いた。
ならば、その酒で、今の虚ろな心を癒せるかもしれぬ、と考えた。
『む・・・眠い。これ、は・・・』
酒を飲み干して、すぐ。
白蛇の視界がかすんできた。
頭の中にまで靄がかかり、奇妙な浮遊感が襲い掛かってきた。
『そなたは、悪しきモノではない。心に虚を抱え、それを埋めたがっているだけなのだろう。だが、その行いをそのままにはしておけぬ。しばし眠るがいい』
僧侶がそう言ったのを、白蛇は聞き取ることができなかった。
白蛇は眠りについており、まどろみの中にあったからだ。
僧侶は白蛇の傍により、封印を施すと、常世に送り返した。
白蛇はそれから数百年の間を、緩やかに力を失いながら、眠り続けた。
そして、運命の日がやってきた。
「あ・・・」
扉の水槽の中にその姿が映った瞬間、雫は思わず声を上げた。
『珍しいな・・・白い蛇?』
白蛇は久路人と出会い、雫となった。
名前を与えられ、力を与えられ、温もりを与えられた。
雫を蝕んでいた苦しみも焦りも恐怖も、いつしか消え失せていた。
退屈と、自覚すらしていなかった孤独を、埋められていたのだ。
雫は、生まれて初めて満たされていた。
そこからの日々は、今更語るようなことではない。
「・・・・・」
そうして、扉は何も映さなくなった。
「・・・私は」
今までの過去を振り返るような光景を見て、雫は思い返す。
久路人に出会って、雫は満たされては飢え、そのたびに恐怖が戻り、また与えられて満たされた。
単なる蛇だったころとは、苦しみや恐怖の質は昔とは変わっていたが、やはりそれらが雫を突き動かした。
紆余曲折の果てに、雫と久路人は結ばれた。
初めて人となった梅雨の晴れ間の満月、初めて想いを交わせた夏の夜に浮かぶ満月を、雫は忘れることはない。
久路人とは、身も心も、魂すらも深く繋がって、雫は幸福の絶頂にある。
だから、今の雫は・・・
「この世界が、大嫌いだよ」
この世界が嫌いだった。
ただし。
「久路人を狙うクソどもばっかりな、この世界が」
その理由は、大きく変わっていたが。
「どうして、久路人が毎日毎日襲われなきゃいけなかったの?どうして、毎日毎日訓練しないといけないの?どうして、旅団とかいう連中と戦わなきゃいけないの?」
雫は、昔からこの世界のことが嫌いだった。
今では、さらにその感情は強まっている。
それはひとえに、久路人の存在があるからだ。
確かに、雫は一時は満たされた。
だが、世界は、月宮久路人に優しくない。
だから、雫は世界が嫌いなままだ。
「久路人は、何にも悪いことしてないのに」
月宮久路人という青年は、基本的に温厚で、争いを好まない。
善か悪かで言えば、間違いなく善人だ。
かつての自分は、今思えば色々と人間に迷惑をかけていたと思うが、久路人は京の助けがあったからとはいえ、今日に至るまでいたずらに人間を傷つけたことはない。
どうして、今まで久路人が妖怪に襲われてこなければならなかったのか。
なぜ、血まみれで、死にかけるような目に遭って、神の操り人形にならなければならなかったのか。
久路人が、一体どんな理由で無法者の集団と戦わねばならないのか。
「そもそも」
それ以前の話として。
「この世界には、久路人に関わろうとするヤツが多すぎるんだよ」
それが善意であれ、悪意であれ、久路人の特異性は他の存在を引き付ける。
旅団やそこらの妖怪は勿論、言ってしまえば京やメアだってそうだ。
最近では、毛部や野間瑠も当てはまる。
「久路人が優しいのはわかってる。そこが、久路人のいい所だもん。そんな久路人だから、私と一緒にいてくれたってことも知ってる。けど・・・」
久路人は優しいから、雫以外の人間や妖怪とだって親しくできることは知っている。
京やメア、リリスや朧には、雫だって感謝している。
けれども、どうしても思ってしまうのだ。
「久路人に、私以外が近づくなよ・・・」
それが、雫の心の中にあり続ける芯だ。
だから、雫の霊力は『毒』としての性質を得た。
雫は元々が野生の蛇であり、周りは敵という環境で育ち、真に心を許せるのが久路人のみだからこそ。
一方の久路人が『薬』であるのは、本人の生まれつきの善性と、人間社会で生まれ育ったからだ。
多少のイジメはあったが、京という良識ある大人に育てられ、友人もいた久路人は、真っすぐに歪むことなく成長した。
それを、雫は悪いことだとは思わない。
だが、そのせいで、自分と久路人の2人だけの世界に、他の異物が入って来ることにはどうしようもない苛立ちを覚えてしまう。
「久路人だって、私と同じなんだ。私さえいれば、それでいい。それは、間違いないんだよ・・・」
傍から聞けば、独りよがり極まりない台詞だ。
しかし、雫の言うことは真実だ。
久路人と繋がっている雫には、わかる。
昔ならいざ知らず、今の久路人は、雫と同じなのだと。
雫に近づく、己以外のすべてに妬心を向けてしまっていることに、それどころか、自身の身に着けていた衣服にすら嫉妬するほどに重い想いを抱いていることに、久路人自身も気付いている。
だから・・・
「久路人は、私の理想を、絶対に断らない!!」
久路人と雫しかいない、誰の邪魔も入らない理想郷。
そこに逃げ込むことを、久路人は拒まない。
久路人を密かに人外にしようとした時は、嫌われるのではないかと怯えていたが、今は違う。
今ならば、多少の罪悪感は抱くだろうが、最終的には受け入れてくれるという確信があった。
なぜならば、あの桜の木の下で久路人がこぼした言葉は、久路人の心の底から漏れたものだったのだから。
ならば、あとやるべきことは一つだけ。
「造るんだ!!私の理想の世界を!!このクソみたいな世界じゃない、私の、私たちの世界を!!」
雫は、扉を睨みつけた。
そこには、紅く燃える瞳を宿した己が映っている。
「私たちの世界に・・・」
雫は、そこに映る自身に誓う。
「私と、久路人以外なんて、いらない!!」
刹那、扉が砕け散り、世界は白に包まれた。
その瞬間、雫の黒い鎖が震え、雫は本能で理解した。
「久路人・・・」
白い世界の中、雫は、ギュッと鎖を握りしめた。
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「ん・・・」
少しだけ冷たい風が吹いてくる。
そこに混じっているのは、なんだか懐かしくなるような不思議な香りだ。
やや青臭い草の匂いと日に焼けた土の匂い。
いろんなものがないまぜになったようで、けれども調和の整った風は、生き物の中に眠る自然への回帰を促すようだった。
「・・・・・」
頭がボゥっとする。
「・・・僕は」
記憶が判然としない。
自分は誰で、今まで何をしていたのか、咄嗟に出てこなかった。
ただ、奇妙な感覚が残っている。
「・・・水の中?」
少し前まで、自分は水中にいたような気がする。
そこに、鎖を付けて漂っていた。
言葉にすると拷問のようだが、嫌な思いをしたという感じはしない。
「・・・・・」
思わず、手首に触れるが、そこには肌の感触しかしない。
ついさっきまで、そこには白い氷を固めたような輪っかが付いていたはずなのだ。
氷のようであったが、その冷たさが心地よく、いつまでも付けていたいと思えるようなモノだった。
その感触がしないことに、僕は寂しさを覚え・・・
「あ、起きた」
その声を聞いた瞬間、一気に意識が覚醒した。
それと同時に、頭の後ろに極上の柔らかさを持った温かな質感。
「何ここ?天国?」
「久路人を逝かせるくらいなら、私が天国になるよ・・・って、前もしなかったけ?こんなやりとり」
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
今の僕は、雫の膝を枕にして横になっていた。
「久路人ったら、ずいぶん疲れてたんじゃない?突然返事をしなくなったから、びっくりしたよ」
「あはは、そうかも。最近はピリピリしてたからなぁ・・・って!!」
「ああっ!?」
ガバッと、僕は起き上がった。
なんだか名残惜しそうな雫の声が聞こえたが、それどころではない。
「ご、ごめん、雫!!せっかくのお休みを・・・!!」
僕の記憶は、桜の木の下で雫の頭を撫でている内に、雫が僕に体重を預けてきた辺りで止まっていた。
雫の体温が心地よく、つい目を閉じてしまった時にはすべてが遅かった。
あの時はお昼だったのに、今は空がオレンジに染まっていることから、昼下がりのほとんどを寝てしまったのは明らかだ。
おじさんにも無理を言ってもらった休みを無駄にしてしまったことを、僕は心から謝罪する。
昨日の様子から、雫が僕とここで過ごすのを楽しみにしていたのは、知っていたというのに。
朝に屋敷で話したように、今日は雫の事だけ考えて遊ぶと約束したと言うのに。
「ふふっ、別に大丈夫だよ・・・久路人、一つ忘れてるでしょ?」
「え?」
平謝りする僕に、雫は苦笑しながら続けた。
「ここに来た目的は、久路人と二人きりで過ごすっていうのあるけど、しっかり休むってこともあるんだからね?こうやって寝れたってことは、目的達成できたってことだよ・・・私としても、久路人の寝顔がたっぷり見れて満足感あるし」
「雫・・・」
雫は、本当に気にしていないように笑った。
それは、雫の本心だろう。
曲がりなりにも恋人以上の関係である僕にはわかる。
「ところでさ」
「え?」
そこで、急に雫は話題を変えた。
「久路人は、何か夢とか見てた?」
「夢?」
「うん。なんだか、気持ちよさそうに寝てたから、いい夢見てたのかなって」
「夢・・・」
言われて、ふと、先ほどまで残っていた感触を思い出す。
手首に目をやるが、やはりそこには何もない。
だが、覚えていることはあった。
「なんだか、水の中にいたような気がする。鎖を付けて」
「え?何それ、拷問?そういうプレイがしたいなら、その、付き合わなくもないけど・・・」
「ち、違うよ!!そういうのじゃなくて、今日の午前みたいに、水の中を散歩してるような、そんな感じ・・・いや、散歩はしてなかったかな?ただ、水の中を漂っているだけだったみたいな・・・なんか、気持ちのいい夢だった」
「ふ~ん・・・」
雫の反応を伺うが、これと言って大きなモノはない。
しかし、僕は何か違和感を覚えた。
それに気付けたのは、寝起きの頭が落ち着いてきたからだろうか。
(なんか、雫の霊力が、少し違うような・・・?)
目の前にいるのは、間違いなく雫だ。
僕に幻術耐性があるというのもそうだが、雫と繋がっている魂が、そう言っている。
けれども、僕が眠る前とは、何かが違う。
いや・・・
(僕自身も、何か、おかしい?)
霊力に、微かに違和感があった。
量そのものは変わらないはずなのに、魂から溢れる霊力がせき止められているような感覚。
まるで、内側から大きな力が湧き出そうとしているような、鼓動。
しかし、その力は、あと一歩というところで留められている。
その一歩は遠く、あと少しだという感じはするのに、まるで堅牢な鍵のかかった扉でも挟まっているようで。
「ねぇ、久路人」
「ん?」
先ほどから立て続けに襲い来る違和感の数々に、つい僕が考え込んでいると、雫が僕の顔を覗き込んできた。
「その夢、誰か出てきた?」
「え?・・・いや、誰も出てこなかったような・・・でも、誰かがずっとそばにいたような気がする」
僕は、再び手首を見た。
そこには何もないが、感触は残っている。
その正体は・・・
「雫が、ずっと僕の手を握ってくれていたような・・・」
「そっか・・・」
そうだ。
確かに、夢に雫は出てこなかった。
だが、ずっと僕と繋がっていた。
それが、夢から覚めた今でもわかる。
むしろ、なぜ目覚めてから今までわからなかったのか。
「じゃあ、いい夢だったってことで、いいのかな?その、私と、2人だけでいられて」
「うん。それは間違いないよ。雫の顔が見れなかったのは残念だけど・・・もう少し、寝ていてもよかったかなって思えるくらいには」
姿がなかったのは残念であるが、雫を感じることはできた。
青い水の中で、そこにあるのは僕自身と雫の温もりだけだった。
それは、まるで午前中の散歩のようで、激しい喜びこそないものの、とても心が落ち着くものだった。
そこまで思い返して、僕は立ち上がり、パンパンとズボンについた芝を払った。
「それじゃあ、雫、屋敷の方に戻ろうか?」
「うん。そうだね。時間は有限だもん。なにせ・・・」
僕が雫に手を差し出すと、雫は淀みなく僕の手を握って立ち上がる。
そして、雫は立ち上がりながら、こう言った。
「明日には、『ここ』を出なきゃいけないもんね」
「っ!?」
ピタリと、歩き出そうとした足が止まった。
「・・・久路人?」
不意に動きを止めた僕に、雫は静かに声をかける。
けれども、僕は動けなかった。
雫の一言は、まるで巨大なハンマーのように、僕を揺さぶったからだ。
「ここを、出る?」
「うん。そうだよ。私たちは、帰らなきゃいけないでしょ?」
オウム返しのように虚ろな僕の声に対して、雫の口調はやけに明るい。
しかし、それと反比例するように、その瞳は無機質だった。
「・・・帰る?どこに?」
「私たちの家だよ。この世界の外。京とメアが住んでいる、家の隣」
「ここの、外」
足が動かなかった。
石か鉄にでも変わったようだった。
もしも、ここで動いてしまったら、よくないことが起きるような気がした。
とにかく、僕は・・・
「帰りたくないの?」
「っ!?」
雫が、鼻の先と先がぶつかりそうなくらい、すぐ近くにいた。
僕の瞳を、真っすぐに覗き込んでいる。
「どうして?なんで、久路人は帰りたくないの?」
「それは・・・」
僕は口ごもった。
そう、僕は帰らなければならないはずだ。
ここにいるのは、一日だけ。
ほんのわずかな休暇のはずだ。
外の世界では、僕の身を狙う連中がいて、僕らは対抗するために力を付けねばならないのだ。
(外の、連中・・・)
--ギリッ
僕の歯から、嫌な音がした。
「血、出てるよ」
「え?」
「勿体ない・・・あ~ん」
「っ!!」
気が付けば、僕は血が出るほどに歯ぎしりをしていた。
僕の唇の端から漏れる血を、雫が指で拭って、口に運ぶ。
その動きは、やけに艶めかしく映った。
「わっ・・・」
僕は、衝動的に雫を押し倒していた。
「ハッ、ハッ、ハッ・・・!!」
「・・・久路人」
突然の行動であったのに、雫に驚いた様子はなかった。
先ほどまで作り物のようだった雫の瞳に、粘着質な熱が宿っているのに気が付いたが、そんなことでは僕は止まれなかった。
自分の心臓の鼓動と、息がうるさかったが、それも障害にならない。
僕はそのまま、雫の着物に手をかけ・・・
「私を、自分だけのモノにしたいんだね?」
雫の言葉で、手を止めた。
「私を、久路人だけのモノにする。私のやることなすことすべてを、久路人だけが見ているようにしたい。私の心の中を、久路人だけで埋めて欲しい。京や、メアのことだって考えて欲しくない。今ここでやろうとしているのは、外に出たら、『他のヤツ』が邪魔してくるかもしれないから。ここなら、私たちしかいない、『2人だけの世界』だから。この世界で私に消せないくらい久路人を刻んだら、外に出ても私は久路人のモノだから・・・違う?」
「雫、僕は・・・」
それは図星だった。
降ってわいたような己の中の衝動に形を与えられ、冷水をかけられたように僕は止まってしまう。
雫は、そんな僕を見てクスリと笑うと、僕の手を、己の着物の中に滑り込ませた。
僕の手に、柔らかな膨らみの感触が伝わる。
「私、嬉しいよ」
「雫」
雫は、笑っていた。
三日月のようにひび割れて不気味な、それでいて目が離せないくらい艶めかしい色気の滲んだ、矛盾する笑み。
その唇が開く。
「やっと、やっと久路人もそこまで考えてくれるようになったんだね」
「・・・・・」
「私はね、ずっと前からそうだったんだよ?ずっと、そうなったらいいなって思ってた。久路人が、私のことだけを見て、私のことだけを考えてくれたらって」
「・・・・・」
僕は喋れなかった。
雫の言葉を、咀嚼していた。
理解できた端から、僕の心は震えていく。
「ねぇ、久路人」
そして、雫は、その言葉を口にした。
「『邪魔』なヤツが、多すぎるって思わない?」
「・・・っ!!」
ビクリと、僕は震えた。
「私たちの仲を引き裂こうとするヤツが、たくさんいるって考えたことない?」
僕の脳裏に、様々な記憶が蘇った。
普段から、僕と雫が一緒にいると、襲い掛かってきた妖怪たち。
雫と密かに話している時に、無粋にも話しかけてくる人間たち。
僕と雫を、実際に引き離した九尾。
雫に傷をつけやがった吸血鬼。
雫を好きな僕に、お見合い状を送り付けてくる霊能者。
雫を殺そうとした、月宮久雷に霧間八雲。
僕を狙っていると言う、旅団。
「例えそこに悪意なんかなくたって、私たちが本当に2人だけになれる場所って中々ないよね」
小さいころから、僕と雫はおじさんとメアさんの2人の近くで暮らしている。
おじさん達には、たくさんお世話になった。
何度感謝してもし足りないくらい、恩義を感じているのは間違いない。
朧さんやリリスさんには、危ない所を助けてもらったことがあるし、雫は背中を押してもらったらしい。
リリスさんがいなければ、雫は立ち直れず、僕とこうして結ばれることはなかった。
そう思えば、一生かけても返せないくらいの恩ができている。
とてもいい人たちというのもあるが、何かあればすぐに助けになりたいと思っているのは本心からだ。
池目君や、判侍君、毛部君に野間瑠君。物部さんたち。山坊や、ミィ、三郎たち、白流警備隊。
僕が人間だったころ、平和に暮らせたのは男友達の彼らがいたからだし、毛部君たちや白流警備隊に至っては、この街を守るために力を貸してくれている。
雫に人間の女友達ができるのは、きっと良いことに違いない。
そう思っているのは、心の底からのモノだというのは、はっきりした確信がある。
だが・・・
「いいヤツだっている。感謝だってもちろんしてる。何かあれば、力になりたいって思ってる。それは本当だよ?でもさ・・・『邪魔』だなって思ったこともあるでしょ?」
「・・・・・」
僕には答えられなかった。
それでも、心の奥底の僕は叫んでいた。
それは、僕の中にずっと前からある、一本の芯。
『僕の雫に、関わるな』
「・・・・・」
ずっと昔からそうだった。
雫にも指摘されたことはある。
僕は、独占欲が強すぎる。
雫が、他の人間に見られないことに安堵した。
雫が毒を振りまいて、他の男が寄ってこれないことに歓喜した。
だから、ずっと、無意識であっても思っていたに違いない。
「僕と、雫だけの・・・僕たちしかいない場所が、あればいいのに・・・!!」
それは、僕の中にずっと眠っていた願い。
これまでは、まずは雫と結ばれることだけを考えていたから、気付く余裕がなかった。
だが今では、僕と雫は生涯を誓い合った仲だ。
だから、それが目覚めるのは時間の問題で、この白竜庵という世界で、一時とはいえ満たされてしまった。
もう、この欲望から、目をそらすことはできない。
それは、散々他の人たちの助けを借りていた分際で、なんと器の小さく、浅ましいことだろうか。
--ドクン!!
「っ!?」
僕の中で、何かが脈打ったような感覚がした。
「いいんだよ」
「雫・・・」
驚き、自分の胸に手をやろうとした僕を、雫は止めた。
僕の手が食い込むくらい、己の乳房に押し付ける。
「言ったでしょ?私も、同じだって」
そんな痛みなどまったく気にしていないように、雫は艶然と笑う。
「造ろうよ、久路人。私たちの、理想の世界を」
「理想の、世界・・・」
『そう』と、雫は頷いた。
「私と、久路人の理想は同じモノだよ。なら、絶対に造れるよ。だから、もう一度、言ってみて欲しいな」
「僕の、願い」
唐突に、視界が白く染まった。
僕と雫は、湖の中にいるかのように、白い世界の中にいた。
その白い何かは、僕のよく知るモノだ。
(雫の、霊力)
僕らを包んでいるのは、雫の霊力だった。
世界一つを構築できそうなほどの膨大な霊力が、辺りに満ちていた。
そして、僕は前方に気配を感じた。
(黒い、扉・・・)
その扉は、黒い鎖で厳重に封鎖されいる。
しかし、鎖は扉から溢れるモノを抑えきれていないように、千切れかけていた。
--ジャラリ
すぐ近くから、金属の擦れる音がした。
見れば、僕の右腕には黒い輪、左腕には白い輪が嵌っている。
輪からはそれぞれ鎖が伸びていて、それは雫の両腕に嵌る輪に繋がっていた。
鎖を見る僕を、雫はギラギラと燃える瞳で見つめている。
--ドクン!!
「っ!?」
白い輪から、何かが伝わってきた。
粘ついていて、真っ赤に煮えたぎった、溶岩のような何か。
それは雫の霊力かもしれないし、雫の血なのかもしれないし、雫の心なのかもしれない。
だが、それが決め手だった。
そこから伝わったモノは・・・
「僕の、願いは・・・願いは!!」
僕の抱くモノと、まったく同じだったから。
「僕と、雫以外が、存在しない世界!!」
僕がそう告げた直後。
黒い扉を縛る鎖が砕け散って、扉が開く。
そして・・・
「雫」
「久路人」
お互いから伸びる鎖を絡みつかせ、僕らは唇を重ねる。
刹那、世界に黒と白が混じり合った。
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この日、日本の『二か所』で、膨大な霊力が湧き上がった。
一つは、白流れの地。
白流には七賢の京によって結界が張られているが、その結界が大きく揺らぐほどの大きな反応だった。
それは、『神格』に至った存在が現れた証。
『『ォォォォオオオオオオオオオオオッッ!!!』』
天に昇っていく、黒と白の霊力の奔流が、その力強さを物語っていた。
もう一か所は、かつて久路人たちも訪れた、葛城山。
観光地として栄えるかの土地は、霊脈が表出する地点でもあり、霊地の一つ。
今、そこに張られた結界は破られ、その機能も停止した。
異能の力を隠してきたベールが剥がされ、人々は目にすることになる。
『『グォォオオオオオオオオオオオオッッ!!!』』
おぞましい叫び声を上げながら、かの地に現れた双頭の獣を。
人間たちを、現世を守り続けてきた、固く閉ざされてきた忘却界。
この日、その強大な壁に、大きな亀裂が走ることとなる。
そして、重ねてもう一つお詫び。
最近ちょっと脳破壊喰らったんで、もしかしたら新作書くかもしれないです(無論、ヤンデレヒロインもので)。




