永久の路を往く者
やっとここまで来た!!
顔を見ていなかったのは、たった一日にも満たない間だっただろう。
「久路人っ!!」
声が聞こえる。
僕の名前を叫ぶ声が。
その声を聞くのも、ほんの一日ぶりだ。
だというのに・・・
「久路人っ!!」
僕の名前を呼んでくれる彼女を見た瞬間、僕の胸に沸き上がったのは、心の底からの安堵と懐かしさ、そして、罪悪感だった。
「雫・・・」
その感情の赴くままに、僕も彼女の名を呼ぶ。
「久路人っ!!なんでこんな血塗れに・・・まず血を止めなきゃ!!」
血だまりに沈む僕に、雫は駆け寄ってきた。
その真っ白な着物が赤く染まるのも気にせずに、僕の前に屈んで、膝の上に僕の頭を乗せる。冷たくも、柔らかい感触を感じている内に、体の表面を流れていた液体の感触が消えていく。水を操る応用で、血を止めたのだろう。
「止血はこれでいいとして、早く私の血を・・・」
続いて、雫はすぐさま片手の人差し指を上に突き出した。
すると、指を覆うように氷の刃が生まれる。そしてそのまま、何のためらいもなく白い手首に氷の刃を走らせると、そこから滴る血を僕の口に近づけてきた。
「雫・・・」
「久路人、早く飲んで!!」
必死そうな顔で、泣きそうな顔で、僕に血の付いた手首を押し付けてくる雫。
そんな彼女を見ていると、僕の頭にあの言葉がよみがえった。
--お前がやるべきだったのは、『心配かけてゴメン』と謝ることであって、守る側の気持ちを馬鹿にすることじゃない。
(ああ、僕は本当に馬鹿だな・・・メアさんの言った通りだ。あの時は、運が良かっただけなんだな)
僕は、雫をこれ以上狂わせないために、傷つけないようにするためにここに来た。
なのに、結果はこのザマだ。守ろうとした雫に助けられ、今もこうして傷を作らせている始末。
何もなせずに、それどころか雫に忘却界の中にまで来させるという特大の迷惑までぶちまけたのに、こうして傷ついて横たわることしかできない今だから分かる。今までは、単に運が良かっただけだと。
自分は最善を尽くそうと思っていたのに、真逆の結果を呼び寄せてしまうこともある、と。
(僕は、これまでやってきたことを正解だと思ってた。今日だって、ここに来るまで、自分が間違ってるだなんて思いもしなかった。でも、一歩間違えていたら、九尾の時も、吸血鬼の時も、こんな風に何もできずにいたんだろうな・・・)
こんな危険な綱渡りをしていたのに、それを気にした様子もなく誇らし気にしていたら、そりゃあ腹も立つだろう。こんなに心配そうな顔をしてくれる人でも、許せないと思うだろう。馬鹿にされてるとすら思うかもしれない。もしも雫が僕みたいなことをして、僕のようになっていたら、僕は絶対に怒るに違いない。
「雫・・・」
だから、その言葉はすぐに出てきた。
「久路人っ!?喋るより前に、早く・・・」
「心配かけて、迷惑、かけて、ゴメン・・・」
「・・・久路人」
雫は、少し驚いたような顔をしていた。
「あの時も、吸血鬼と・・戦った後のことも・・ゴメン・・・あの時は、ああするしかなかったかもしれないけど・・・雫に言い返す資格なんて・・・んぐっ!?」
今日のことも、今までの事すらも謝る僕を、雫は無理やり止めた。
僕の口に、血の付いた指を突っ込むことで。
「許して欲しかったら、早く怪我を治して!!」
中々血を飲まない僕に業を煮やしたのだろう。
雫は、滴る血を指に垂らして、無理やり飲ませることにしたようだ。
口の中に、血の味が広がる。
いや、それだけじゃない。塩辛い味も感じた。
「・・・ずるいよ久路人」
「・・・ふぃふく?」
見上げる僕の目に、水滴がいくつも落ちてきた。
「今日の事ね、すごく心配した。すごく悲しかった。すごく怒ってたんだよ?それに、あの時のことだって、私は何もできなかったのにあんなこと言っちゃって、私から謝ろうと思ってたのに・・・久路人の方からそんな風に言われたら、全部タイミング逃しちゃうじゃん・・・ずるいよ」
それは、雫の涙だった。
「・・・雫」
じわりと、僕の心の中にいくつもの想いがしみ込んでいく。
その感情は何というのだろう。
自分への不甲斐なさを打ち消すような、優しい何か。
こんな僕を見捨てずに、涙を流してくれることへの喜びと罪悪感。
僕と同じように、あの時のことを気にしていてくれたことへの嬉しさと共感。
そして、そんな雫への愛しさが。
いくつもの心の叫びが折り重なって、僕の中で動き回る。
何よりも・・・
(ああ、そうだ・・・)
乱れに乱れた心の中で、それは今にも飛び出しそうなほど大きくなっていた。
それは、雫の顔を見た時から。
いや、健真さんと話した後から、ずっとずっと心の中で叫んでいた何かだ。
(僕は、知りたい・・・)
雫の流してくれている涙は、雫の心の底からの、混じりけのない想いから来るものなのか?
妖怪に力を与える神の血を穢すような真似をしたのは、雫なのか?
僕の血は、お前の心を縛ってなどいなかったのか?
ならば・・・
(雫の、本当の気持ちを・・・)
「雫、僕は・・」
その衝動に押されるように、僕は口を開こうとして・・・
「むぐっ!?」
「色々言いたいことがあるのかもしれないけど・・・」
開いた口の中に、暖かい何かが再び突っ込まれた。
同時に、鉄の匂いが口内に充満する。
舌に触れた柔らかな質感と硬くて滑らかな感触から、僕はもう一度指が突撃してきたのだとわかった。
「それは私もそうだから。だから、後で全部話そう?私も全部喋るから。今は、早く元気になって」
頭上に見える雫の顔は、静かで、どこか緊張しているように見えた。
僕自身の一世一代の問いを遮られたことに若干の抗議をしたかったが、それもその覚悟のようなものが込められた声を聞いて霧散する。
「むぅ・・・」
僕は一旦自分を落ち着かせるように、目を閉じた。
今の雫は僕の傷が気になって仕方がないようだし、僕自身もヒリヒリとした火傷のような痛みを感じている。
ならば、先にそちらをどうにかしてからの方がいいだろうと思いなおした。
(仕方ない・・・もう一度、後でだ)
そうして、突如として狭まった口の中のスペースをもう一度広げるように、僕は溜まった液体を、反射的に飲み込んで・・・
--ザワリと、何かが蠢いた。
(あれ?)
「むぐ?」
「・・・久路人?」
体が熱い。
何かが、僕の中に広がっていく。口から入って、喉を通って、体の中に流れていく。
さっきまで怒涛の勢いで流れていた血潮に乗って、僕の身体を駆け巡り、しみ込んでいくのを感じる。
その動きが、なぜか手に取るように分かった。
(今のは、雫の血、だよね?)
僕が呑み込んだモノは、僕の体になだれ込んでいくモノは、雫の血だ。
それそのものは、過去にも飲んだことがある。
覚えていないが、葛城山の時もそうだし、昨日の吸血鬼を倒した後もだ。その時は、少なくとも昨日は、こんな熱くなるような感覚はしなかったのだが・・・
(僕の身体が、魂が喜んでるような・・・)
「っ!!傷の治りが遅い・・・久路人、もっと!!」
雫の焦ったような声が聞こえる。
それと同時に、雫は塞がっていた手首の傷をもう一度開き、傷口に指を突っ込んでいた。
雫に自傷させていることに情けなさと申し訳なさを覚えつつも、僕は疑問に思った。
(治るのが遅い?これで?)
雫の言う通り、あちこちに開いていた傷が治っていないのは、なんとなく分かる。しかし、さっきまで体に走っていた鋭い痛みはほぼ消えている。
その代わりに、体の中に籠る熱は益々強くなっていく。
普通ならば、あまりの熱で倒れているだろうに、不快感や虚脱感もない。
むしろ、体の奥底から力がみなぎって来るような・・・
--ドクン!!
「うっ!?」
「久路人っ!?」
自分の中で、心臓が大きく鼓動するのが聞こえた。
そのあまりに大きな鼓動に、思わず声が出てしまう。
「大丈夫・・・調子が悪い、とかじゃ、ないから・・・」
ドクンドクンと脈打つ胸を押さえながら、僕はそう言った。
実際、傷こそ塞がっていないが体は軽快に動きそうなのだ。嘘は言っていない。
「そんな血まみれの恰好で言っても説得力ないよ!!とにかく、もっと・・・」
しかし、雫にはまだまだ僕が重傷なように見えるらしい。
心配そうな顔をしつつも、僕を軽く るような声で、血の付いた指を僕の顔に向かって突き出した。
その時だった。
「神の血を、これ以上汚すなぁぁぁあああっ!!」
「なっ!?」
不意にしわがれた怒鳴り声が響いたかと思えば、一条の閃光が瞬いた。
--------
「くぅううっ!?・・・貴様、何故生きている!?」
雫は咄嗟に氷の壁を作ったが、稲妻は壁を容易く打ち破った。しかし、壁が完全に砕かれる前に、雫は久路人を抱えて下がっている。その顔は驚きつつも、険しい眼で稲妻を放った下手人を睨んでいた。
「はぁっ、はぁっ・・・あの程度で、神の血を引く儂が死ぬものかよ!!」
雫に思いっきり頬を殴られて独楽のように横回転しながら吹っ飛んだはずなのだが、老人は、久雷は両足でしっかりと床を踏みしめ、確かな足取りで雫と久路人に向かって駆けてくる。
その矮躯にはバチバチと紫電が纏わりつき、さらにその周りを黒い砂が舞っていた。
どうやら久路人の雷起と似た、身体能力強化の術を使っていたようだ。
「チッ!!しぶといジジイだなっ!!」
「どけぇっ!!蛇がぁっ!!」
老人の進路を遮るように雫が氷の礫を放つも、久雷はわずかに身を躱すだけで次々と氷塊を避けていく。
というよりも、久路人から見て雫の攻撃が普段に比べると明らかに見劣りする。
「雫・・・あんまり、調子が・・・」
「大丈夫!!確かにいつもより動きづらいけど、あんなジジイに負けないよ!!」
そう言う雫であったが、雫の攻撃はすべて避けられている。
完全に軌道を見破られているのだろう。
しかし、そこはさすが雫と言うべきか、久雷も中々近づけないようだ。
そんな状況に怒り心頭なのか、久雷はだみ声で叫ぶ。
「この汚らわしい蛇がぁっ!!何故今も小僧を守る!?貴様らが結んでいた契約は断ち切った!!何より、その血はもう穢されている!!貴様が小僧を守る理由など、あるわけがなかろう!!!」
「・・・そうか、契約を消したのは貴様か」
次の瞬間、久路人のいる場所を除いて、部屋中を凄まじい冷気が包み込んだ。
「霧間八雲もそうだったが、この屋敷にいるやつは随分と自殺志願者が多いらしい・・・久路人を守る理由だと?そんなもの決まっている!!久路人だからだ!!契約などなくとも、妾は久路人を守る!!そう、確かに約束したからだ!!妖怪からも、貴様のようなクソ人間からもなぁっ!!」
雫は、約束よりも契約を重視していた。
それは、雫が自身の行いから、『久路人に守られる価値などない』と思い込んでいたからだ。
しかし、雫の方から久路人を守る分には、その約束は雫の中で有効だ。
いや、約束がなくとも、雫は久路人を守っていたに違いない。
「・・・雫」
そしてそれは、久路人も同じだった。
久路人を背に、雫は叫ぶ。
「覚悟しろよ老害!!!久路人に傷を負わせたこと!!妾と久路人を繋ぐ契約を切ったこと!!どちらも万死に値する!!霧間八雲ともども、楽に死ねると思うなよ!!!」
大切な人を傷つけられたこと、大事な契約を踏みにじられたこと。
どちらも、雫に、いや、久路人にとっても許せないことだ。
久路人もまた、ヨロヨロと立ち上がりながら久雷に鋭いまなざしを向ける。
そうして、雫が久雷と睨み合っていた時だ。
「久雷様!!」
「これはっ!?儀式は失敗したのですか!?」
「久雷殿!?何が起きているのです!?」
「ウ゛っ!?なんてひどい臭い・・・・ヴォエッ!!吐きそう・・・」
「お、おいお前!!吐くなよ!?ここで吐くなよ!?いいか、絶対に吐くなよ!!?」
「・・・主ら」
バタバタといくつもの足音が聞こえたかと思えば、部屋の中に幾人もの人影が飛び込んできた。
入ってきた面々の顔を一瞥した久雷は、すぐに指示を出す。
「来るのが遅いわグズどもが!!状況は見ての通り、そこの蛇のせいで中断された!!だが、小僧の身柄を押さえ、時間をかければ再度儀式を行うことは可能だ!!霧間の者どもも儂に従え!!蛇を殺し、小僧を捉えろ!!」
侵入してきたのは、月宮家の者たちと、霧間一族の霊能者だった。
月宮一族は久雷の言葉にすぐに武器を取り出して構え、ワンテンポ遅れて霧間一族も雫という大妖怪を逃すつもりはないと言うように戦闘態勢をとるが、そんなものを雫が見逃すはずもない。
「チッ!!ワラワラと虫のように沸きやがって!!瀑布!!」
忘却界に入ってからは使っていなかった水の大技をぶちまける。
部屋の中に激流が現れ、久雷も含めてすべてを押し流そうとするも・・・
「無駄じゃ!!」
「っ!?」
雫の前に立ちふさがる人影は、一人も減っていなかった。
霊能者たちの胸元や服のポケットから、青い光が湧き出して、彼らを守るように包み込んでいる。
その様子を見て、ニヤリと久雷は笑った。
「はっ!!この屋敷は、お前のような蛇や、霧間以外の水属性、そしてそこの小僧の力が何重にも縛られる牢獄よ!!さらに、儂らは雷と水の専門家!!その二つの属性を防ぐ術具も簡単に用意できる!!おまけに小僧の霊力はほぼ空だっ!!楽に死ねると思うなだと?それはこちらの台詞だ、蛇!!」
「はぁっ、はぁっ・・・クソッ!!」
雫は肩で息をしていた。
忘却界の中を猛スピードで飛ばしてきたことに加え、久雷の言うように屋敷に刻まれた結界が雫の力を大きく削っていた。今まで普段の薙刀や水の広範囲攻撃を使わなかったのはそれらの維持や発動が困難であるためだ。なのに、それらを使っても相手に有効打を与えられなかったのは、かなり厳しいと言わざるを得ない。
それが分かっているのだろう。久雷の顔に嗜虐的な笑みが浮かぶ。
その身を纏っていた紫電の色が、紫から白に変わっていた。
「この場において我らの勝利は決まっておるが、冥途の土産に見せてやろう!!貴様を滅ぼす我が力をなぁ!!」
「っ!?」
「これは・・・」
雫と久路人は、ブワッと空気の壁ができたような感覚を覚えた。
久雷から、凄まじいプレッシャーが放たれたのだ。
「神無月!!」
「くそっ!!」
雫目掛けて、白いレーザーが一瞬の内に放たれる。
感じる圧から防御を諦めていた雫は久路人を抱えて回避を選択しており、白い光は何も捉えることなく直進していったが・・・
ーードォンっ!!
「なっ!?」
轟音とともに、屋敷の外まで繋がる風穴が開いた。
雫たちがいた場所から後ろの壁が綺麗さっぱり消滅している。
「貴様ぁっ!!今のが久路人に当たっていたらどうするつもりだぁっ!!」
「ふん!!そやつは神の力や雷撃に耐性がある。一発くらいなら死にはせんだろうよ。生きてさえいればそれでいい」
雫の憤怒に染まった眼差しを受けても、久雷はにやついた表情を崩さない。
仮にも自分の孫を殺しかけたというのに、罪悪感や良心の呵責も全く見られない。そこには、自分こそがその場の支配者であるという優越感に満ちていた。
その根幹にあるのは、己の扱う力への絶対的な自信と驕りだ。
「神の、力か・・・」
雫に背負われながら、久路人は呻くように呟いた。
一度だけとはいえ、同じ力を使った久路人だから分かる。
神の力には精神耐性を始め様々な特性があるが、それを抜きにしても単純に威力が高いのだ。
「その通り!!これこそが、我が研究の成果!!儂の魂に残されたわずかな残滓を集積し、霊力に溶かし込むことで儂の意思で神の力を使うことができる!!どうじゃ?自分よりもはるかに劣る力の使い手に成すすべもない今の気分は?」
嘲笑を浮かべながら、久雷は実に愉快そうに手をかざした。
その手に、どこからか黒い砂が瞬く間に集まっていく。
「そら!!こいつも受け取れぇ!!赤月!!」
赤熱した刃が手刀とともに宙を駆けた。
雫は久雷の視線から射線を見切って回避を試みるも・・・
「霹靂!!」
「白光!!」
「疾風!!」
「鉄砲水!!」
雫の走る先に、周囲からいくつもの術が撃ち込まれた。
雷が瞬き、光が走り、風が駆けて、激流が襲い掛かる。
それらは妖怪との戦いに身を投じてきた経験豊富な霊能者たちによる援護射撃。
雫の虚を突くようなタイミングを計算して放たれた術を前に一瞬雫の足が止まり・・・
「ぐあっ!?」
雫の右足膝から下がゴロゴロと床を転がっていった。
同時に、久路人とともに雫も床に倒れ込む。
「雫!?」
ジュウジュウと肉が焼ける不快な臭いが鼻を横切る。傷口は高熱の刃によって焼かれており、結界の力も相まって、蛇の回復力をもってしても再生が進まなかった。
「このっ!!クソジジイがぁっ!!」
雫は、久路人を背に庇い、紅い瞳を不気味に輝かせた。
「おうおう流石は大妖怪!!動けなくなっても恐ろしいのぉ!!」
「チッ!!」
動けなくなっても、術まで使えなくなったわけではない。
睨みつけたモノを凍らせる邪視を発動させたが、久雷には何の痛痒も見られなかった。
歪んだ笑みを浮かべたまま、久雷は霊能者たちを従えてゆっくりと二人に歩み寄り、宙にいくつもの砂鉄の杭を作り出す。
「さて、よくも散々邪魔をしてくれたのぉ?今日のことはもちろんじゃが、神の血を穢したこと・・・万死に値すると知れぇ!!」
「ガッ!?」
「雫っ!?」
久雷が叫んだ瞬間、杭の内一本が真っ赤に輝き、そのまま雫の左足に突き刺さった。
「ほう?蛇のくせに中々良い悲鳴をあげるではないか・・・体つきは貧相だが見てくれも上物。人間ならば儂の一物をぶちこんでやったところじゃ」
久雷は一瞬、好色そうな眼で雫を見た。
しかし、すぐさまその顔に嫌悪が浮かぶ。
「だが、妖怪では抱く気も失せる・・・まあ、人間だろうと、この鼻が曲がるような生臭さで全部台無しじゃがなぁ。」
「お前っ!!」
「久路人!?前に出ちゃダメ!!」
動けなくなった雫を庇うように、今度は久路人がふらつきながらも前に出た。
普段の柔和な目つきは消え失せ、怒りに染まった鋭い目つきで久雷を睨む。
そんな久路人の視線などどこ吹く風と言うように、これ見よがしに鼻をつまみながら、久雷は心底馬鹿にしたように雫を、そして久路人を見やった。
「ふん。神の血を引く高貴な身でありながら、そんな据えた臭いのする女を庇うか。同じ血が流れている者として恥ずかしいわい・・・儂は月宮久雷。これでもお前の祖父なのじゃぞ?」
「へぇ、そうなんですか。貴方が僕の祖父・・・出会って早々いきなりこんな真似をしてくるのが、祖父から孫への挨拶なんですか?これまで身内の中に高齢の方がいなかったので、わからないんですけど」
「言うではないか・・・じゃが、今のお主らの立場は分っているだろうな?」
「・・・・・・」
荒れ果てた屋敷の一室で、祖父は初めて言葉を交わした孫に名乗るが、そこに親愛の情はない。
あるのは己の野望と、そのためにならばあらゆるものを踏みにじる残虐さだけであった。冷たい声のまま久雷が久路人に問いを投げれば、皮肉に満ちた声音で言い返した久路人の顔に苦み走った表情が浮かぶ。
しかし、次の瞬間には覚悟を決めた男の顔に変わっていた。
「祖父様、お願いがあります」
「ほう?急に殊勝になったな?言ってみろ」
「・・・久路人?」
「・・・雫」
久路人は、自分の名前を呼ぶ雫をわずかの間、振り返って視界に収めた。
その透明な視線に、雫の中で猛烈に嫌な予感が湧き上がる。
しかし、そんな雫を無視するように、久路人は久雷に向き直ると、床に両膝を着いた。そして、そのまま深々と頭を下げる。
「雫を見逃してください。その代わりに、僕は貴方に忠誠を誓います。契約を結んでも構いません」
「久路人!?そんなのダメ!!」
「カッカッカッ!!!」
土下座をして護衛の妖怪を見逃してほしいと懇願する久路人に、雫が動かない足を引きずって縋りつく。
その様を前にして、久雷はこれ以上ない見世物を見たというように哄笑を上げた。
「これは傑作じゃ!!護衛の妖怪を守るために自ら人身御供になろうとは!!己がどうなるのかも察しはついておるのじゃろう?なのに土下座までするとは!!まさか偉大なる力を宿す者がこんな醜態をさらすとはのぅ!!!ガッハッハッハッハァッ!!!!」
「・・・っ!!」
「貴様ぁ・・っ!!」
身がよじれるほどに、涙すら浮かべながら、久雷は笑い続けた。
二人を指差し、顔を赤くして、世界で最も愚かなモノを見たかのように。
実際、久雷は心の底からそう思っていた。
彼にとって、神の力を本当の意味で宿す久路人は現人神だ。それが卑賎な己の前で土下座までするなど、誰が予想できたことか。その胸の内に、失望とも喜びともつかぬ感情が湧き上がる。その正体はわからなかったが、老人の自尊心は神の力を手にした時以来に満たされていた。
「ハーッ、ハーっ・・・・ククッ!!いいじゃろう!!儂としてもお主の身体から蛇の血が抜けるまで契約で大人しくできるのならば蛇を見逃すくらいは構わん!!もちろん、蛇が我らを襲わぬという契約も結ばせてもらうが、よいな?」
しばらく狂ったように笑い続けた後、久雷はそう切り出した。
「・・・雫、契約を」
「久路人っ!?何言ってるの!?そんなの認められるわけないでしょ!!!」
久雷の言を受けて、久路人は静かな声で傍らの少女を促す。
しかし、蛇の少女がそんなものを受け入れられるはずもなかった。
「でも!!こうしないと雫が殺される!!今度こそ、僕のせいで!!」
「だからって・・・」
久路人の表情は鬼気迫るものだった。
この状況は、完全に久路人の暴走によるものだ。これに巻き込んで雫が殺されるようなことがあれば、確実に自害を選ぶだろう。
だが、それは雫も同じなのだ。この状況が絶望的なのは雫にも理解できているが、例えそれで自分だけが助かる方法があっても意味がないのだ。久路人がいなくなった世界で、雫は一秒でも生きていけないのだから。
「頼むよ、頼むから!!」
「無理だよ!!久路人を見捨てて助かっても、私は・・・!!」
そうして、取り囲まれているのを忘れているかのように、二人はお互いを助けるために口論を始め・・
「やかましいぞ」
「ゴフッ!?」
雫の腹に、杭が一本突き刺さった。
「雫っ!?・・・・なんでだっ!?約束が違う!!雫は見逃すと・・・っ!!」
「お主は阿呆か?儂らはまだ契約を結んでおらんじゃろうが。こちらとしては、その蛇は少し痛めつけてやるだけでは足りんくらいに鬱憤が溜まっておるのでなぁ。別にお主を無理矢理に攫って、蛇を殺すのでもまったく構わんのじゃよ。術に頼らずとも、心をいじくる方法などいくらでもある」
「お前っ!!」
「心配せんでも急所は外しておるわい。すぐに死なれてもつまらんからなぁっ!!」
「雫っ!!」
言葉と共に、宙に浮かぶ杭がもう一本震えた。
そして、切っ先が雫の方を向く。
久路人はとっさにその身を盾にするように雫の上に覆いかぶさり・・・
「模倣曲」
鉄の杭は、突然暴れ出したように明後日の方向に飛んでいった。
「やあやあ、皆さまご機嫌麗しゅう!!素晴らしいタイミングで入ってこれたみたいだねぇ!!」
それとともに、カツンカツンと音を立てて、一人の青年が壁に空いた穴から部屋の中に入って来る。
「貴様は・・・」
その青年を見て、久雷は驚きに目を見開き、恐る恐る顔を上げた久路人は震える声でその名を呼んだ。
「健真さん?」
「やあ久路人クン!!あの時言った通り、助けに来たよ!!まあ、命の危険があったのは雫チャンの方だったけどねぇ!!」
「・・・お前」
口から血を吐きつつも、雫もまた健真の方を向いた。
にこやかに手を振りながら、健真は久路人たちの方に歩み寄り・・・
「おっと!!」
素早く身をかがめた。
その頭上を十数本の杭がミサイルのような勢いでかすめていく。
「・・・健真よ、貴様、何の真似だ?」
「フフフ!!!ボクはそこの彼に少しカッコつけちゃいましてねぇ!!一人の大人としていいところを見せに来たんですよ!!!」
その身を襲われかけたというのに、そんなものをまるで気にした様子もなく、月宮健真は父親に笑いかけてみせる。
そんな健真を見て、久雷は怪訝そうに眉をひそめた。
「・・・貴様、何者だ?」
「フフフフフッ!!!その質問するのは大分遅いですよ!!お父様!!!ああ!!なんて可哀そうな息子だろう!!!ここに至るまで実の父親に向き合ってもらえていなかっただなんて!!!でも大丈夫!!このボクがいるさ!!!キミはもういなくなってしまったが、このボクはちゃあんとキミに感謝している!!!なにせ、ここまで美味しい場面に入ってこれたのだからねぇ!!」
大仰な身振りで額に手をやって何かを嘆くような素振りをするも、健真の顔に張り付いたような笑顔は崩れない。ほんの少し前に会ったばかりの青年が豹変したかのような様子に、久路人も訝し気な顔をした時だ。
「さて、久路人クンに雫チャン!!!」
大きな声で、健真は二人の名を呼んだ。
「君たちの周りに、壁を作ってくれないかい!!今から少しの間だけ、ボクが時間を稼いであげよう!!その間に、君たちはお互いの正直な気持ちをぶつけあいなさい!!」
「へ?」
「・・・どういう意味だ」
突然告げられた意味の分からない指示。
久路人と雫は困惑した。
そんな二人に、健真はさらに続ける。
「言葉通りの意味さ!!久路人クンには言ったよね?『答えを知りたければ、直接その妖怪と、すべてを包み隠さず話し合うほかありません』ってさ!!今を置いて、その時があるかい!?今生の別れになるかもしれないのに、胸の内の全てを明かさないで我慢できるのかい!?知りたいと思ったことを、知らないままで終わっていいのかなっ!?」
「それは・・・」
「・・・・・」
久路人も、そして雫も、お互いに顔を見合わせた。
久路人は健真の言う通りにとある疑問を抱え、それを雫に問おうとしていた。
雫もこれまでの行いの全てを話し、己の願いを告げるつもりで久路人を探していたのだ。
その答えを知らずに終わるなど、耐えられるはずもない。
「この状況を諦めるにせよ、切り抜けるにせよ!!まずはそこからさ!!迷いを抱えたままでは人は戦えない!!二人で力を合わせたいのなら、蟠りは真っ先にどけなきゃいけない!!だから・・・おっと!!」
まるで舞台の上に上がった俳優のように大げさな身振りで何がしかを叫ぶ健真だったが、再び襲い掛かってきた杭や術の奔流を見て、軽やかに跳びあがった。
「何の真似か知らんが、儂らの邪魔をするのだ。命を捨てる覚悟はあるのだろうな?」
「命を?捨てる?フフフッ!!フハハッ!!アッハッハッハハッハッ!!!!いいね!!!まさかこのボクに命を捨てるかなんて聞いて来るとはねぇ!!!フフフッ!!命なんて、もうとっくに捨ててるって言うのにさ!!」
いつの間にか、健真を取り囲むように霊能者たちの立ち位置が変わっていた。
久路人たちを包囲網の中に入れているのは変わらないが、ひとまず怪しげな言動をする健真に狙いを絞ったらしい。
その様子を見て、健真は改めて久路人たちに言葉を贈る。
「さあさあ!!二人とも!!あまり時間はないよ!!!今からここはひどい有様になるだろうからね!!身を護るためにも、少しの間休むためにも壁は作っておいた方がいい!!!あと、念のために言っておくけど、ボクのことなんか気にするなよ!!!ボクはボクで、色々と考えた末にこうしているのだからさ!!」
「健真さん・・・」
取り囲まれる健真を見て、久路人はほんの少しだけためらうような素振りを見せた。
しかし、今も時折苦しそうに呻く雫を見て、すぐに決断をする。
「健真さん、ありがとうございます」
「・・・今回は、礼を言っておく」
そして、二人の周りを砂鉄の壁が包み、さらにその周りを閉じ込めるように氷が覆い隠していった。
「フフフ!!!いいね!!後はお若い二人にお任せしようじゃないか!!あと、そうだな・・折角大事なことを話すんだ。静かにできるようにしないとね。無音結界!!」
「お別れは済んだか?」
結界に覆われていく二人を見て、防音の魔法をかけながら、健真の顔に満足げな笑みが浮かぶ。
そんな健真に、久雷は白い稲妻を身に纏わせながら死刑宣告をするように声をかけた。
「何のつもりか知らんが、無駄なことをする。少しばかり休んだところでこの状況がどうにかるものか」
「さて、それはどうだろう?愛の力というのは偉大だよ?特にボクたちのように異能の力に手を染める者にとってはねぇ!!」
「そうか。つまらん遺言じゃな」
「・・・へぇ?」
健真もまた久雷に向き直って言葉を交わす。
しかし、愛を否定した久雷に、健真の声が一段低くなった。
「どうやら、この青年もそうだが、君たちも随分と可哀そうな人たちみたいだねぇ。愛の力を知らないだなんて、なんて憐れなんだろう?そんな君たちに、遺言のついでに少しばかり教えてあげたいことがあるんだが、いいかい?」
「言ってみよ。どうせすぐに忘れるだろうがな」
「それはどうもありがとう!!・・・え~、さて、それじゃあ日本に住む君たちには釈迦に説法かもしれないが、日本にはこんな諺がある!!」
健真は、否、その中にいるナニカは、声を張り上げた。
その腕を大きく開いて、久雷に、自身を取り囲む霊能者に講義をするかのように。
「人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて死んじまえ、ってねぇ!!」
いつの間にか健真の周りに、黒い蚊柱のようなものが沸き上がっていた。
--------
「雫、大丈夫!?」
「ん・・・ちょっと痛むけど、平気。でも、この杭はまだ抜かない方がいいかも」
「そう・・・」
久路人と雫が即席で作り上げた壁の中。
久路人の雷によって照らされながら、二人は向かい合っていた。
雫の顔には脂汗が滲んでいるが、血は止まっている。しかし、確実に再生能力が落ちている今では、腹に刺さっている杭を抜けば失血死する可能性があった。
そんな雫の傷を見ながら、久路人はもう一度土下座をする。
「雫、本当にゴメン!!僕が馬鹿なこと考えたから、こんなことに・・・」
久路人は、自分が情けなくて仕方がなかった。
雫をもう傷つけないようにするためにここに来たのに、今の雫は傷だらけだ。
それはすべて、自分のせい・・・
「久路人、それはさっき謝ったでしょ?だから、いいよ」
しかし、そんな風に自分を責める久路人を、雫は許した。
「雫・・・でも」
「それより、さ」
「え?」
久路人の頬に、暖かい何かが触れた。
その何かによって、久路人は顔を上げさせられる。
急に上を向いた視界に映ったのは、愛しい少女の顔だ。
しかし、その顔は穏やかなようで、何かを覚悟したような不思議な表情をしていた。
「私も、久路人に謝らなきゃいけないことが・・・あるんだ」
「え?雫も?それって、昨日の吸血鬼とのこと?それなら僕だって・・・」
「ううん。そのことじゃないよ。もっと・・・ゴホッ・・別の事。あの時より、ずっと悪いこと・・・」
「あの時よりも・・・?」
久路人は手で挟まれたままに首を傾げた。
はて、自分は雫に謝られるようなことをされただろうかと。
「さっきのヤツが言った通りだよ。ここからどうなるか分からないけど、このことを言わないまま終わるのだけは、コホッ・・絶対に嫌・・・私は、ちゃんと話すって決めたんだから。話して、答えを聞くんだって思ったんだから」
「・・・?」
考え込む久路人をよそに、雫は自分に言い聞かせるようにそう言った。
そして、久路人から手を離してから姿勢を正し、真正面からその瞳を覗き込む。
「久路人」
「は、はい」
その声は静かだった。
しかし、思わず佇まいを正さねばと思うような厳かな声音だった。久路人もまた自然と正座をして雫に向き直る。
「私は・・・」
そうして、雫は告解する。
「私は、これまでずっと、あなたの中に私の血を混ぜていました」
己のこれまでの、おぞましき所業を。
「あなたを、人間じゃないモノにしようとしていました。あなたに、何も言わないで」
そこまで語ってから、雫はさっきの久路人と同じように、深々と頭を下げ、床に額をこすりつけた。
「ちょっ!?雫!!お腹に杭が刺さってるのに無理しちゃダメだ!!早く頭を・・・」
「申し訳ありませんでした!!!」
怪我をしているにも関わらず土下座をした雫を、久路人は慌てて止めようとする。
だが、そんな久路人を遮るように、自分には頭を上げる資格などないと言うように、雫は大声で謝った。
その迫力に、久路人の動きが止まる。
「謝って済むことじゃないです!!でも、今の私には謝ることしかできない!!久路人がこれまでずっと調子が悪かったのも、あの吸血鬼と戦った時に苦労したのも全部・・・」
「知ってたよ」
「私の・・・え?」
今度は、雫が動きを止める番だった。
雫の謝罪に差し込むように投げかけられた言葉に、雫は唖然とした顔をする。
そんな雫の顔を、次は僕の番とでも言うように久路人は手で挟んで、顔を上げさせた。
「いや、知ってたっていうのは違うね。正確には、そうかも?って思ってた、かな?気付いたのは本当についさっきだよ」
雫の顔を穏やかな顔で見ながら、久路人はそう言った。
その顔に、怒りや憎しみのような負の感情は一切見られない。
「ここに来て、健真さんと話して、気付いたんだ。僕の身体に入ってるのは、雫の霊力だって。というか、雫が来る直前に、あのクソジジイが言ってたしね」
ここ最近の霊力異常について、久路人は瞑想によって自分の体内に雫の霊力が混ざっているのに気付いていた。しかし、血で狂った雫がそんなことをするはずがないという思い込みからその可能性を考えないようにしていたのだ。だが、月宮健真との会話によってその思い込みにほころびが生まれた。久路人の眷属化を目指す雫と、自分の体内にある雫の霊力。それならば、雫が何らかの方法で己の霊力を自分の中に混入させた以外にあり得ないだろう。図らずも、月宮久雷によって裏付けが取れたが。
「それを考えたら、本当に授業料を払ったって感じなのかな・・・というか、霊力を混ぜているとは思ったけど、血を飲まされてたとは流石に・・・」
「ま、待って!!」
「ん?」
健真が去り際に言っていた「授業料」について思い出していた久路人は、そこで我に返った。
見れば、雫は困惑したような顔で久路人を見つめている。
そして、震える声で問いかけてきた。
「久路人、その・・・怒ってないの?」
「え?怒る?・・・なんで?ああいや、確かに霊力異常は困ったし、勝手にっていうのはちょっとどうかと思うけど」
その問いは、久路人にとって意味がよく分からないものだった。
「そうじゃなくて!!久路人、人間やめさせられそうになってたんだよっ!?化物にされそうになってたんだよっ!?どうして・・・」
「化物って・・・その、どんな感じの?クトゥルフとかそういうウネウネ系?」
「う、ウネウネ?いや、流石にそんなのにはならないと思うけど・・コホッ・・って、そうじゃない!!人間から、私みたいな人外に・・・」
「雫と同じなら、それでいいよ」
「なって・・・え?」
自分の言っていることを理解できていないのではないかと思うほどに淡白な久路人の反応に、逆に雫の方が焦っていた。どうにかしてその体に起きていた変化の意味を伝えようとするも、久路人から飛び出した言葉によって思考が完全に停止した。
「というか、人外化か。そうだよ、強くなるならそっちの方がずっと手っ取り早かったじゃんか。どうして気付かなかったんだろう。やっぱり僕も焦って・・・」
「・・・久路人」
しばらくの間放心していたような雫だったが、やがて、信じられないモノを見るような目で問うた。
「自分が言っている意味分かってる?人間じゃなくなるんだよ?一度人間をやめたら、もう一生化物でいるしかないんだよ?」
「・・・人間と人外ねぇ」
久路人は、何かを思い出すように少しだけ目を閉じた。
雫は固唾をのんだまま、何も言えなくなる。
一体、久路人は何を考えているのだろう、と。
「これまでも何度かその手のことは聞かされてたんだけどさ。雫、人間と人外の違いって何かな?」
「え?・・・そりゃあ、えっと・・・」
しかし、予想だにしなかった問いが返ってきて、雫は言葉に詰まった。
そんなことは、語るまでもないことだ。例えるなら、「なんであなたは呼吸をしているんですか?」と聞かれたようなもので、もはや本能だからとしか答えられないような・・・
「昔からさ」
どうやら雫は時間切れだったらしい。
雫の答えを待たず、久路人は己の意見を述べる。
「僕には人間と人外の違いってよく分からないんだよね」
それは、久路人が事あるごとに疑問に思っていたことだ。
強大な力を持つ妖怪も、これまでに会った霊能者も、人間と人外を区別するように扱っていた。
だが、久路人にはその違いが分からないのだ。
「人間だって、妖怪と同じように霊力を持ってる。妖怪だって、人間みたいに意思があって、話し合えるやつもいる。妖怪は他の生き物の霊力を取り込めるらしいけど、それは瘴気を浴びて妖怪になる前の動物だってそうだ。それに、人間の中にだってまるで価値観とかそういうのが違うのもいて、話ができないのもいる。ちょっと姿が違うだけで、そんなに大した違いは・・・って、雫?」
「ははっ・・・」
いつの間にか、雫は笑っていた。
「ははっ・・・そうか、そうだよね。久路人は、昔からそうだったもんね。ふふっ・・・そうだな、本当に、馬鹿だったなぁ、私」
雫の脳裏に、久路人が幼いころの記憶がよみがえる。
あの頃の自分はこう思っていたはずだ。久路人は『欠けている』と。
--久路人には、妾に対する恐怖が欠けている
イカれているとすら思っていた。普通、人間という生き物は己の魂を守るために、本能的に瘴気を放つ妖怪を恐れるものだ。
だが、あの頃の久路人は、人間と人外の境界をまるで理解できおらず、また、他人もそうだと思っていた。
それが成長と共に人間社会の常識を身に着け、今のように大人しい久路人になったのだ。
しかし、その根っこはまるで変わっていなかったのだ。
「本当に、自惚れてたなぁ・・・久路人のことなら、何でも分かってるって思ってたのに、全然そんなことなかったんだ。コホッ・・・馬鹿だなぁ」
雫は、己を笑った。
その笑いは、嘲笑かもしれない。しかし、そこに負の感情は感じられなかった。
理解したのだ。自分にとっての最大の障害が消え失せた、否、最初から存在しなかったのだと。
「雫」
「コホッ・・何?久路人?」
「今度は、僕の方から聞いてもいいかな?」
「うん・・・いいよ」
今度は、久路人の方が据わった目をしていた。
雫は胸の奥から湧き上がる高揚感と安堵感に浸りながら、半ば夢心地になりながら久路人に返事を・・
「雫は、どうして僕に血を、いや、眷属にしようとしたの?僕が人外になったら、神の血だって薄まるはず。僕の血に価値がなくなるけど、それでよかったの?」
「!!」
その問いは、雫のこれまでの行動すべての根幹を問う疑問だった。
その答えは、一つしかない。
だが、それを口に出すには、少しだけ、ほんの少しだけ心の準備が足りていなかった。
「え、えっと、それはね!!ゴホッゴホッ・・・!!ごめ・・・コホンッ、あのね!!久路人にずっと生きていて欲しいからっていうのと、あの、その・・・私としては久路人の血が二度と飲めなくなってもいいから長生きしてもらいたかったっていうか・・・その、なんでそんな風に思ったかって言うとね・・?」
「僕の血が、もう飲めなくなってもいい、か」
雫の答えは、久路人からの不意打ちということもあり、要領を得なかった。
しかし、それで久路人には充分だった。
雫の障害がなかったのと同じように、久路人を縛っていた呪いにも、中身などなかったのだ。
「あの、その、えっと、私はね?私はずっと久路人のことが・・・」
「雫さん!!」
「は、はいっ!?」
突然の久路人の大声に、何かを言いかけていた雫は再び正座した。
そして久路人もまた、背筋をピンと伸ばして、真っすぐに雫を見つめていた。
「僕はこれまで、ずっと決めてたことがあるんだ」
「?決めてたこと?」
「うん。決めてたんだ・・・僕の方から声をかけるって」
--でも、好きな人ができたら、僕の方から声をかける。そういう風には決めてるよ
それは、いつかの大学の食堂で、人間の友人たちに向かって言った一言だった。
久路人は、約束事を守る。
それはもちろん、自分自身が相手でも。
「フゥ~・・・」
久路人は、そこで大きく深呼吸をした。
息を吸って、吐く。
これまで自分を苦しめていた呪いを完全に吐き出すように。
己の心の奥底で、ずっと燃え盛っている想いをさらに燃え上がらせるように。
「雫、僕はね・・・」
そして、告げる。
「僕は、あなたが好きです。友達だとか、家族とかじゃなくて、一人の女の子として」
「・・・え?」
時間が止まった。
久路人も雫も、まるで時が止まったように思えていた。
だが、いつまでも止まってはいられない。
久路人は、時計の針を進める。
「だから、僕と付き合ってください!!これからも、ずっと一緒にいられるように、結婚を前提に!!」
「・・・・・・」
再び、静寂が壁の中を包み込んだ。
久路人は、険しい顔で雫を見ていた。
その顔は、沙汰を下されるのを待つ罪人のようで・・・
「・・・久路人」
「・・・はい」
そして、次に止まった時間を打ち破ったのは、雫だった。
「私は、蛇だよ?人間じゃないんだよ?」
「うん。知ってる」
その声はか細く震えていたが、久路人が聞き漏らすはずもなかった。
「私は、ずっと久路人を騙したんだよ?人間やめさせようとしてたんだよ?」
「僕は気にしないよ」
少しずつ、雫の声が大きくなっていた。
「私、面倒くさいよ?すごく重い女だよ?」
「別にいいよ。むしろ、望むところ。僕だってかなり重い方だと思うし」
その瞳は、いつの間にか潤んでいた。
「久路人が私の血で人外になったら、一蓮托生になるんだよ?私が死んだら、久路人も死んじゃうよ?」
「それでいい。というより、それがいいよ。雫のいない世界で生きていても意味ないから。雫の方こそ、僕が死んだら一緒に死ぬことになっても・・・」
「構わないよっ!!私だって、久路人のいない場所で生きていけないんだからっ!!」
お互いの命を交換することになっても、躊躇いはない。
雫の身体は、心臓は、小刻みに震えていた。
「でも、私、私は・・・」
しかし、それでも雫の返事は煮え切らなかった。
それは、まるで自分にとって不相応な幸運がやってきて、それを受け取って良いのか迷っているようで。
「・・・もしかして、雫は、その、僕のことが、あ~・・・嫌・・」
「そんなことないっ!!それだけはあり得ない!!」
「そ、そうなんだ・・・えっと」
だが、久路人のことを嫌うことだけはあり得ないと断言する。
「じゃ、じゃあ、久路人!!」
「は、はいっ!!」
そして、雫は幾度目かの問いを投げる。
けれどもその問いかけは、十年もの間雫も知らないうちにくすぶり続けていた問いだった。
「久路人は、私とずっと一緒にいるために・・・人間、やめてくれますか?」
それが今、音となって世界に形を持つ。
雫がずっと見てきた想い人に、その言葉ははっきりと届いた。
「そんなの・・・」
だが、そのような問いの答えなど分かりきっている。
久路人は、心の奥底からの答えをくみ出そうとした。
その時だ。
「ゴホッ!!・・・ガフッ!!?」
「雫っ!?」
雫が、真っ赤な血を噴いた。
「あ、あれ?おかしいな?ゴフッ・・・私、蛇なのに、なんで・・・ゲホッ!!?」
「雫!!杭がっ!!」
久路人の見るその先で、雫の腹部に刺さる杭からも、血が流れ落ちていた。
「ゴホッゴホッ!!?なんでっ・・・傷が、治らなっ・・・ガハッ!!?・・くろ、と」
「っ!!」
どうして再生能力に優れる雫の傷が治らないのか。
この屋敷に貼られているという結界のせいか。
久雷の放った杭に込められた神の力のせいか。
あるいは雫がここに来るまでに消耗していたせいか。
久路人にその原因はわからない。
しかし、理解していることがあった。
本能が、告げていることがあった。
--ザワリ
久路人の身体の中で、何かが脈打つのが分かった。
そして、その何かが教えてくれている。
自分が何をすべきなのかと。
「雫」
「ゴホッゴホッ!!カハッ!!?・・くろ・・・ゴフッ!?」
「先に謝っておく。ゴメン。そして、これが・・・」
久路人は、自分たちを覆う壁を作るのでほぼ空になった霊力の、最後の一滴を絞り出す。
久路人の手の中に、小指の先ほどのナイフが造られ、それによって久路人の手首に赤い線が走る。
久路人は、そこからあふれ出る液体を口に含んだ。
「これが!!僕の答えだっ!!」
--久路人の唇が、雫の唇に重なった。
「っ!!?」
鮮血で顔を染めながらも、雫の紅い瞳が大きく見開かれた。
そんな雫を超至近距離で見つめながら、久路人は想う。
雫への答えを。
--雫と共にいられるのなら。永遠を一緒に歩んでいけると言うのなら
久路人が含んでいた血と、雫の口の中に含まれていた血。
お互いの紅い滴が交換される。
それは、その滴は、最後の一押し。
青年を、永久の路を往く者へと変えるひとしずく。
--人の身体なんて、喜んで捨ててやる!!
その瞬間、壁の中を、屋敷の中を、忘却界の中にすら届く光が満ち溢れる。
そして・・・
「「グォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」」
黒と白。
二頭の『龍』が夏の夜空へと飛び立っていった。
感想が早いほど、多いほど、今日中にもう一話投稿できる可能性が上がります。




