初めて異世界恋物語
長らくというか ── 初めてだった。
もう、三十路にも差し掛かるだろう。
所謂、おばさんと呼ばれても可笑しくない。
私は戸惑いを隠せず、頻りに髪を掻き上げたり、何度も何度も座り直している。
彼のベッドの上で ── ……
「お茶持ってくるから、ちょっと待ってて」
そう言って席を外した彼にただ頷いた後、何処を見るでもなくソワソワしては挙動不審に至る。
理路整然とした本棚や、塵ひとつ浮かんでいないフローリングの床。
ふかふかのスリッパを履いていたのだが思わず脱いで、その冷たさを足裏で直に感じとる。
暑さが増す一方だった体温を……心を。
落ち着ける為に咄嗟にとった行為なのだと自分に言い聞かせつつ、全身の毛穴から噴き出す汗を止められずにいた。
よもや、この年になって ── こんなに緊張しようなどとは。
ふと見掛けた鏡面に映る私は、とてもあんなに素敵な彼とは不釣り合い。
ボサボサの髪型やファッションセンスの欠片もない有り様は、余計に私を失意のドン底へと追いやるのである。
「はぁ……。 なんでこうなっちゃったんだろ……」
他人からすれば、さぞ羨ましい状況ではないかと思う。
しかしそれはあくまでも客観的に見ればの話。
当人からしてみれば余りにも滑稽であり、絶対に有り得ないのだ。
……地獄の針の山で激痛に堪える咎人の心境がようく分かる。
私は今まで恋というモノには縁が無かった。
幼小中高と、はたまた社会に出て大人になってからも異性と手を繋ぐことですら皆無。
微かに残っている温もりはと言えば、父親ぐらいのものだろう。
果たしてアレを異性と言っていいものだろうか。
家族としての温もりは、全く別物なのであるからして……。
などと現実逃避に努める私は何となく時計の針を眺めていた。
たった一瞬にのみ重なりあう長針と短針。
まだその時間にも達していないのに妄想だけが暴走し、浮かんだ景色を慌てて両手で掻き散らす。
── あってはならないことだ。
一線を越えるまでにはならないにしても、乙女の純朴は失いたくない。
うむ。
清い交際なのだ。
そして、私はそう有りたい。
深呼吸をこれほどかというまでに繰り返し落ち着こうとした矢先 ── ドアノブはかちゃりと捻じ曲げられた。
「やぁ、お待たせ」
その声には胸が苦しくなる程に愛しさと優しさが籠められており、切なさと心強さなどは欠片をもない。
笑みはひたすらに神々しく、私は思わず手を翳してしまう。
丁寧にテーブルに添えられた漆塗りのお盆には、まったくといって私には不似合いなお洒落なカップとケーキがある。
もう、食べて誤魔化すしかないのだろうか。
なげやりに付き添えのフォークをぶんどり、刻んだ矢先に季節の果物と共に口に放り込んだ。
よく言う「初めての接吻」の味の代名詞。
甘酸っぱさが奥歯に染み入るも、苺独特の嬉しい味覚に酔いしれ身を委ねる。
「ん、美味しい?」
無邪気に突き付けられた笑顔。
目を合わせないようにしていたのに、彼は屈託のない笑顔で私に微笑みかけていた。
「……美味しい……です……」
俯いたまま、先ほど味わった感触などは既に無い。
お腹の膨らみは定かではないが耳の先まで真っ赤に染め、目前にしていた苺のようにひっそりと佇む。
食いしん坊と思われても良い。
寧ろ、嫌われようとしてるのだ。
ほっぺたに着いたクリームなんて気にせず次から次へと欲しようとしていたその時 ──……
「あ、着いてるよ」
それは余りにも自然な流れで回避しようがなかった。
まるで母親が愛娘の粗相を介するが如く。
異性の唇の感触はこれほどまでに柔らかく、瑞々しいモノなのだったのか……。
私はビクッと身体を震わせて瞳を閉じる。
その余韻を染々と、より深く味わうように……。
脳内で荘厳な鐘の音が鳴り響いていた。
関係者各位、家族や親族一同が盛大に拍手を叩き、誰もが祝福している。
大袈裟に見えるぐらいに花束をおもいっきり、勢いよく放り投げて私は皆のものにバトンタッチを促していた。
だが……それは妄想に過ぎなかった。
ゆっくりと彼の逞しい背中へと這わせた両手の感触には違和感しかない。
華奢で尚且つ、繊細な肌触りを一切感じ取れなかったのだ。
ゴツゴツとした、言うならば筋骨粒々。
余りにも彼の感触とはかけ離れすぎていたのである。
不思議に思い、そろりと瞳を開いた私は信じきれない光景を目の当たりにしてしまい、異臭に思わずたじろいでしまった。
「どうしたゴブ?」
何処か聞き覚えのある語尾。
それは私の趣味であるゲームのキャラクターの台詞だった。
額に生えていたそれは小さめで、分かりやすく伝えるなら角だ。
辺りは暗闇が支配しており、時折聞こえた水滴からは多分、どうやらここは洞窟っぽいなと推測される。
……いったい全体、何がどうなってこんなことになっているのか……。
一先ず私は自分の全身を具に、しらみつくしに触診してみる。
そして、状況を全く把握できなかった……。
目前にしている化け物、おおよそゴブリンと呼ばれている彼と同じような形態なのであった。
……バカな……
こんなことがあってたまるか……!!
そもそも、うろ覚えではあるが彼等ゴブリンは異世界の住人であり、現実世界の私にはこれといって関わりはない。
思考はぐるぐると廻り、それでも冷静に置かれた状況を鑑みようとするも理解不能に尽きる。
こんなことをしている場合じゃあない ──……。
明日は朝早くから会議があるのだ。
小五月蝿い上司からの説教宛ら、まるで小姑のように執拗に責めぎたてる早朝の行事。
それでも生活には変えられない。
給料カットなどは避けねばならない必要事項なのだ。
多分、夢に違いない。
現を抜かした報いなのだろう。
いまだに操を立てていた私に対する仕打ちなのだろうが、これはちょっと行き過ぎだと思う。
文字通り重い腰を持ち上げ私は振り返りもせず強引に駆け出した。
後方で喧しく叫ぶ彼を後にして……。
途中、三差路や隠し扉などに惑わされつつもようやく辿り着いた広場は月光に照らされており、呆然としてしまった私はガックリと膝を折る
そこは日本などとは程遠い世界で……いち趣味として楽しんでいた異世界であった。
騒がしく追い付いてきたゴブリンが部屋に戻るようにと促す。
「子作りの最中ゴブ。まだ序盤ゴブよ……?」
目を覆うような悪夢はまだ続くのか。
掴まれた腕を振りほどこうとするが、その力は頂上のプロレスラーに匹敵するほどで、抗う余地など無かった。
「……こんなの……いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
魂からの絶叫は、どうやら神に届いたのか。
そこはかつての彼の部屋であり、現実へと戻ってきたようであった。
私はフローリングの床に敷かれた座布団から勢いよく立ち上がり、決して失礼の無いように。
だが華々しく威勢よく言い放つ。
「ありがとうございました……っ!!」
私は冷たいコンクリートを豪快にヒールで叩き付け自宅へと迎い、夕闇へと苛立ちを突き付ける。
こんな……美味い話などは絶対に無い!!
これは特殊な文化にハマった孤独な女性が孤独と切なる幸せに妄想を膨らませる物語である。
一切、モデルなどは居ませんが……
絶対に、真剣に読まないように……。
絶対に!
真剣に読まないように……っ!!
(;゜∇゜)