厚いもの
その人はいつも厚い本を持っていた。
題名が書かれていない茶色のハードカバー。
その人が男なのか女なのか、仮に彼女としておこう(女だったらいいという希望が含まれていることは否定しない)。
彼女はいつもその本を読んでいた。そして、その本しか読まなかった。
彼女が他人と話しているのを見たことがない。立って歩く姿さえも。
気付くと僕はいつも彼女を見ていた。彼女は決まって中庭のベンチに座って本を読んでいた。そこから動いていないのか…いや、それはないか。
今日もいつもと同じように本を読んでいる。
僕も、気付けば彼女を見つめていた。なぜか、彼女を見ていると時間を忘れてしまう。時の流れなんてないように感じる。彼女が感じさせないのか、それとも…
しばらくすると彼女は本を閉じた。そして、ゆっくりと僕の方を向いた。不思議な力のありそうな瞳が僕をとらえる。本当に瞳に力があったのか、ただただ、気まずかったからなのか、僕はその場から動けなくなった。それを知ってか知らずか、彼女は天使のように美しく微笑み、本を開くと再び読書に戻った。
頬がカーっと熱くなるのが分かった。
それから、彼女の名前を、読んでいる本を、彼女のことを知りたいと思った。
その衝動に突き動かされ勢いよく立ち上がると彼女がいる中庭目指して走った。
建物の中、人にぶつかりながらも、ただ、早く彼女と話がしたいと思った。
彼女は中庭にいた。いつもと変わらない様子で。
弾む息を整えないまま声をかける。
「あ、の…」
「来たね。」
待ってたよ、と、まるで僕が来ることを知っていたように言った。
本から顔を上げ僕を見る瞳は不思議な色をしていて、やはりなにか力がありそうだった。
僕が立ったままでいると、彼女はベンチを軽く叩いた。座れ、ということだろうか。少々戸惑いつつも、疲れていたので少し離れて座ることにした。
しばらく(一瞬のようでもあったし、長くも感じられた)沈黙が続いた。中庭にいる人たちの話し声が風に乗ってとぎれとぎれに聞こえてくる。
「ずっと見てたよね。」
沈黙を破るように言った彼女のその言葉に、僕は目を見開いて驚いた。
なぜ気付いたのだろう。目が合ったのはさっきのが初めてだったはずなのに。
「キミは気付いてなかったかもしれないけど、見ていたのはこっちの方なんだ」
驚きで言葉が出ないというのはこういうことなのだろう。
なぜ、僕は気付かなかったんだ。
彼女はふと表情をなくした。
「…自分が、男なのか女なのか分からなくなる時があるんだ。名前も…忘れた」
僕が聞きたかったこと。
感情を悟らせない声でなお語る。
「でも、これのことだけは覚えてる。ずっと、これだけは持っているんだ。」
そう言って見せたのは、真っ白な羽だった。
真っ白で、ふわふわで、少し大きいもの。
大きな鳥のものか、はたまた天使、なんて。そんなものいるはずがないのに。
「私はさ、私であり、キミであるらしい。」
本に目をおとして彼女は続ける。
「この本には、天使のことが書かれているんだ。」
まさか。彼女の伏せられた顔を見つめる。もしかすると、この人は天使なのかもしれない。なぜかそんな考えが頭をよぎった。
彼女は突然、ギュッと眉をよせて悲しそうな表情をする。
「ありえるかもしれないね。…読めば読むほど自分のことを言われているような、そんな気がしてくるんだ。」
頭の中で思った質問ともいえない考えを口に出す前に答えられたような気がする。それとも無意識のうちに声になっているのだろうか。存在を否定されるような違和感。
気が付けば中庭には僕ら二人しかいなく、風の音すら聞こえなくなっていた。
「キミは、そう、考えるだけでいい。どうやら僕にはキミの考えならわかるようだから。」
“キミの考え”というのはどういうことだろう。
そもそもなぜいつも中庭にいるのだろう。
…中庭とは、なんだろう。
僕がいた建物とは、中庭とは…?
私は…いっいどこにいたのだったっけ?
違和感が再び胸ににじんでシミを作った。が、すぐに消えてなくなった。
あれ…?
僕は今、何かに違和感を感じたはず…だったんだけど。
気のせいか。
そんなことよりも気になることはたくさんある。でも、一番訪ねたいのは名前だろうか。
そうだ、名前が知りたい。
「知ってどうする」
知って、その名を口にしたい。声に出して、忘れないように。さぞ美しい響きなのだろう。そうに違いない。
「すまない。名前は分からないんだ。思い出せない。でも……でも、もしこの本に書いてあるのが、本当に僕のことであるなら、僕の名前は ―――――――― 」
意識が浮上する。
手に重みを感じることに気付いて、視線を手元に落とす。
これは……本?いつから持っていたんだ?一体誰のものだろう。私のもの、なのだろうか。
私は、ずっと誰かと一緒だった気がする。
僕は、だれだ?私は、なんだっけ。
『キミは僕であり、私であり、そしてキミだ。僕は、存在し続ける。
キミがいるかぎり。』
キミとともに、永遠に。
そんなささやきが聞こえた、ような気がした。