三話目 彼
まだあの雑貨屋が喫茶店だった頃の話だ。俺は母親と買い物の帰りにそこに居た。俺がいたのは中の窓側の席だったんだが、喫茶店にはテラス席があってな。俺たちが座っていた席の近くのテラス席に、ひと組の大学生風の男女が座っていたんだ。女のほうがブライダル雑誌を拡げて男と楽しそうに会話をしていた。ドレスの記事を見ている時の女性はうっとりとした表情を浮かべて、男にそれを見せて、多分、「私にこのドレス似合うかしら」なんて言ってたんだろうよ。男は俺から見て背中を向けていたが、頷いていたから、多分笑っていたんだろうな。子供心に、この人たちは結婚するんだろうなって思ったよ。
俺がずっとその様子を見てたから、女のほうが俺に気づいて手を振ってくれたりしたよ。すごく優しい笑顔だった。俺も手を振りかえした。なんか嬉しかったと同時に、こんな人をお嫁さんにできる男が羨ましいと思った。
女が手を振っているのに気づいて、男が俺の方に振り返った。男は利発そうな、それでいて一発でこいつ明るい人だって分かる顔をしていた。男も俺に手を振ってくれたあと、いたずら好きな子供の顔をして、女を指差して口パクで、「美人さんだろ?」って言ってきた。確かに美人さんだったから俺は首を縦に振ったよ。そしたら男はもっと明るく笑った。一気にムカついたな。自慢してきただけだったと気づいたから。俺がムスっと怒った顔をすると男は多分声を出して笑った。
その後の二人の会話は俺は分からない。母親がもう帰ろうかと言い出して、会計に向かったから。俺も母親について行って、会計が終わって外に出た後、二人の方に振り返ってバイバイと手を振った。二人の振り返してくれたよ。すごく人の良い人たちだった。男も結局いい人だから、女の人もこの人を選んだのかなって、一人勝手に納得していた。
荷物持ちをしながら母親と会話をしていた時だった。
「あぶねえ!! 逃げろぉぉぉっ!!!」
あの男の大声が聞こえてきた。それに反応し振り向こうとしたが、母親に強く引っ張られてそれは叶わなかった。
車の音とか、机とか椅子が飛ばされる音とか、何かにぶつかる大きな音とか、人の悲鳴とか、焦げ臭い匂いだとか、鉄臭かったりとか、いろんなものが壊れていたり、人が泣いたり、叫んだり、白い車の前方が壊れていたり、その部分が赤くなっていたり、あの男性がそこでぐったりしていたり。
たくさんのことが一気に起こりすぎて、まだ十歳くらいだった俺には何がなんだか分からなかった。ただあの女の人が男の名を叫びながら泣いているのが見えて、俺もだんだん悲しくなってきて泣いた。状況が飲み込めてきて、それが追突事故だと気づいた。その被害者があの男たっだことにも。女は男に突き飛ばされたのか、少し離れた場所から必死に男の名を呼んでいた。男の所に駆け寄ろうとしていたが、周りに止められて近づけずにいた。
車の運転手は気を失ってんのか、ずっとアクセルを踏んで、タイヤが空回りしてた。男はその車と後ろの壁に挟まれたまま虫の息だった。すごく痛いんだろうなって思ったらもっと泣けてきて。「どうか助かって。死なないで」って祈ってたら、想いが通じて、車がバックしたんだ。よかった! これで助かるんだって喜んだ。男はそのままズルズルとうつ伏せになって倒れた。男の肩は少しだけどまだ動いてた。そうだ! 生きて!! って願った矢先だ。
天井に吊るされてた花瓶が事故の衝撃でバランスを崩して落ちた。
鈍い音と割れた音が同時に聴こえた。花瓶と、何かが。もうピクリとも動かなくなった男を見て、「あ、死んだ」って思った。
「いやあああああっっ!!!」
女の人の悲鳴が聞こえてきた時にはもう、俺は母親に目を塞がれて何も見ることは出来なかった。さっきまで二人、あんなに笑ってたのに。とても幸せそうだったのに。目を塞がれる前に見えた女の顔は絶望に染まってて。男は血まみれになってて。胸が苦しくて、痛くて……。ずっとずっと、泣いていたよ。
男性は話し終えたとばかりにコーヒーを飲む。その目は最初の頃より暗かった。事故のことを思い出して、辛くなっているのだろう。私とはいうと、溢れそうな涙を止めることで精一杯だった。
なんて軽い考えだったんだろう。私は自分がどれだけ失礼だったかを思い知った。彼は、彼は……。
「あんな死に方したら、自分が死んだことに気づいていないかもしれないし、未練だって残ってるに違いない。あの女の人と結ばれなかったんだからな」
そうだ。彼の未練はそれに違いない。きっと彼はその女の人と結ばれるはずだったのに、突然、日常と未来が奪われた。彼はどんな気持ちだっただろうか。悲しかっただろうか。悔しかっただろうか。辛かっただろうか。きっと、苦しかったに違いない。胸が痛い。涙を堪えきれなかった。
「うっ……。うぅ…………」
「大丈夫か? ……ごめん、泣かせた」
「いえ……でも……」
私はまだ泣き止みきれなかった。彼のことを思うと、心が痛んでどうしようもなかったのだ。
「……いきなり、さよならも言えないで、死んじゃうのは、とても、とても……」
表現しきれない感情で胸がいっぱいで辛い。窓越しに彼を見る。なるほど、血まみれなわけだ。どれだけの痛みが彼を襲っただろう。私には想像がつかない。また涙が零れた。
「!!??」
私が泣いていることに気づいた彼が何事かと慌てていた。「俺が悪いのか!?」と思っているのだろうか。私は少し意地悪して頷く。すると彼は泣きそうな顔をしてしまった。私はつい笑ってしまう。
「こんなにいい人なのに」
その声は震え、小さいものだったが、目の前の男性が聞き取るには十分な大きさだっただろう。男性の息を呑む音が聴こえた。あぁ、バレてしまったかな。でもそれでもいい気がしてきた。
「神様って、酷いんですね」
私は真っ直ぐ彼を見つめて言った。
「そうだな」
男性は雑貨屋のベンチを見つめて言った。
私はすっかり温くなってしまったオレンジジュースに口をつける。
「もし、君が」
男性が小さく私に言う。
「もし君が何かしてあげられる力を持っているなら、助けてやってくれないか?」
やはり気づかれていた。だけど別に不快ではなかった。男性が私のことを理解し、頼っただけの話だから。
私はストローから口を離し、笑みを作る。
「私に出来る事なら、なんだってします」
男性は安心したように微笑んだ。
あれから男性と別れ、彼と話を少しして帰り道を歩いていた私。しかし、考え事をしながら歩いていたせいか、いつの間にか知らない道に入っていた。
「何してんの私……」
急いで元の道に戻ろうとした私の足が止まる。私の目に入ってきたのは、先日、叔母たちとともに来た、智晴さんの墓がある墓地だった。私は吸い込まれるように墓地に足を踏み入れる。
「確か、智春さんも二十年前に死んじゃったんだよね……」
智春さんの墓石の前まで訪れ、年を確認する。確かに約二十年前の日付だ。私は手を合わせる。
「智春さん。あなたはどんな風に……」
墓地でこういうことをいうのは失礼かと自重し、小さく謝罪して帰ろうと振り返る。
「っ!!?」
体に電気が走ったような感覚が私を襲った。そして、一つの可能性が突然頭に浮かび上がる。
私と、彼の出会いは何だった? いつだった? どこでだ? 私は何をしていた? 私は、誰と、居た? 彼は、誰を、見ていた?