魔物王降臨6
「我が君に刃を向ける愚か者を処刑する」
無気質で感情の抑揚もないしゃがれた声が魔物から放たれた瞬間、魔物の身体が跳ねる様に大地を蹴り、マルシェの懐に飛び込もうとする。
マルシェは飛び込んできた魔物を、反射的に己の拳で殴り飛ばした。魔物の身体は弧を描いて地面に着地する。その隙を狙い、肉弾戦を最も得意とするマルシェは素手で魔物に飛び掛る。
紙一重で互いの攻撃をかわすその攻防は、長く続く。両者は一歩も引かず、その実力は五分と五分。一瞬でも気を抜いた方が負けるであろうと、エルザはマルシェとレックに時折視線を投げながら、襲い来る敵を一掃した。
「クリムゾン…」
「陛下」
敵が途切れた時、己の渾名を呼ばれエルザは問い掛けた主を振り返る。エドワード公が上体を起こし、荒い息で腕を上げ人差し指で一点を指した。
エルザがその先を見ると、エドワード公の愛剣を身体に突き立てている漆黒の髪をした男が宙に浮いていた。銀の瞳を見開き、エルザとエドワード公を見下ろして真紅の唇を歪めて薄く笑っていた。
その姿は恐怖と妖しい色気を纏う。
エルザは言い知れぬ不快感に身震いし、斧を握る腕に力を込めた。だが、体は凍りついたように動かない。
「万物の始祖である我に対して、随分な歓迎をしてくれるな、下賤な人の王よ」
「魔剣に気を吸われて塵に帰れ、魔物王よ」
魔物の動源力である魔力を吸い上げ、魔物を倒す新たな力に変換する、人間の文明最大にして最高の発明品である魔剣を魔物王に突き立てていたエドワード公は、声を搾り出すように相手に厳かに呟いた。
エドワード公の言葉に、優麗な男の姿をした魔物王は人の姿のまま嗤い、己に突き立てられた剣を引き抜く。
すると剣は瞬く間に腐食し、塵化していく。
「最新鋭の魔剣が効かないなんて…」
「このような出来損ないの粗悪な品で、我を封じられると思うたか?我も見くびられたものよ…貴様のような老いぼれには、忌々しいあの魔剣を扱う力さえない様だな」
宝剣とまではいかないが、最終兵器として製造された最新型の魔剣でさえ効果をなさない現実に愕然としたエルザに対し、エドワード公は鼻で笑う。
「滅ぶのは貴様だ、魔物王」
エドワード公の言葉を遮るように、魔物王に目掛けて若い騎士が襲い掛かる。
二体の魔物を始末したレックは、油断して隙だらけの魔物王の懐へと入り込み、心の臓へと深々と剣を突きたてた。
かつて魔物王を封じたギルドの宝剣である魔剣の姿を見て、魔物王は苦々しく呻いた。
「これで我を謀ったつもりか…小癪な虫ケラ共が」
「ケーニヒ、たらふく喰らえ!」
その言葉に共鳴して、剣の創作者ケーニヒと名付けられた魔剣は眩い光と共に低い唸りを上げ、魔物王の力を猛烈な勢いで吸い上げ始める。
抜こうにも青年が剣に体重をかけてそれを阻止するため、忌々しげに魔物王は間近にある青年の顔を睨む。が、魔物王は自分を不敵に見上げる剣士に、やや驚愕したような表情を見せた。
「その顔…レヴァイアタンの息子か」
その問いかけに、青年は憮然とした表情を浮かべた。その名に、レックは聞き覚えがない。
「知るか。そんな野郎」
だが、魔物王は青年の様子に感じるものがあったのか、苦痛と不快に歪んでいた表情に、禍々しい笑みを浮かべた。
「…あれがな…酔狂なこともあるものよ…そなた、そのような力を持たぬ窮屈な器に閉じ込められて、さぞ居心地が悪かろう」
「意味不明なんだよ、貴様。さっさとくたばれ」
独り迷走するように呟く相手を、レックは鋭く睨んだ。動揺を誘う為の讒言になど騙されるものかと、レックはよりいっそう、剣を相手の身体に捻り込む。
魔物王は体から魔力を吸い上げられ、末端から自由が利かなくなる。だが、それに絶望する様子はなかった。それどころか嘲笑をレックへと向けた。
「何が可笑しい」
「魔剣だけで我を屠れると思うてか?」
憎悪の刃を宿した銀の瞳でレックを睨んだ魔物王は次第に石のように固まっていく指先を上げ、青年の左胸に当てる。
「このようなうつし身の身体を滅ぼしたところで、我は滅びぬ」
「強がりを!さっさとくたばれ!」
青年は身震いした。表情を崩さず相手を鋭く睨み返したが、淡々と言葉を連ねる目の前の相手から放たれる殺意の念は、これまでレックが対峙してきた魔物の比ではない。
一つ気を緩めれば希望という光りなど容易に踏み躙る深い闇に取り込まれ、己の存在そのものを抹消させてしまうかのような絶望の感覚に襲われてしまいそうだった。
「我は人を屠ろう。その身の罪と自覚せぬ愚かな人なぞ、我が世界には要らぬ。我が忠実なる僕共。人を赦すな。人を排し罪を血で濯がせよ」
荘厳な声で魔物の王が告げれば、周囲の魔物が共鳴するように咆哮を一斉にあげる。
心の弱いものなら発狂してしまったであろう、魔物王の思念は重圧のように周囲の者たちの心身をねじ伏せようとする。
全身を強く打ったエドワードは重力の様な圧力に体の骨が軋み、その苦痛に呻き声を上げる。
エルザはその場に立つことすら危うくなる程、身が震えて歯の根が合わないが、それでもエドワードを守るため、魔物王の姿から目を逸らさなかった。
魔物と対峙していたマルシェは、体が鉛のように重くなり、相手に押され始め舌打ちする。
存在感だけで人を握りつぶすような相手では、分が悪過ぎると本能的に感じていた。