婚約破棄ですか? それより決闘いたしましょう
決闘令嬢シリーズ第7弾です。本作品のみでもお楽しみいただけます。
ノルディア王立学園、卒業祝賀会。
華やかな音楽と談笑に満ちた大広間の一角で、
ヴィクトリア・フォン・ブリュンヒルデは数人の令嬢たちに囲まれていた。
十八歳になる彼女は、今年度の卒業生であり、
ブリュンヒルデ伯爵家の長女にして、正式な次期伯爵でもある。
身長は百七十五センチ。
すらりとした長身に、日々の鍛錬によって引き締められた身体を持つ。
濃い青の髪は前髪も含めて同じ長さに整えられた短髪で、
涼やかな切れ長の瞳は灰色。
甘さよりも凛々しさが際立つ顔立ちと堂々とした立ち姿から、
男子生徒よりもむしろ女子生徒から絶大な人気を誇っていた。
今夜の礼装も、彼女らしさをよく表している。
一般的な卒業生の令嬢たちが色とりどりのドレスを纏う中、
ヴィクトリアが選んだのは黒を基調としたパンツスタイルの正礼装だった。
上質な生地には細かな光沢があり、シャンデリアの光を受けるたび、
夜空に散る星のようにきらきらと瞬く。
細身の上着は腰の線を美しく整え、襟や袖には控えめな銀糸の刺繍が施されていた。
「ヴィクトリア様、今夜も本当に素敵ですわ」
「ありがとうございます」
「その礼装、ヴィクトリア様だからこそお似合いになりますわね。
わたくしが着たら、きっと衣装に負けてしまいますもの」
「そんなことはありませんよ。あなたなら、
もっと柔らかな色を合わせても素敵でしょうね」
さらりと返して微笑むと、令嬢が頬を赤くする。
その様子を見ていた別の令嬢が、くすくす笑った。
「本当に、ヴィクトリア様は罪なお方ですこと」
「何がです?」
「そういうところですわ」
意味が分からず首を傾げるヴィクトリアに、令嬢たちはまた楽しそうに笑った。
その中の一人が大広間を見回してから、少しだけ声を潜める。
「ところで……今夜もレオナルト様はいらっしゃらないのですか?」
「ああ」
婚約者の名前を出され、ヴィクトリアもようやく思い出したように周囲を見回した。
レオナルト・フォン・ヴェルナー。
十八歳。
ヴェルナー伯爵家の次男であり、
幼い頃から決められていたヴィクトリアの婚約者である。
「そういえば、まだお姿を見ていませんね」
「そういえばって……」
「卒業祝賀会なのに、婚約者をエスコートもなさらないなんて」
「いつものことですから」
ヴィクトリアは特に気にした様子もなく、グラスへ口をつけた。
レオナルトが彼女をエスコートしたがらないのは、今に始まったことではない。
ヴィクトリアとレオナルトの身長差は、わずか一センチ。
ヴィクトリアが百七十五センチなのに対して、レオナルトは百七十六センチだった。
そのことをヴィクトリア本人は一度として気にしたことがなかったが、
どうやらレオナルトにとっては違ったらしい。
加えてヴィクトリアは女子生徒から妙に人気がある。
本人にその気はまったくないものの、
扉を開ければ感謝され、重い荷物を持てば頬を染められ、
困っている令嬢へ自然に手を差し伸べれば黄色い声が上がる。
結果として、レオナルトの機嫌は年々悪くなっていた。
とはいえ、それは彼自身の問題である。
ヴィクトリアとしては、こちらが何か悪いことをしているわけでもないのに、
わざわざ機嫌を取る必要性を感じていなかった。
「まあ、卒業後には正式な婚姻のお話も進むのでしょう?」
「その予定ではありますが――」
そこまで答えたときだった。
大広間の入口付近が、にわかにざわついた。
何事かとヴィクトリアが視線を向けると、
人波の向こうから見慣れた青年が歩いてくる。
レオナルトだった。
そして、その隣にはもう一人。
「……エルフィ?」
ヴィクトリアの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
レオナルトに伴われていたのは、
二歳年下の妹――エルフィ・フォン・ブリュンヒルデだった。
姉と同じ濃い青の髪と灰色の瞳を持ちながら、その印象はまるで違う。
百五十五センチと小柄な身体に、髪はふわふわと柔らかく波打ち、
目も大きな二重で愛らしい。
凛々しい麗人と評されるヴィクトリアとは対照的な、可憐で可愛らしい少女だった。
そこまではいい。
問題は――。
レオナルトの手が、エルフィの腰へ回されていることだった。
「…………」
ヴィクトリアの笑みが消えた。
その頃には、壁際に控えていた教師たちも異変に気づいていた。
「……あちら、ブリュンヒルデ嬢の妹君ですよね」
「そうですね」
「ヴェルナー卿、腰に手を回していません?」
「回していますね」
二人の教師がしばらく無言で顔を見合わせる。
「……嫌な予感がするんですが」
「奇遇ですね。私もです」
ここ数年、王立学園では卒業祝賀会のたびに妙な騒動が起きている。
婚約破棄。
決闘。
婚約破棄。
決闘。
今年こそは平穏に終わるのではないかと期待していた教師たちだったが、
その希望は間もなく打ち砕かれた。
レオナルトが大広間の中央まで進み、ヴィクトリアを指差したのである。
「ヴィクトリア・フォン・ブリュンヒルデ!」
よく通る声に、大広間の視線が一斉に集まった。
「今日この場をもって、私はお前との婚約を破棄する!」
教師の一人が天井を仰いだ。
「またなの……?」
隣の教師が小声で尋ねる。
「決闘担当へ知らせます?」
「まだです。まだ婚約破棄だけですから」
「だけ、ですか」
もはや感覚がおかしくなり始めていた。
一方、婚約破棄を突きつけられたヴィクトリアはといえば、
特に驚くこともなくレオナルトを見た。
「そうですか。承知しました」
「……は?」
あまりにもあっさりした返答に、レオナルトのほうが目を瞬く。
「お、お前……それだけか?」
「何か問題でも?」
「いや、普通はもっと――」
「それより、レオナルト様」
ヴィクトリアは彼の言葉を遮った。
声は穏やかだった。
けれど、先ほどまで彼女を囲んでいた令嬢たちは、揃って一歩だけ後ろへ下がった。
長年ヴィクトリアと交流してきた者には分かる。
これは、あまりよろしくない声だ。
ヴィクトリアはレオナルトの顔ではなく、エルフィの腰へ回されたその手を見る。
「なぜ、わたくしの妹に触れていらっしゃるの?」
「……何?」
「婚約破棄については承知したと申し上げました。
それよりも、そちらのほうが気になります」
ヴィクトリアの視線がエルフィへ向くと、
妹は今にも泣きそうな顔で首を横に振った。
「お姉様、違うの! わたし、レオナルト様から『お姉様との婚約について、
わたしにも関係する大事なお話がある』って言われて……
それで、一緒に来てほしいって」
「では、あなたはこの方と結婚するつもりなの?」
「ありません!」
エルフィは今度こそはっきりと言い切った。
「わたし、そんなお話、一度も聞いてません!」
「エルフィ嬢!」
レオナルトが焦ったように声を上げる。
「今は姉がいるからそう言っているだけだろう!
だが、よく考えれば君にも分かるはずだ!」
「何がですか?」
「ヴィクトリアより、君のほうが私に相応しいということがだ!」
大広間がざわついた。
ヴィクトリアは何も言わない。
レオナルトはその沈黙を、自分の言葉に圧倒されているのだとでも思ったのだろう。
得意げに胸を張り、聞かれてもいない説明を続け始めた。
「ヴィクトリアは昔から気に入らなかったんだ。
私とほとんど身長も変わらないくせに偉そうにして、
女のくせに周囲の令嬢たちから持て囃されて!
婚約者である私よりも目立ってどうする!」
「……」
「その点、エルフィ嬢は違う。
小柄で可愛らしく、素直だ。夫となる男を立てることもできるだろう」
エルフィが露骨に嫌そうな顔をしたが、レオナルトは気づかない。
「ヴィクトリアとの婚約がなくなれば、
ブリュンヒルデ伯爵家の後継者はエルフィ嬢へ変更すればいい。
そうすれば私が彼女と結婚し、夫として支えてやれる!」
ヴィクトリアの眉が、わずかに上がった。
「……それで?」
「分からないのか? エルフィ嬢はお前のように我が強くない。
伯爵家の切り盛りなど負担になるだろう。
ならば私が代わりに実務を取り仕切ればいい。
ヴェルナー伯爵家の次男である私にも領地経営の知識はある!」
周囲が静まり返っていく。
レオナルトだけが、それに気づかない。
「つまり」
ヴィクトリアが、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、わたくしとの婚約を破棄して、
次期伯爵であるわたくしを後継から外す。
そのうえで、何も知らないエルフィを後継者に据え、
自分はその夫となり、ブリュンヒルデ伯爵家の実権を握るおつもりだった、と」
「実権を握るなどと人聞きの悪い!」
レオナルトは苛立たしげに言い返す。
「私が正しく導いてやると言っているんだ!」
壁際の教師が無言で隣を見る。
「連絡してください」
「はい」
決闘担当への使いが走った。
ヴィクトリアは小さく息を吐くと、エルフィへ手を差し伸べた。
「エルフィ。こちらへ」
「お姉様……!」
エルフィはすぐにレオナルトの腕を振り払い、姉のもとへ駆け寄った。
ヴィクトリアは妹を自分の背後へ庇うように立たせてから、改めて元婚約者を見る。
「婚約破棄については、何の異論もありません」
「ふん。ようやく分かったか」
「ええ。むしろ、結婚する前にあなたがどういう方なのか分かって安心しました」
「なに……?」
ヴィクトリアの唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「ですが、妹を騙し、勝手に将来を決め、
我が家まで利用しようとなさったことについては――別の話です」
大広間の空気が変わった。
「それより、決闘いたしましょう」
◇
ノルディア王国には、
古くから貴族同士の名誉争いを正式に決着させるための決闘制度が残されている。
双方の胸元に一輪の薔薇を留め、先に相手の薔薇を散らした者が勝者。
もちろん殺し合いではなく、剣や槍なども殺傷能力を抑えた専用品が用いられる。
そして、決闘を申し込まれた側には使用する武器区分を決める権利があった。
「近接武器だ!」
レオナルトは迷わず言い放った。
彼も伯爵家の子息である以上、剣術の教育は受けている。
学園内でも決して弱いほうではない。
何よりヴィクトリアが普段、武器を持って歩いている姿など見たことがなかった。
剣なら勝てる。
そう確信したのだろう。
「承知しました。ヴェルナー卿は?」
「剣を」
教師が頷き、決闘用の長剣が用意される。
続いてヴィクトリアへ向き直った。
「ブリュンヒルデ嬢は何をお使いになりますか?」
「必要ありません」
「……はい?」
「素手で結構です」
教師はしばらくヴィクトリアを見た。
「念のため確認しますが、本当に武器は必要ありませんか?」
「ええ」
ヴィクトリアは黒い上着の袖口を整えながら、何でもないことのように続けた。
「殺さなければよろしいのでしょう?」
「薔薇を散らせば勝ちです。相手を倒す必要はありません」
教師は即座に釘を刺した。
「承知しました」
「本当に承知されています?」
少し不安だった。
レオナルトは剣を構えながら鼻で笑う。
「素手だと? 私を馬鹿にしているのか?」
「いいえ」
ヴィクトリアは一歩前へ出ると、足を肩幅ほどに開いた。
特定の流派らしい構えではない。
それもそのはずだった。
ヴィクトリアは幼い頃から身体を動かすことが好きで、趣味は鍛錬。
書物で見つけた体術を試し、騎士たちの訓練を眺めて動きを研究し、
投げ技や足運び、蹴り、打撃を自分なりに組み合わせ続けてきた。
要するに、ほぼ独学である。
本人は試行錯誤そのものを楽しみながら鍛錬を続けているのだが、
実験と称して時折怪我までしてくるため、医務室の担当医だけはあまり喜んでいなかった。
「始め!」
教師の声と同時にレオナルトが踏み込み、迷いなく剣を袈裟に振り下ろした。
ヴィクトリアは受けない。
上体をわずかにずらして刃の軌道から外れると、その勢いを殺さないまま一歩踏み込み、
あっという間に剣の間合いの内側へ滑り込んだ。
「なっ――」
レオナルトが反応するより早く、ヴィクトリアの手が剣を握る手首を捉える。
肘を押さえながら腰を落とし、相手の重心を崩した次の瞬間――
どんっ!
「ぐっ!?」
レオナルトの身体が勢いよく床へ転がった。
何をされたのか理解できないまま、彼は慌てて身体を起こす。
「今のはなんだ!」
「投げました」
「それくらい分かる!」
ヴィクトリアは涼しい顔のまま、何事もなかったように構え直した。
怒りに任せてレオナルトが再び剣を振るう。だが、今度は先ほど以上に動きが読みやすかった。
ヴィクトリアは斬撃の軌道から一歩外れると、そのまま軸足を踏み込み、長い脚を鋭く跳ね上げる。
ぱんっ!
足先が剣を握る手首を正確に打ち、レオナルトの手から長剣が弾き飛ばされた。
「な――!」
思わず宙を舞う剣へ目を向けた、その一瞬だった。
ヴィクトリアの足が彼の軸足へ滑り込み、体勢を崩す。
どさっ!
レオナルトは再び床へ転がった。
二度続けてほとんど何もさせてもらえず転がされたのを見て、
周囲から戸惑い交じりのざわめきが広がっていく。
「……ブリュンヒルデ嬢、強くない?」
「強いというか……」
「ヴェルナー卿、さっきからずっと転がされてません?」
ヴィクトリアは追撃しなかった。
倒れた相手へ手を出すこともなく、レオナルトが立ち上がるのを静かに待ってから、再び構える。
その余裕が、かえって彼の自尊心を刺激したらしい。
「ふざけるな!」
床に落ちた剣を拾い上げたレオナルトは、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「女のくせに、どうしてそんな真似ができる!」
「趣味ですので」
「趣味!?」
「鍛錬が好きなんです」
あまりにも平然と返され、レオナルトの顔がさらに歪む。
「だからお前は可愛げがないんだ! エルフィ嬢なら、こんな――」
その名が出た瞬間、ヴィクトリアの灰色の瞳がすっと細くなった。
しかしレオナルトは気づかない。
「エルフィなら私に逆らわず、従順な妻になったはずだ!」
ヴィクトリアの動きが止まった。
怒鳴ることも、声を荒らげることもない。
ただ静かに片手を握り込み、正面からレオナルトを見据える。
「……そう」
そしてひどく穏やかな口調で告げた。
「奥歯は食いしばっておいたほうがいいですよ」
「……は?」
次の瞬間には、ヴィクトリアはもうレオナルトの懐へ入り込んでいた。
踏み込んだ脚から腰へ、腰から肩へ。
全身の力を淀みなく連動させ、そのまま下から拳を跳ね上げる。
ごっ!
「っっ……!」
華麗なアッパーが顎を捉え、レオナルトの上体が大きく仰け反った。
数歩よろめいてどうにか踏みとどまった彼は、
顎を押さえながら信じられないものを見るようにヴィクトリアを睨む。
「お、お前……パンチ重すぎるだろ!」
ヴィクトリアは打った右手を軽く開閉してから、何でもないことのように答えた。
「鍛錬しておりますので」
「そういう問題か!?」
「今のは、姉としてです」
「なに……?」
ヴィクトリアは再び静かに構える。
「そして、ここからは決闘として終わらせます」
その言葉に完全に頭へ血が上ったのか、レオナルトは剣を大きく振り上げ、力任せに踏み込んできた。
あまりにも分かりやすい動きだった。
ヴィクトリアは斬撃の軌道から半歩だけ外れ、相手の腕へ軽く手を添えて勢いを逸らす。
そのまま身体を沈めながら一気に踏み込むと、体勢を崩したレオナルトが慌てて振り返った。
その時にはもう、ヴィクトリアの長い脚が高く跳ね上がっていた。
黒いパンツスタイルの礼装だからこそ映える、真っ直ぐで美しい蹴りだった。
足先はレオナルトの顔――ではなく、その少し下を鋭く通過する。
ぱしんっ。
胸元の薔薇が弾け、赤い花びらが宙へ舞った。
ヴィクトリアは高く上げた脚を滑らかに下ろすと、乱れひとつない姿勢へ戻る。
あまりに鮮やかな決着に、教師も一拍遅れて声を上げた。
「勝者、ヴィクトリア・フォン・ブリュンヒルデ!」
その宣言を合図に、大広間いっぱいに歓声が広がった。
その中をエルフィが真っ先に駆け寄ってくる。
「お姉様!」
「エルフィ。怪我はない?」
「ありません! でもお姉様のほうが――」
「私は平気よ」
「平気ではありません」
聞き慣れた声が割って入った。
その声に、ヴィクトリアが振り返る。
人混みを抜けて現れたのは、蜂蜜色の髪を後ろで一つに束ねた青年だった。
ヨハン・フォン・プラーテン。
二十七歳。子爵家の次男であり、王立学園の医務室に勤務する医師である。
ヴィクトリアとほとんど変わらない目線の高さから、
眼鏡越しのオレンジ色の瞳が彼女の右手へ向けられていた。
「ヨハン先生」
「拳を見せてください」
「これくらいなら問題ありません」
「あなたの『これくらい』は信用していません」
いつものやり取りだった。
ヴィクトリアは少しだけ不満そうな顔をしながらも、結局は素直に右手を差し出す。
ヨハンはその手を取り、拳の腫れ具合を確かめながら小さく息を吐いた。
「やはり少し腫れていますね」
「一発しか殴っていませんが」
「回数の問題ではありません」
「相手には奥歯を食いしばるよう忠告しました」
「私は相手ではなく、あなたの手の話をしています」
エルフィがぷっと吹き出した。
◇
数日後。
婚約破棄は正式に成立し、
レオナルトがエルフィを利用してブリュンヒルデ伯爵家へ入り込もうとしていた件については、
両家の間でも厳しく話し合われることとなった。
当然ながら、エルフィが彼と婚約する話など一切ない。
その日の午後。
ヴィクトリアが自室で書類へ目を通していると、
向かいで菓子を食べていたエルフィがふと思い出したように口を開いた。
「でも、ヨハン先生って素敵ですね」
「先生が?」
思いがけない名前に、ヴィクトリアは顔を上げた。
エルフィは嬉しそうに頷く。
「はい。だって、レオナルト様とは全然違いますもの」
「どこが?」
「ヨハン先生は、お姉様のことをちゃんと見てくださっています」
ヴィクトリアは目を瞬いた。
「お姉様が平気な顔をしていても、怪我していたらすぐ気づくでしょう?
鍛錬が大好きなことも否定しないし、でも無茶をしたらちゃんと叱ってくださるし」
「それは医師だからでは?」
「それだけでしょうか?」
エルフィは意味ありげに笑った。
「レオナルト様より、ずっとお姉様のことをご存じですよね」
ヴィクトリアは答えられなかった。
そう言われてみれば、確かにヨハンは昔からよく気づく。
右肩を少し庇っていれば前日の鍛錬を見抜かれ、
拳を握る癖だけで痛みを我慢していることまで気づかれた。
何度「大丈夫です」と言っても信用されない。
そして鍛錬そのものをやめろと言われたことは、一度もなかった。
――あなたが楽しいのなら、それは結構です。ただし、怪我をしない範囲でお願いします。
以前、そんなことを言われたのを思い出す。
「……お姉様?」
「何でもないわ」
ヴィクトリアは書類へ視線を戻した。
けれど、なぜか文字が少しだけ頭へ入ってこなかった。
◇
翌日。
学園を卒業した後も拳の経過確認をするよう言われていたヴィクトリアは、
約束どおり医務室を訪れていた。
「もうほとんど治っていますね」
机を挟んだ向こうで、ヨハンが眼鏡を押し上げる。
「ですから、最初から問題ないと申し上げたでしょう?」
「そういうことを言うから、あなたの自己申告を信用できなくなるんですよ」
苦笑しながら、ヨハンが手を差し出した。
「念のため、もう一度見せてください」
いつもなら何とも思わず差し出していたはずだった。
けれど、昨日のエルフィの言葉が頭をよぎる。
――ヨハン先生は、お姉様のことをちゃんと見てくださっています。
ヴィクトリアが一瞬だけためらってから右手を差し出すと、ヨハンはいつものようにその手を取った。
指先で拳の状態を確かめ、軽く掌を返される。
ただそれだけ。
何度もされたことがある診察だった。
なのに、今日は妙に彼の手の温度が気になった。
「……ヴィクトリア嬢?」
「はい?」
ヨハンが眼鏡の奥から不思議そうに彼女を見る。
「少し顔が赤いですが。熱でもありますか?」
「ありません」
「ですが――」
「ありません」
いつもより少しだけ早口で言い切ると、ヨハンはますます不思議そうな顔をした。
ヴィクトリアはそんな彼から視線を逸らしながら、
自分でも理由の分からない熱を持った頬を意識する。
婚約を失ったことには、何の未練もなかった。
むしろ、妹を利用するような男と結婚する前に気づけてよかったと心から思っている。
そして自由になった今、これまでとは少し違う目で誰かを見てみるのも、悪くないのかもしれない。
その相手が誰なのか、それを考えるには、まだほんの少しだけ早い。
ただ少なくとも、
自分の手を取る眼鏡の医師を、
以前とまったく同じようには見られなくなっていることだけは――ヴィクトリアも、もう分かっていた。




