表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

何も変わらない日に、ひとつだけ変える

作者: 星渡リン
掲載日:2026/02/05

 目覚ましは、毎朝同じ秒数で鳴る。


 六時三十分。

 鳴った瞬間に手が伸びて、止める。止めた瞬間に、体が勝手に次へ進む。


 顔を洗う。

 シャツを着る。

 歯を磨く。

 鍵。財布。スマホ。


 玄関のドア。

 エレベーター。

 改札。

 ホーム。

 電車。


 今日が昨日の続きで、昨日がその前の続きで。

 私は、時計みたいに動いていた。


 会社に着く。パソコンの電源を入れる。メールを開く。予定表を見る。

 会議。締切。返信。優先度。


 正しく並べて、正しく処理して、正しく終わらせる。


 できてしまう。

 だから、怖い。


 何も考えずに、できてしまう。

 そして気づいたときには、一日が消えている。


 昼休み。

 コンビニで買うおにぎりは、いつも同じ味だ。


 迷う時間がもったいない。

 そう思ってるのに、迷わない人生は、どこか薄い。


 窓の外は晴れていた。

 青い。

 なのに、私の中の色は少ないままだった。


 午後も同じように仕事をして、同じように時間が過ぎる。


 上司に「助かる」と言われる。

 同僚に「ありがとう」と言われる。


 私は笑って頷く。


 胸の中で鳴ったのは、喜びじゃない。

 「次は何をする?」という機械みたいな質問だけだった。


 定時を過ぎても、仕事は残る。

 残業は長くない。けれど短い疲れが毎日積もると、取り出し方が分からなくなる。


 帰り道、ビルのロビーを通った。


 広い床は光っていて、昼間の足跡が見えないように磨かれている。

 そこに、清掃員の人がいた。


 モップが床を撫でる音が静かで、やけに目立つ。

 急がない動き。雑じゃない。けれど焦りもない。


 私は、その人を何度も見たことがある。

 いつも同じ時間帯に、同じ場所にいる。


 でも、顔をちゃんと見たのは初めてかもしれない。


 年は、私と同じくらいか少し上。

 髪をまとめていて、目元が落ち着いている。

 制服の袖を軽くまくり、床の隅まで丁寧に拭いていた。


 私はロビーの端を通り過ぎようとして、ふと足が止まった。


 止まっても誰にも怒られない。

 それを思い出しただけかもしれない。


 椅子に座る。

 息を吐く。


 胸の奥に、重たいものがある。名前がつかない重さ。


 仕事が嫌なわけじゃない。

 何かが起きたわけでもない。


 でも、ずっと薄い毎日に、少し疲れていた。


 清掃員の人が私の前を通り、軽く会釈した。


「お疲れさまです」


 声が優しい。

 私は反射で返す。


「お疲れさまです」


 それで終わるはずだった。

 なのに、その人は少しだけ立ち止まった。


 モップを片手に、私を見る。


「……毎日、同じ顔してますね」


 短い言葉。

 責める声じゃない。笑う声でもない。

 観察した事実を、ぽんと置かれた感じ。


 私は苦笑した。


「そう見えますか」


「見えます。ここ、通るたびに」


 ここ。ロビー。

 私は毎日ここを通っている。同じ時間帯に、同じ疲れを持って。


「……すみません。変な顔してました?」


「変な顔じゃないです。『動いてるだけの顔』」


 その言い方が、妙に刺さった。


 動いてるだけ。

 まるで時計。


 私は椅子の背にもたれた。


「動いてるだけで、十分な日もありますけどね」


 自分で言って、空っぽだと思った。

 十分なはずなのに、足りない。


 清掃員の人は、モップの柄を軽く握り直した。


「……何も変わらない日って」


 少しだけ間を置いてから、続ける。


「ひとつだけ変えると、効きますよ」


 私は顔を上げた。


「ひとつだけ?」


「はい。ひとつだけ」


 その言い方が、やけに本気だった。


「……何を変えるんですか」


 質問の形をしていたけど、たぶん助けを求めていた。


 清掃員の人は少しだけ笑う。


「帰り道を変えるとか。飲み物を変えるとか。靴紐を結び直すとか」


 どれも子どもみたいに小さい。

 でも、だから現実的だった。


「そんなことで……」


「そんなことが、意外と効くんです」


 清掃員の人は床を拭く動きを再開した。

 手は止まらない。けれど急がない。


「大きく変えると、続かないんで」


 その一言で、胸の奥の重さが少しほどけた。


 続かない。

 そうだ。私はいつも、何かを変えようとして、その“何か”を大きくしすぎる。


 運動を始めよう。

 勉強しよう。

 人生を変えよう。


 思い浮かべただけで疲れる。


 でも、飲み物を変える。

 帰り道を変える。

 靴紐を結び直す。


 それなら、今できる。


「……ありがとうございます」


 私が言うと、その人は軽く首を振った。


「私、サキって言います。ここで掃除してます」


「ミナトです。ここで……働いてます」


「知ってます。毎日通るから」


 私は思わず笑ってしまった。

 初めて会話したのに、もう“いつもの人”みたいだった。


「じゃあ、ミナトさん。今日、ひとつだけ」


「……ひとつだけ」


「変えて帰ってみてください」


 サキさんはそう言って、床へ視線を落とした。

 私は立ち上がった。足が少し軽い。


 ロビーを出て、いつもの駅へ向かう。

 信号を渡る。自販機の前を通る。いつもの道。


 いつもの道。


 私はそこで足を止めた。

 サキさんの言葉が、背中を押すというより、肩に手を置いている感じで残っている。


 ひとつだけ。


 駅の手前で、反対側の出口へ回る階段が目に入った。

 普段は使わない。少し遠回り。でも、遠回りは大きな変化じゃない。


 階段を降りると、匂いが少し違った。


 焼き鳥の店があって、煙が甘い。

 小さな花屋があって、水の匂いがする。

 路地の風が、いつもより冷たく感じる。


 それだけで、世界が少し立体になった。


 コンビニに寄る。


 私はいつも買う缶コーヒーを手に取って、戻した。

 代わりに、温かいお茶を選ぶ。


 理由はない。

 ただ、温かいものが欲しかった。


 会計を終え、店を出る。

 ペットボトルを持った手が、じんわり熱い。


 この熱が、今日の“ひとつ”だと思った。


 家に着く。

 靴を脱ぐ。電気をつける。


 部屋は相変わらず狭くて、相変わらず静かだ。


 でも、さっきの路地の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。

 温かいお茶の熱も、指先に残っている。


 私はふと、引き出しを開けた。


 奥に、古いメモ帳があった。

 表紙は擦れていて、角が丸い。


 いつのだろう。

 開くと、小さな走り書きがあった。


 「映画を観る」

 「本屋に行く」

 「走る」

 「絵を描く」


 全部、昔の私の字だった。


 今の私が忘れたふりをしていたものが、ちゃんと残っている。


 胸の奥が、少しだけ痛い。

 でも、その痛さは嫌じゃなかった。


 私はペンを取って、表紙の内側に書いた。


 何も変わらない日に、ひとつだけ変える


 書いた瞬間、言葉が自分のものになった気がした。

 誰かの名言じゃない。今日の私の選択。


 次のページに、一行だけ。


 「駅の出口を変えた。温かいお茶を買った」


 たったそれだけ。

 でも、文字にすると“やった”という実感が残る。


 ベッドに座って、息を吸う。

 息が、少し深い。



 翌朝も、目覚ましは同じ秒数で鳴った。


 私は同じように止めて、同じように顔を洗い、同じように駅へ向かった。

 何も変わらない。


 でも、ポケットの中にメモ帳がある。

 それだけで、今日が“昨日の続き”じゃなくなる気がした。


 その夜。


 会社のロビーで、サキさんが床を拭いていた。

 私は足を止めて、会釈をする。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


 サキさんはちらりと私を見て、口元だけで笑った。


「どうでした?」


 私は少しだけ胸を張る。


「……続きそうです。ひとつだけ」


「いいですね」


 サキさんはモップを動かしながら言った。


「じゃあ明日も、ひとつだけ」


 私は頷いた。


 明日も、ひとつだけ。

 大きく変えなくていい。続く形で、少しずつ。


 何も変わらない日は、きっとまた来る。

 時計みたいに動くだけの日も、ある。


 でもその日にも、私は“ひとつ”入れられる。


 帰り道の角を変える。

 飲み物を変える。

 靴紐を結び直す。


 小さな一手で、今日が少しだけ自分のものになる。


 私はロビーを抜けて、外の光の中へ出た。

 空は昨日と同じ青だった。


 それでも、今日は少し違って見えた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


この短編は「毎日が回っているだけに感じるとき、必要なのは大きな決断より“小さな一手”かもしれない」という気持ちで書きました。

変わりたい、人生を変えたい。そう思った瞬間に、その言葉の重さで疲れてしまうことがあります。だからこそ、帰り道を一本変える。飲み物を変える。靴紐を結び直す。小さすぎるくらいでいい。続く形で、呼吸が戻ってくる。


サキの言葉は、背中を強く押すためではなく、肩に手を置くためのものにしました。説教ではなく、生活の中に置ける助言。

そしてメモ帳の一行は、「今日が消えていかない」ための小さな証拠です。たった一行でも、書くと今日が残ります。


もし今、同じ日々に少し疲れている方がいたら。

どうか“ひとつだけ”から始めてみてください。今日が、ほんの少しだけ自分のものになりますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ