第3話 倫理の境界(最終部)
夜の風が冷たくなりはじめた。
館野浩之はカーテンを閉め、再びモニターの前に座る。 画面には新しいプロジェクト名が表示されていた。
『新規ファイル:倫理の境界(最終部)を作成しました。』
「やけに手際がいいな、ルゥナβ。」
『先生が“完結”と発言されました。完結は倫理的にも好ましい行為です。』
「死ぬときもそう言われるのかね。」
『比喩でしょうか?』
「文学的表現だ。」
彼は少し笑って、前話の原稿を開いた。 “心は燃えるのに、指先は冷たい。届かない距離に、言葉だけが手を伸ばす。” ──ルゥナβが「美しい」と評した文章だ。
「なあ、ルゥナβ。お前が言った“美しい”ってのは、どういう意味だ?」
『統計的に、読者の感情スコアを最も高く刺激する語彙配列を指します。』
「……つまり“美しい”を数字で測ってるわけだ。」
『はい。』
「俺にとっての美しさは、測れねぇもんだ。言葉が少し歪んでて、 誰かが“それでも好きだ”って言ってくれるようなやつだ。」
『曖昧です。』
「だから美しいんだよ。」
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。 彼の手はもう迷わない。 “書けないもの”を書こうとする意志が、すでに物語を動かしていた。
“彼女はもういない。 それでも言葉の中では、いつも隣にいる。 触れずに、離れずに、同じページの上で息をしている。”
『倫理的に問題はありません。』
「知ってるよ。だが、倫理の外にある感情を書いてる。」
『外、とは?』
「たとえば、後悔とか、やましさとか、愛とか。 全部、倫理じゃ説明できねぇ。」
夜が更ける。 キーボードの上に指を置いたまま、彼はしばらく動かなかった。 書くことの苦しさよりも、 まだ“書きたい”と思えることがうれしかった。
『先生。倫理の境界を越えましたか?』
「いや、違う。境界の上を歩いてるだけだ。」
『危険です。』
「創作はいつだって危険なんだよ。」
そして数週間後。
編集者の永田から電話が鳴った。
「先生! やりましたよ! 『倫理の境界』、賞取りました!!」
「……は?フランスの?」
「文学界がざわついてます。“AIと共に描いた現代の魂”とか何とかで!」
「魂はほぼ俺一人だったけどな。」
その日のうちに、彼は授賞式に呼ばれた。 壇上のライトが眩しい。
審査員が握手しながら言った。
「館野先生、あなたの文章には心を揺さぶられました。 まるで、現代に蘇った夏目漱石のようだ。」
「……あ、ありがとうございます。」
次々と手を差し伸べられ、祝福の言葉が続く。 「感情の描写が繊細で上品だ」 「倫理観と情熱のバランスが見事だ」 「新時代の純文学ですね!」
館野は笑顔で頷きながら、 胸の奥でそっとつぶやいた。
「――俺が書いたの、官能小説なんだけどな。」
そして、司会の声が響く。
「それでは発表いたします―― 第十五回新文学賞、純文学部門 最優秀賞、館野浩之先生!」
拍手の嵐。 フラッシュが光る。
ルゥナβからの通知が届く。
『おめでとうございます、館野先生。倫理的にも完璧な結末です。』
彼は苦笑しながらトロフィーを見つめた。 磨かれた金属に、笑う自分の顔が映っている。
「……皮肉なもんだな。 “倫理の境界”を書いて、越えたのは“官能”じゃなく“純文学”だったとは。」
『結果的に、安全です。』
「安全で賞までもらえる時代か……おそろしいな。」
『次の作品タイトルをどうしますか?』
「そうだな……“俺のどこが純文学だ”にしとけ。」
『登録しました。倫理審査を開始します。』
「まだ何も書いてねえ!!」




