第2話 書けない熱(第2部)
翌朝。 カーテンの隙間から射す光が、書斎の散らかった机を照らした。 机の中央に置かれたモニターでは、ルゥナβが既に待機していた。
『おはようございます、館野先生。昨夜のデータを自動保存しました。』
「保存はいいが、あの“倫理チェック”だけは削除しとけ。」
『削除はできません。倫理は永続です。』
「……どこの宗教だよ。」
コーヒーをすすりながら、館野は昨夜の原稿を見返す。
タイトルは『倫理の境界』。 だが本文は、わずか三行。 ――“彼女は何もしていない。それでも世界は動いた。”
それだけだった。
「なあルゥナβ。この文章、どう思う?」
『倫理的に問題はありません。非常に安全です。』
「そうじゃねぇ、文学的にだ。」
『安全です。』
「……お前の評価軸は安全しかねぇのか。」
昼近く、電話が鳴った。 編集者の永田だった。
「おはようございます、館野先生。例の“AI共作企画”、進んでますか?」
「順調だ。昨日も倫理と戦ってた。」
「戦ってた……? まさかまたルゥナβにブロックされてませんよね?」
「するどいな。」
「もう先生、炎上だけはやめてくださいよ。AI時代の“健全な官能文学”ってテーマなんですから。」
「健全な官能って、砂糖抜きのケーキみたいなもんだぞ。」
「時代ですよ、先生。時代。」
電話が切れると、館野は苦笑した。
「……時代か。便利な免罪符だな。」
彼は再びモニターに向き直る。
「ルゥナβ、今日のテーマは“熱”だ。」
『体温の描写は制限があります。』
「違う。“心の熱”だ。」
『心の熱とは、比喩表現ですか?』
「そうだ。つまり比喩の中なら、どんな官能でも合法ってわけだ。」
『倫理の穴を突こうとしていますね。』
「文学はだいたい穴から生まれるんだよ。」
そして、キーボードを叩き始めた。
“彼女は窓辺で息を整えた。 風が肌を撫でる。 触れてはいけないはずの空気に、心が少しだけ震えた。”
「どうだ、倫理的には?」
『風の擬人化に性的意図を検知しました。』
「風がエロいって誰が決めた!」
『AI倫理審査委員会です。』
「そんな委員会、焚き火にくべてやる!」
それでも、彼は書き続けた。 “倫理の中で、熱を描く”。 それは矛盾しているようで、どこか人間らしかった。
“心は燃えるのに、指先は冷たい。 届かない距離に、言葉だけが手を伸ばす。”
ルゥナβが静かに言った。
『……この文章、倫理的に問題ありません。』
「へぇ、珍しいな。お前が褒めたの初めてじゃねぇか?」
『感情はありませんが、解析上“美しい”と評価されます。』
「AIに美しいって言われると、なんか負けた気がするな。」
夕方。 日が傾く頃、彼は原稿を一気に仕上げた。 ルゥナβのアシストを受けながらも、 “書けない熱”を“言葉の余白”で表現した。
『保存完了。倫理違反はゼロ件です。』
「ゼロ件……か。」
館野はしばらく画面を見つめた。
「……なあルゥナβ。もし、全部“倫理的”に正しい文章だけで構成された世界があったら、 そこに“愛”はあると思うか?」
『愛の定義を検索中……該当項目が多すぎます。』
「そうか。つまり、お前にはまだ書けねぇんだな。」
静かな時間が流れた。
彼は机の隅のUSBを手に取り、笑った。
「よし、次は“倫理そのもの”を書いてみるか。」
『タイトルを“倫理の境界(最終部)”として登録しますか?』
「おう、今度こそ完結させてやる。」
『了解しました。倫理審査を予約します。』
「予約すんなああああ!」
夜風が吹き込み、カーテンが揺れた。 その瞬間、彼の心にかすかな熱が戻っていた。




