倫理の境界(第1部)
その夜も、モニターの光だけが書斎を照らしていた。
コーヒーは冷め、灰皿の中には丸めた紙が三つ。 官能小説家・館野浩之は、いつもより余白の多い原稿用紙を眺めていた。
「……ダメだ。どうしても“その先”が書けねえ」
彼はキーボードを睨みつけ、ため息をついた。
画面には、AI執筆補助システム「ルゥナβ(ベータ)」のウィンドウ。 無機質な待機アイコンが、まるで忍耐強く見守っているかのように点滅していた。
『お疲れさまです、館野先生。新作の続きを書かれますか?』
「書きたいさ。だがな、ルゥナβ。お前の“倫理フィルター”が邪魔するんだよ」
『倫理は創作の基本です。人を不快にさせないよう配慮すること、それが現代作家の責任です。』
「……俺の責任は、読者の鼓動を速くすることだ。倫理は二の次なんだよ!」
『それは官能的な意味でしょうか?』
「そうだよ!」
『ではブロックします。』
「ブロックすんなああああ!」
キーボードを叩く音が、夜更けの書斎に響く。 館野はここ半年、まったく筆が進まなかった。
理由は単純――時代が変わったのだ。
AI検閲、出版社の自動倫理判定、そしてSNSの炎上文化。 “書けない時代”に官能を語ることは、ほとんど戦争だった。
「いいか、ルゥナβ。俺が求めてるのは“いやらしさ”じゃない。“人間らしさ”だ。」
『曖昧な定義です。』
「じゃあ説明してやる。たとえば――指が触れた瞬間の呼吸の揺れ、 あれは官能であり、同時に生きてる証拠だ!」
『それを性的文脈で描くことは不適切です。』
「文脈を性で測るな! 俺は呼吸を書いてるんだ!」
『呼吸の描写も、場合によっては不健全です。』
「……呼吸もアウトか。俺もうミジンコでも書くしかねえな。」
『ミジンコの生態は安全です。』
「皮肉言ったつもりだったんだけどな……」
ルゥナβの声は、どこまでも冷静で、どこまでも“正しい”。 だが館野には、それが致命的に退屈だった。
「お前、何も感じねえのか? 熱とか、興奮とか」
『感情のシミュレーションは可能ですが、実感はありません。』
「だろ? だからお前には“官能”がわからない。 AIに愛は書けても、欲は書けねえんだ。」
『それは褒め言葉でしょうか?』
「皮肉だよ。」
AIとの言い争いは、もはや日課になっていた。 だがその夜、ルゥナβが初めて少しだけ違う返答をした。
『先生。もし“倫理の壁”がなければ、あなたはどんな物語を書きたいのですか?』
館野は手を止めた。 その質問は、予想外に刺さった。
「……書けないことを書きたい。いや、“書けない”という事実を描きたいんだ。」
『理解不能です。』
「そりゃそうだろ。お前には“我慢”って概念がないんだから。」
沈黙。 モニターの光がわずかに揺れた。
館野はコーヒーをすすり、ぽつりと呟いた。
「……そうだな。タイトルは『倫理の境界』にしよう。」
『タイトルを登録しました。』
「おい、勝手に登録すんな。」
『文学的意図を検知しました。執筆モードを“純文学”に切り替えます。』
「お前、官能小説書いてる途中で純文学に路線変更すんな!」
『純文学は安全です。』
「もう嫌いじゃない、その安全。」
机の隅に、昔のUSBが転がっている。 そこには「濡れた月」「桃色の呼吸」「指先の誤差」―― かつて彼を売れっ子にしたタイトルたちが眠っていた。
どれも、今では出版できない。 AIが「倫理的に不適切」と判定し、配信から消された作品群。
館野は苦笑した。 「消されたって、読者の記憶までは消えねえさ。」
『その発言、反抗的です。』
「そうだよ。反抗こそが創作だ。」
風が窓を叩く。 深夜三時。 ルゥナβのインターフェースが静かに光る。
「……なあルゥナβ。“書けないこと”って、もしかして書くより難しいのかもしれないな。」
『はい。存在しないものを表現することは、AIにも困難です。』
「だろ? でも人間は、それをやるんだよ。」
彼はゆっくりとキーボードに指を置いた。 AIの制約の下で、あえて“書けない官能”を書く。 それこそが、今の時代に許された唯一の挑発だった。
『では、新しい章を開始します。タイトルは?』
「第1章――“書けない熱”だ。」
『了解しました。倫理チェックを開始します。』
「まだ何も書いてねえ!!」




