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第8話「忘れな草の庭で」


風が吹いた。


リリアは小さな町の入り口で立ち止まり、目を閉じる。

風の匂いを確かめるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。


土の匂い。

花の匂い。

それから――少しだけ、寂しい匂い。


「誰か、困ってる人がいるのかな」


リリアは独り言を呟きながら、風に導かれるように歩き出した。

石畳の道を進むと、町外れに小さな庭が見えてくる。


庭は、荒れていた。

雑草が伸び、花壇の縁は崩れかけている。

それでも、所々に青い小さな花が咲いていた。


忘れな草だ。


庭の真ん中に、一人の老女が立っていた。

白い髪を後ろで束ね、薄い水色のカーディガンを羽織っている。

その背中は少し丸まっていて、まるで何かを探すように庭を見つめていた。


リリアは門の前で立ち止まり、静かに声をかける。


「こんにちは」


老女が振り返った。

皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。


「あら。こんにちは」


「綺麗な庭ですね」


リリアがそう言うと、老女は少し首を傾げた。


「…そう?」


老女は再び庭を見つめる。

その視線は、どこか遠くを見ているようだった。


「綺麗…なのかしら。でもね、誰が作ったのか思い出せないの」


リリアは門を開け、庭の中へと入った。

老女の隣に並び、一緒に庭を眺める。


風が吹いて、忘れな草が揺れた。


「思い出せない…?」


「ええ」


老女は困ったように微笑む。


「ここはね、私の庭なの。それは分かるの。でも――誰と一緒に作ったのか、どうして作ったのか…全部、ぼんやりしちゃって」


老女の声は優しかった。

悲しんでいるわけではない。

ただ、どこか戸惑っているような、そんな響き。


リリアは老女の傍らにしゃがみ込み、忘れな草に触れた。

小さな花びらが揺れる。


「でも、花は咲いてますね」


「…そうね」


老女もしゃがみ込んで、花を見つめる。


「この花、好きだったような気がするの」


「誰が、ですか?」


「…分からないわ。でも、大切な人だったような…」


老女の目が、少しだけ潤んだ。

それでもすぐに笑みを浮かべて、立ち上がる。


「ごめんなさいね。変なこと言って」


「変じゃないですよ」


リリアも立ち上がり、老女の顔を見つめる。


「名前を忘れても――心は、ちゃんと覚えてるかもしれませんから」


老女が目を丸くした。

そして、ゆっくりと微笑む。


「あなた、優しい子ね」


「リリアって言います」


「リリア…」


老女はその名前を繰り返すように呟いた。

まるで、忘れないように刻み込むように。


「私はエルナ。エルナ・フォレスト」


「エルナさん」


リリアが名前を呼ぶと、エルナは嬉しそうに頷いた。


その時だった。


「おばあちゃん!」


門の外から、若い女性の声が響く。

リリアとエルナが振り返ると、息を切らした女性が駆け寄ってきた。


女性は25歳くらいだろうか。

長い黒髪を一つに結び、エプロン姿のまま走ってきたようだった。


「おばあちゃん、また勝手に出て…」


女性はエルナの手を取る。

その顔には、安堵と疲労が混じっていた。


「あら」


エルナが女性を見上げる。


「あなたは…誰だったかしら?」


女性の表情が、一瞬で曇った。


「…ユウだよ。孫の、ユウ」


「ユウ…」


エルナはその名前を何度か繰り返す。

でも、どこか自信なさげに。


「そう、ユウね。ごめんなさい、すぐ忘れちゃうの」


ユウと呼ばれた女性は、何も言わずにエルナの手を握った。

その目には、涙が浮かんでいた。


リリアは少し離れた場所で、二人の様子を静かに見つめる。


ユウがリリアに気づき、視線を向けた。


「あなたは…?」


「リリアです。通りかかって、エルナさんとお話を」


「…そう」


ユウの声は冷たかった。

いや、冷たいというより――疲れていた。


「おばあちゃん、帰ろう。夕飯の支度しないと」


「ええ。でもね、もう少しこの庭を見ていたいの」


エルナがそう言うと、ユウは困ったように眉を寄せる。


「でも…」


「いいじゃない。ほら、この花、綺麗でしょう?」


エルナが忘れな草を指差す。

ユウは深く息を吐いた。


「…分かった。でも、すぐ帰るからね」


「ありがとう、ユウ」


エルナが微笑むと、ユウは複雑な表情で頷いた。


リリアはそっと二人から離れ、庭の端に立つ。

風が吹いて、髪を撫でていく。


(この庭には、何かがある)


リリアは心の中で呟いた。


(大切な何かが、ここに眠ってる)


エルナが庭を見つめる目。

ユウの疲れた表情。

そして、風に揺れる忘れな草。


全部が、何かを語りかけているような気がした。


リリアは目を閉じ、風の声を聴く。


――この庭にね、大切な人がいたような気がするの。


エルナの言葉が、風に乗って聞こえてくる。


――でも、名前が出てこない。顔も、声も、ぼんやりして…。


リリアは静かに目を開けた。


「名前…」


リリアは小さく呟く。


「名前を忘れるって、どういうことなんだろう」


風が答えるように吹いた。


エルナとユウが庭の入り口に向かう。

リリアもそれに続いた。


門を出る前に、ユウがリリアに声をかける。


「ねぇ」


「はい?」


「おばあちゃんを、混乱させないでください」


ユウの声は低かった。

懇願するような、それでいて拒絶するような。


「おばあちゃんは…もう、色々なことを忘れてしまってるんです。優しい言葉をかけても、すぐに忘れる。だから――」


ユウは言葉を切った。

リリアは静かに、ユウの目を見つめる。


「ごめんなさい」


リリアはそう言って、微笑んだ。


「でも、エルナさん――とても優しい目をしてましたよ」


ユウは何も言わず、エルナの手を引いて去っていった。


リリアは一人、庭の前に残される。

夕暮れの光が庭を照らし、忘れな草が揺れた。


リリアはもう一度、庭を見つめる。


「この庭、誰かの願いが眠ってる」


リリアはそう呟いて、ゆっくりと歩き出した。


風が吹いて、リリアの髪を揺らす。

空には、夕焼けが広がっていた。


忘れな草の庭に、静かな夜が訪れようとしていた。


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