第6話「風を忘れた少年」
朝が来た。
リリアは村の小道を歩いていた。朝露に濡れた石畳が”きらり”と光を反射する。どこかで鶏の鳴き声。焼きたてのパンの匂いが”ふわり”と漂ってくる。
村が目覚める音。
それはとても穏やかで、温かい。
(でも――)
リリアは丘の方を見上げた。
風車たちは今日も止まったまま。朝の光を浴びて、白い羽根が眩しく輝いているのに、それは動かない。
まるで、時間が止まってしまったみたいに。
「……おはよう」
不意に、声がした。
振り向くと、ルルが立っていた。昨日と同じ三つ編み。今日は小さなバスケットを持っている。
「おはよう、ルル」
リリアは微笑んだ。
「リリアお姉ちゃん、どこ行くの?」
「えっとね……風車工房」
「ノアお兄ちゃんのところ?」
「うん」
ルルは少し困ったような顔をした。
「ノアお兄ちゃん、怖いでしょ?」
「怖い?」
「うん。いつも怒ってるみたいな顔してて、話しかけても”あっち行け”って……わたし、ちょっと苦手なの」
ルルは小さくなって、バスケットを抱きしめた。
リリアはルルの頭にそっと手を置いた。
「大丈夫。怖くないよ」
「……ほんと?」
「うん。あの子はね、怖いんじゃなくて――悲しいんだと思う」
「悲しい……?」
リリアは頷いた。
「だから、話を聞いてあげたいの」
ルルは不思議そうにリリアを見上げた。でもすぐに、ぱっと笑顔になった。
「リリアお姉ちゃん、優しいね!」
「そうかな?」
「うん! あのね、わたしもついてく!」
「え?」
「一緒に行く! ノアお兄ちゃんに、これ渡すの」
ルルはバスケットを掲げた。中には、焼きたてのパンが入っている。
「ママがね、ノアお兄ちゃんにって焼いたの。ちゃんとご飯食べてないから心配だって」
リリアは少し驚いた。
(みんな……心配してるんだ)
「じゃあ、一緒に行こうか」
「うん!」
二人は並んで、工房へと向かった。
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工房の扉は開いていた。
中から、また”しゃり、しゃり”と木を削る音が聞こえる。
リリアとルルは扉の前で顔を見合わせた。ルルが少し緊張した顔をしている。
「大丈夫だよ」
リリアがそっと囁くと、ルルは小さく頷いた。
「……ノアお兄ちゃん」
ルルが控えめに声をかけた。
中にいたノアが顔を上げる。昨日と同じ無愛想な表情。でも、その目が一瞬だけ揺れた。
「……ルルか。それと――」
ノアの視線がリリアに向いた。
「また来たのか」
「うん。おはよう、ノア」
リリアは自然に微笑んだ。
ノアは何も言わず、また木片を削り始めた。
「あの……ノアお兄ちゃん」
ルルがおずおずと中に入る。
「ママが、これ……」
ルルはバスケットをノアの作業台にそっと置いた。
ノアはちらりとバスケットを見て、それから視線を逸らした。
「……勝手に置いてくな」
「で、でも……」
「いらない」
冷たい声。
ルルの顔が、少し悲しそうに歪んだ。
リリアはルルの肩にそっと手を置き、ノアを見つめた。
「ねぇ、ノア」
「……何だ」
「どうして、風車を作らないの?」
ノアの手が止まった。
「……関係ないだろ」
「関係ある。だって――」
リリアは工房の奥を見た。棚に並ぶ風車の部品。丁寧に作られた羽根たち。
「――あなたの手は、風車を作りたがってる」
ノアは顔を上げた。鋭い目がリリアを睨む。
「何が言いたい」
「見ればわかるよ。あなたは今も、木を削ってる。無意識に。それって――」
リリアは優しく微笑んだ。
「――風車を作りたいからじゃない?」
「……違う」
ノアは吐き捨てるように言った。
「俺は、もう風車なんて作らない」
「どうして?」
「……っ」
ノアは立ち上がった。作業台を”ガン”と叩く。
「風なんて、信じられるか!」
その声は、怒りというよりも――悲痛だった。
リリアは静かに見つめた。ルルは小さく震えている。
ノアは荒い息をついて、窓の外を見た。丘の風車たちが見える。
「……父さんは、風に殺された」
小さな声だった。
リリアもルルも、何も言えなかった。
ノアは拳を握りしめた。
「三年前。強風が吹いた日に……丘の風車が、一つ倒れた。父さんは修理に行って……そして――」
ノアの声が震えた。
「――風車の下敷きになった」
「……っ」
ルルが息を呑む。
ノアは俯いた。
「父さんは風車職人だった。風を愛してた。風を信じてた。でも、その風が――父さんを殺したんだ」
リリアは、何も言わずにノアを見つめていた。
ノアは自嘲するように笑った。
「おかしいだろ。風車を作る人間が、風に殺されるなんて」
「……ノア」
リリアはゆっくりと口を開いた。
「風は――誰も殺したりしない」
ノアは顔を上げた。目が、怒りに燃えている。
「何だと……?」
「風はね、ただそこにあるだけなの。吹くだけ。流れるだけ。誰も傷つけようとは思ってない」
「じゃあ何で……! 何で父さんは死んだんだ!」
ノアの叫び。
リリアは静かに、でもしっかりと言葉を紡いだ。
「それは……風のせいじゃない」
「……っ」
「風は、悪くない。ただ――」
リリアは目を伏せた。
「――風のせいにすれば、悲しみを置く場所ができるから。そう思ったんじゃない?」
ノアは何も言えなかった。
リリアは続けた。
「お父さんが亡くなって、あなたはとても悲しかった。辛かった。どうしようもなく苦しかった。だから――風を憎むことで、その気持ちに名前をつけたんだよ。ね?」
「……」
ノアは拳を震わせていた。
「でもね、ノア」
リリアは一歩、ノアに近づいた。
「お父さんは、本当に風を憎んでほしかったかな?」
「……それは」
「お父さんは風を愛してた。風車を作って、風と一緒に生きてた。だったら――」
リリアは優しく微笑んだ。
「――きっと、あなたにも風を愛してほしかったんじゃないかな」
ノアの目から、一筋の涙がこぼれた。
「……俺は」
声が震えている。
「俺は、風を……信じられない」
リリアは首を振った。
「信じなくていいの」
「……え?」
「無理に信じる必要なんてない。でもね――」
リリアはノアの手を見た。木を削り続けて、傷だらけの手。
「――あなたの手は、風を覚えてる」
「……手が?」
「うん。見て。あなたは今も、木を削ってる。無意識に。それは、あなたの手が風車を作ることを――忘れてないからだよ」
ノアは自分の手を見下ろした。
傷だらけの手。でも、確かに――木の感触を覚えている手。
「風を信じられなくてもいい。でも、あなたの手を信じてあげて」
リリアの言葉が、静かに工房に響いた。
ノアは何も言えずに、ただ自分の手を見つめていた。
その時。
「……ノアお兄ちゃん」
ルルが小さな声で言った。
「わたしね、風車が見たいの」
ノアが顔を上げる。
ルルは涙を浮かべながら、でも一生懸命笑っていた。
「わたしのおじいちゃんね、もうすぐ天国に行っちゃうの。お医者さんがそう言ってた。だから――」
ルルの声が震えた。
「だから、その前に……風車が回るところ、見せてあげたいの。おじいちゃん、昔ね、わたしを抱っこして丘に連れてってくれたの。風車が”からから”って回るの見ながら、“きれいだなぁ”って笑ってたの」
ルルは涙を拭った。
「もう一度……あの笑顔、見たいの」
ノアは、何も言えなかった。
リリアは静かに微笑んだ。
風が”ふわり”と吹いた。
工房の窓から差し込む光が、木くずを照らしている。
「……ノア」
リリアは優しく囁いた。
「あなたの手は、まだ覚えてる。風車の作り方を。風の受け方を。お父さんが教えてくれたこと――全部」
ノアは俯いた。
そして――小さく、震える声で言った。
「……俺に、できるかな」
「できるよ」
リリアは即答した。
「だって、あなたの手は――もう、動き始めてる」
ノアは自分の手を見た。
木片を握る手。ナイフを持つ手。
確かに――この手は、覚えている。
父の手を。父の温もりを。父の教えを。
ノアはゆっくりと、作業台に向かった。
そして――木片を手に取った。
「……ルル」
「うん?」
「小さい風車でいいか?」
ルルの顔が、ぱっと輝いた。
「うん! いい! すっごくいい!」
ノアは小さく笑った。
本当に小さく、でも――確かに笑った。
「……じゃあ、作るか」
“しゃり”
ナイフが木を削る音。
それは、三年ぶりの――風車を作る音だった。
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リリアは工房の隅で、静かに見守っていた。
ノアの手が動く。“しゃり、しゃり”と、リズムを刻むように。
ルルは目をきらきらさせて、その様子を見つめている。
風が窓から吹き込んで、木くずを”ふわり”と舞い上げた。
(ああ――)
リリアは思った。
(また、誰かの心が……動き始めた)
それは、とても小さな一歩。
でも――確かな一歩。
リリアは静かに微笑んだ。
風が、また”そより”と吹いた。




