第4話『風の行方』
朝の光は、まだ柔らかかった。
夜の雨が去ったあとの町は、どこか洗われたように澄んでいる。
屋根の上を、風がなぞる。窓辺の布が揺れ、リリアの髪に淡い光が落ちた。
ミナの家の前には、小さな花壇がある。
昨夜は見えなかった薄紫の花が、露をまとって咲いていた。
リリアはその前に立ち、深く息を吸い込む。
風の匂いに、少しだけ懐かしさを感じた。
扉の向こうから、小さな足音。
「……リリアさん、おはよう」
ミナが顔を出す。目の下の涙の跡は消え、代わりに穏やかな笑みが浮かんでいた。
「おはよう、ミナ。昨日の夜は、よく眠れた?」
「うん。オルゴール、まだ鳴ってるの」
ミナは胸の前で大切そうに抱えたオルゴールを見せた。
ふたを開けると、かすかに“リン……ロン……”という音が流れ出す。
小さな音。でも確かに生きている音。
「すごいね。まるで風が歌ってるみたい」
「ほんとに……。お母さんの声が聞こえる気がするの」
ミナは微笑んだ。
その表情は、昨日までの彼女とはまるで違っていた。
悲しみの色が薄れ、代わりに“前を向く力”が宿っている。
リリアは胸の奥で、静かにその変化を感じ取っていた。
――またひとつ、願いが叶った。
「ねぇ、リリアさん。
これ、あなたに渡したいの」
ミナがオルゴールの下から、小さな羽根のペンダントを差し出した。
古びた銀色の鎖に、羽の形をした小さなチャームが光っている。
「お母さんの形見なの。でも、もう私は大丈夫。
だから、この羽を……リリアさんに持っててほしい」
リリアは少し驚いて、首を振った。
「そんな大切なもの、もらえないよ」
「いいの。風を運ぶ人に持っていてほしいの。
この羽が、きっと次の願いを見つけてくれる気がするの」
風が吹いた。
花壇の花が揺れ、リリアのスカートがふわりと舞う。
羽のペンダントが光を受けて、小さな虹を作った。
リリアはそっとその羽を受け取った。
指先が触れた瞬間、胸の奥に温かい風が流れ込む。
それは優しくて、けれどほんの少し痛かった。
「ありがとう、ミナ。
あなたの願い、ちゃんと空に届いたよ」
「うん……ありがとう、リリアさん」
ふたりの間に、静かな風が流れる。
それは別れの風であり、出会いの続きを告げる風でもあった。
リリアは立ち上がり、家の前の道に目を向ける。
遠くまで続く坂道の先には、青く広がる空。
風がその先から吹いてきて、まるで“行きなさい”と背中を押してくれるようだった。
「ねぇ、リリアさん。次はどこへ行くの?」
「さぁ……風が教えてくれるところ、かな」
「そっか。……また、会える?」
ミナの声に、リリアは少しだけ笑う。
「うん。風はいつだって、願いのある場所に戻ってくるから」
ミナの瞳に、光が反射する。
それは涙ではなく、希望の光だった。
「またね、リリアさん」
「またね、ミナ」
風が吹き抜けた瞬間、リリアの姿がふっと揺らめく。
白い羽がひとひら、彼女の背中から零れ落ちる。
羽は風に乗って、青空の方へと舞い上がっていった。
――願いの終わりは、いつも新しい風の始まり。
町を抜け、丘を越えるころには、ミナの家の屋根も見えなくなっていた。
リリアはペンダントの羽を指先でなぞる。
そのたび、微かにオルゴールの音が胸の奥で鳴る。
「……ねぇ、あなたは今、笑ってる?」
呟いた声は風に溶け、遠くへ消えていった。
風の中で、微かな声が響いた気がした。
――“ありがとう、リリア”。
リリアは立ち止まり、そっと目を閉じる。
まぶたの裏で、ひとひらの羽が光を放つ。
「うん……またひとつ、叶ったね」
空は高く、どこまでも透き通っていた。
その下で、風の少女は静かに歩き出す。
誰かの願いが、次に生まれる場所を探して。
その背に、風が寄り添う。
やがて、羽がひとつ、空に舞い上がった。
――それが、次の物語の始まりだった。
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