第45話「リリアの物語」
翌日の午後、リリアは街の広場を歩いていた。
噴水の音が、静かに響いている。子供たちの笑い声。遠くから聞こえる、鳥の鳴き声。穏やかな日常の音。
でも、リリアの心は少しざわついていた。
――また、消えている。
リリアは立ち止まり、自分の手を見た。
記憶が、また薄れている。遠い昔の、誰かの顔。誰かの声。それが、少しずつ霞んでいく。
――私は、誰だったんだろう。
風が吹く。
リリアの髪を、優しく撫でていく。
――でも、いいの。
――誰かの笑顔が見られるなら。
リリアは、小さく微笑んだ。
それから、シルバーペン書店へ向かって歩き出した。
-----
カランコロン、と鈴が鳴る。
店内に入ると、エリオが窓辺に座っていた。でも今日は、机の上に原稿用紙が積まれていた。まだ真っ白な紙。でも、ペンが一本、その隣に置かれている。
エリオは、リリアを見て穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃい、リリアさん」
「こんにちは、エリオさん」
リリアは、エリオの向かいに座った。原稿用紙を見て、少し驚いたような表情を見せた。
「それは……?」
「ええ。昨日、リリアさんと話して」
エリオは、ペンに触れた。
「少し、書いてみようかと思って」
「でも……」
エリオは、苦笑した。
「まだ、何も書けていません」
-----
リリアは、静かにエリオを見つめた。
ペンに触れる手。でも、握りしめることはできていない。
「怖いんですか?」
「……ええ」
エリオは、正直に答えた。
「まだ、怖いです」
「書き始めたら、また同じことが起きるんじゃないかって」
「また、誰かに否定されるんじゃないかって」
リリアは、小さく頷いた。
「そうですよね」
「でも……」
リリアは、窓の外を見た。
「風も、吹くのが怖い時があるんですよ」
エリオは、少し驚いた表情を見せた。
「風が、怖い?」
「はい」
-----
リリアは、静かに語り始めた。
「風は、いろんなものを運ぶの」
「優しい言葉も、温かい想いも」
「でも……時には、誰かを傷つけることもある」
リリアの声が、少し遠くなる。
「強く吹きすぎて、何かを壊してしまうこともある」
「だから、怖いの」
「また誰かを傷つけるんじゃないかって」
エリオは、リリアの横顔を見ていた。
「でも……それでも、風は吹くんですよね?」
リリアは、エリオを見て微笑んだ。
「はい」
「吹かないと、何も運べないから」
「怖くても、吹き続けるの」
-----
その時、扉の鈴が鳴った。
カランコロン。
「こんにちは!」
カイの明るい声。
彼は店に入ってきて、リリアとエリオを見て嬉しそうに笑った。
「二人とも、いたんですね!」
「やあ、カイ」
エリオが手を挙げる。
カイは、机の上の原稿用紙に気づいた。
「あ……それ」
「ああ、これは……」
エリオは、少し照れたように笑った。
「少し、書いてみようかと思って」
カイの目が、輝いた。
「本当ですか!?」
「ええ。でも、まだ何も……」
「すごいです! エリオさん!」
-----
カイは、椅子に座った。
それから、少し真剣な表情を見せた。
「実は……俺も、何か書いてみたくて」
「カイも?」
「はい。自分の物語が何なのか、まだわからないけど」
「でも、書いてみたら見つかるかもしれないって思って」
カイは、リリアを見た。
「リリアさんが言ってくれたんです」
「『風も、どこへ吹くか決めていない』って」
「『ただ、吹き続けているだけ』って」
リリアは、優しく微笑んだ。
「覚えていてくれたんですね」
「はい。あの言葉が、すごく心に残って」
カイは、エリオを見た。
「だから、俺も書いてみようと思ったんです」
「まだ下手だし、何を書けばいいかわからないけど」
「でも、書きたいんです」
-----
エリオは、カイの目を見つめた。
真っ直ぐで、迷いのない目。
――この子は、恐れていない。
――前を向いている。
エリオの胸に、何かが込み上げてきた。
「カイ」
「はい?」
「君は……失敗が、怖くないのかい?」
カイは、少し考えた。
それから、正直に答えた。
「怖いです。でも……」
カイは、自分の胸に手を当てた。
「書かないで後悔するより、書いて失敗する方がいいかなって」
「失敗したら、また書けばいい」
「そう思うんです」
-----
エリオは、息を呑んだ。
カイの言葉が、心に深く刺さる。
――書かないで後悔するより、書いて失敗する方がいい。
その言葉が、エリオの中で何度も響いた。
「……そうか」
エリオは、ペンを手に取った。
初めて、しっかりと握りしめた。
「そうだったんだ」
リリアとカイは、黙ってエリオを見ていた。
「私は……書かないことで、自分を守っていたんだ」
「でも、本当は……」
エリオは、原稿用紙を見た。
「本当は、ずっと書きたかったんだ」
-----
沈黙が、流れた。
でも、それは重い沈黙ではなく、温かい沈黙だった。
風が、窓の外で優しく吹いている。
リリアは、二人を見て微笑んだ。
「ねえ、エリオさん。カイくん」
二人は、リリアを見た。
「私のこと、聞きたいですか?」
エリオとカイは、少し驚いたように目を見開いた。
「リリアさんの……?」
「はい。私の物語」
-----
リリアは、窓の外を見た。
空が、青い。雲が、ゆっくりと流れている。
「私はね……風なの」
「願いを運ぶ、風」
リリアの声は、いつもより少し遠く聞こえた。
「誰かが心から願った時、私はそこへ導かれる」
「そして、その人が自分の願いに気づくまで、そばにいるの」
エリオとカイは、静かにリリアの言葉を聴いていた。
「願いが叶う時、羽が生まれる」
「その人の胸から、色のついた羽が」
「羽は天へ昇って、風に乗っていく」
リリアは、自分の胸に手を当てた。
「そして……私の記憶が、ひとつ消えるの」
-----
エリオは、息を呑んだ。
「記憶が……消える?」
「はい」
リリアは、穏やかに微笑んだ。
「遠い昔の記憶から、少しずつ」
「誰かの顔。誰かの声。大切だったはずの何か」
「それが、消えていくの」
カイは、驚いた表情を見せた。
「それって……辛くないんですか?」
リリアは、少し首を傾げた。
「わからない」
「もう、たくさん忘れてしまったから」
「自分が誰だったのかも、どこから来たのかも」
「ほとんど覚えていないの」
-----
風が、強く吹いた。
カーテンが揺れる。
リリアは、遠い目をしていた。
「でもね……」
「誰かの笑顔を見るのは、嬉しいの」
「願いが叶った瞬間、その人が見せる笑顔」
「それが、私の物語なのかもしれない」
エリオは、リリアの横顔を見つめた。
優しい笑顔。でも、その奥に深い孤独が見える。
「リリアさん……」
「大丈夫」
リリアは、エリオを見た。
「私は、これでいいの」
「風として、誰かの願いを運び続ける」
「それが、私の役割だから」
-----
カイは、唇を噛んだ。
「でも……それじゃあ、いつか全部忘れちゃうんですか?」
「自分のこと、全部」
リリアは、小さく頷いた。
「……たぶん、そう」
「いつか、私は私じゃなくなる」
「ただの風になる」
「それでも、いいの」
リリアの声は、静かだった。
「誰かの笑顔が、残るなら」
-----
沈黙。
エリオは、何も言えなかった。
リリアの言葉が、あまりにも重く、あまりにも美しかった。
カイは、涙を堪えているようだった。
「……それって、寂しいです」
カイの声が、震えていた。
「俺、リリアさんに会えて嬉しかったのに」
「リリアさんが、俺のことを忘れちゃうなんて」
リリアは、優しく微笑んだ。
「でもね、カイくん」
「私が忘れても、あなたは覚えているでしょう?」
「私と話したこと」
「私がくれた言葉」
「それは、あなたの物語の中に残るから」
-----
カイは、目を拭った。
「……はい」
「忘れません」
「絶対に、忘れません」
リリアは、カイの頭を優しく撫でた。
「ありがとう」
それから、エリオを見た。
「エリオさんも、きっと大丈夫」
「物語を書く勇気、見つけられますよ」
エリオは、リリアの目を見つめた。
透き通る水色の瞳。
そこに、無限の優しさが宿っていた。
「……リリアさん」
「はい?」
「あなたの物語も……誰かが、覚えていてくれるといいですね」
リリアは、少し驚いたような表情を見せた。
それから、本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとう、エリオさん」
-----
風が、優しく吹いている。
三人は、しばらく黙って座っていた。
窓の外では、空が少しずつ夕焼け色に染まり始めている。
エリオは、ペンを握った。
――書こう。
――リリアの物語を。
――この出会いを。
――忘れないために。
カイも、心の中で誓っていた。
――俺も、書こう。
――リリアさんとの出会いを。
――この気持ちを。
-----
リリアは、二人の表情を見て微笑んだ。
――ああ、風が吹いている。
――この二人の心に、優しい風が。
リリアは、窓の外を見た。
夕焼けが、空を赤く染めている。
――もうすぐ、かな。
――この人たちの願いが、叶う時が。
リリアの胸が、少し温かくなった。
-----
「エリオさん、カイくん」
「はい?」
二人が、リリアを見た。
「明日も、来てもいいですか?」
「もちろん」
「いつでも来てください!」
リリアは、立ち上がった。
「ありがとう」
「じゃあ、また明日」
カランコロン、と鈴が鳴る。
リリアは、店を出ていった。
-----
エリオとカイ、二人きりになった。
夕陽が、店内を赤く染めている。
「エリオさん」
「うん?」
「俺……リリアさんのために、書きたいです」
「リリアさんが忘れても、俺たちが覚えていられるように」
エリオは、カイを見た。
それから、静かに頷いた。
「……ああ」
「私も、そう思う」
エリオは、ペンを握りしめた。
「書こう」
「リリアの物語を」
「この出会いを」
「忘れないために」
-----
二人は、原稿用紙に向かった。
ペンを握る手。
もう、震えていない。
風が、窓の外で吹いている。
新しい物語が、今、生まれようとしていた。




