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リリアと天使の羽 〜羽ばたく願いと風の奇跡〜   作者: たくわん。
第11章(最終章) 空っぽの本屋さん
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第44話「書けなくなった作家」



三日後の夕暮れ時、リリアは再びシルバーペン書店を訪れた。


扉を開けると、いつもと同じ鈴の音。カランコロン、と静かに響く。


でも、店内の空気は少し違っていた。


エリオは窓辺に座っていたが、手には本がなかった。ただ、窓の外を見つめている。夕陽が店内を橙色に染め、空っぽの本棚に長い影を落としていた。


「こんにちは、エリオさん」


リリアの声に、エリオはゆっくりと振り向いた。


「ああ……リリアさん」


穏やかな笑顔。でも、いつもより疲れているように見えた。


リリアは、エリオの隣に座った。窓の外では、夕焼けが空を赤く染めている。風が、木の葉を優しく揺らしていた。


-----


「今日は、カイくんは来ないんですか?」


「ええ……今日は、来ないみたいです」


エリオは、また窓の外を見た。


沈黙が流れる。


リリアは、エリオの横顔を静かに見つめた。いつもの穏やかさの奥に、何かが渦巻いている。言葉にならない何かが、彼の中で動いている。


「エリオさん」


「……はい」


「何か、考えていましたか?」


エリオは、小さく息を吐いた。


それから、ゆっくりと口を開いた。


「……カイの言葉が、ずっと心に残っていて」


「カイくんの?」


「ええ。『まだ途中なんじゃないですか』って」


エリオは、自分の手を見た。ペンを持っていない手。もう何年も、ペンを握っていない。


「もしかしたら……本当に、まだ途中なのかもしれない」


「でも、怖いんです」


-----


リリアは、黙ってエリオの言葉を待った。


風が、カーテンを揺らしている。


エリオは、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「また書いて、また傷つくのが怖い」


「また誰かに否定されるのが怖い」


「自分の物語が、誰にも届かないことを確認するのが怖いんです」


エリオの声は、静かだった。でも、その静けさの中に、深い痛みが滲んでいた。


「だから……書かないことにしたんです」


「書かなければ、傷つかない」


「書かなければ、失望しない」


「そう思って……」


エリオは、空っぽの本棚を見た。


「この店を開いたんです」


-----


リリアは、エリオの言葉を静かに受け止めた。


夕陽が、二人を照らしている。


「エリオさん」


「はい」


「昔のこと、聞いてもいいですか?」


エリオは、少し驚いたように目を見開いた。それから、小さく頷いた。


「……ええ」


リリアは、優しく微笑んだ。


「エリオさんが、物語を書いていた頃のこと」


「教えてください」


-----


エリオは、しばらく黙っていた。


遠い記憶を辿るように、視線が宙を彷徨う。


それから、ゆっくりと語り始めた。


「……子供の頃から、物語が好きでした」


「本を読むのが好きで、いつも図書館に通っていました」


エリオの声は、少しずつ柔らかくなっていく。


「たくさんの物語を読んで、たくさんの世界を知って」


「それで、いつか自分も書きたいって思うようになったんです」


「誰かを笑顔にする物語を」


「誰かの心を温める物語を」


リリアは、静かに頷いた。


エリオは、続けた。


「二十歳の時、初めて小説を書きました」


「拙い文章でしたけど、必死に書いて」


「出版社に送ったら……運良く、デビューできたんです」


-----


エリオの目が、少し遠くを見ている。


「デビュー作は、小さな話題になりました」


「『優しい物語』『心が温まる』って、言ってもらえて」


「嬉しかったです。本当に」


「自分の物語が、誰かに届いたんだって」


エリオは、小さく笑った。でも、その笑顔はすぐに消えた。


「それで……調子に乗ったんです」


「次はもっと良いものを書こうって」


「もっとたくさんの人に読んでもらおうって」


「そう思って、二作目を書きました」


エリオの声が、少し震えた。


「でも……」


-----


沈黙。


夕陽が、さらに深い橙色になっている。


エリオは、ゆっくりと言葉を続けた。


「二作目は……酷評されました」


「『つまらない』『陳腐だ』『デビュー作の方が良かった』って」


「レビューを読むたびに、心が削られていきました」


エリオの手が、少し震えている。


「一番辛かったのは……」


「『この作家は、もう終わった』って書かれたことです」


リリアは、息を呑んだ。


「まだ二作目だったのに」


「まだ、始まったばかりだったのに」


「もう終わったって、言われたんです」


-----


エリオは、自分の手を握りしめた。


「それから……書けなくなりました」


「ペンを握ると、あの言葉が頭に浮かんで」


「何を書いても、誰かに否定される気がして」


「自分の物語が、価値のないものに思えて」


エリオの声が、かすれていく。


「怖くなったんです」


「物語を書くことが」


「誰かに読んでもらうことが」


「全部、怖くなってしまったんです」


-----


リリアは、エリオの手にそっと触れた。


温かい。でも、震えている。


「エリオさん……」


エリオは、リリアを見た。


「だから、逃げたんです」


「物語を書くことから」


「自分自身から」


「全部、逃げ出したんです」


エリオの目が、潤んでいた。


「この店を開いたのも……誰かの物語を聴くことで、自分の物語を書かなくていい言い訳を作りたかったんです」


「書けない自分を、正当化したかったんです」


「本当は……ずっと、書きたかったのに」


-----


風が、強く吹いた。


カーテンが大きく揺れる。


リリアは、エリオの手を優しく握った。


「エリオさん」


「……はい」


「物語って、誰のものだと思いますか?」


エリオは、少し戸惑ったように目を瞬かせた。


「誰のもの……?」


「はい」


リリアは、穏やかに微笑んだ。


「読む人のものですか?」


「それとも、書く人のもの?」


エリオは、答えられなかった。


-----


リリアは、窓の外を見た。


夕焼けが、空を赤く染めている。


「私はね……」


「物語は、風みたいなものだと思うんです」


「風?」


「はい」


リリアは、エリオを見た。


「風は、誰かが作るものじゃない」


「ただ、そこにあるもの」


「誰かに届けるために吹くんじゃなくて」


「ただ、吹きたいから吹くの」


エリオは、リリアの言葉を静かに聴いていた。


「物語も、そうじゃないですか?」


「誰かに読んでもらうために書くんじゃなくて」


「ただ、書きたいから書く」


「それが、物語の始まりなんじゃないかな」


-----


エリオの胸に、何かが響いた。


――書きたいから、書く。


その言葉が、心の奥深くに沈んでいく。


「でも……」


エリオは、俯いた。


「誰にも届かない物語に、意味はあるんでしょうか」


リリアは、首を傾げた。


「意味?」


「ええ。読まれない物語に、価値はあるんですか?」


リリアは、少し考えた。


それから、優しく微笑んだ。


「風もね、誰にも気づかれないことがあるの」


「でも、吹いているの」


「それでいいんじゃないかな」


-----


エリオは、リリアの言葉を噛みしめた。


風は、誰にも気づかれなくても吹いている。


それでいい。


――そうか。


――物語も、そうなのかもしれない。


エリオの心に、小さな光が灯った。


「リリアさん」


「はい?」


「あなたは……いったい、何者なんですか?」


リリアは、少し困ったように笑った。


「風、だって言いましたよね」


「でも、人間じゃないですか」


「……どうでしょうね」


-----


リリアは、立ち上がった。


夕陽が、リリアの髪を照らしている。淡い桜色が、橙色に染まって輝いていた。


「私はね、エリオさん」


「誰かの願いを運ぶ風なの」


「だから、ここに来たんです」


エリオは、リリアを見上げた。


「私の……願い?」


「はい」


リリアは、優しく微笑んだ。


「エリオさんの願いを、運びに来たんです」


「でも、願いは私が叶えるものじゃない」


「エリオさん自身が、叶えるものなの」


-----


風が、また吹いた。


店内に、夕陽の光が溢れている。


エリオは、リリアの言葉を静かに受け止めた。


――自分自身が、叶える。


――自分の願いを。


エリオの心が、少しずつ動き始めていた。


「……もう一度、書いてみようかな」


小さな声。


でも、確かな声。


リリアは、嬉しそうに微笑んだ。


「はい」


「きっと、書けますよ」


-----


夕陽が、沈んでいく。


空が、紫色に染まり始めた。


リリアは、扉へ向かった。


「また、来ますね」


「ええ。待ってます」


カランコロン、と鈴が鳴る。


リリアが去った後、エリオは一人、窓辺に座っていた。


夕闇が、静かに店内を包んでいく。


エリオは、自分の手を見た。


――もう一度。


――もう一度、ペンを握ってみよう。


空っぽの本棚が、静かに佇んでいた。


でも、もう空っぽじゃない気がした。


何かが、そこに生まれようとしている。


-----


風が、優しく吹いている。


新しい物語が、生まれる予感。


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