第44話「書けなくなった作家」
三日後の夕暮れ時、リリアは再びシルバーペン書店を訪れた。
扉を開けると、いつもと同じ鈴の音。カランコロン、と静かに響く。
でも、店内の空気は少し違っていた。
エリオは窓辺に座っていたが、手には本がなかった。ただ、窓の外を見つめている。夕陽が店内を橙色に染め、空っぽの本棚に長い影を落としていた。
「こんにちは、エリオさん」
リリアの声に、エリオはゆっくりと振り向いた。
「ああ……リリアさん」
穏やかな笑顔。でも、いつもより疲れているように見えた。
リリアは、エリオの隣に座った。窓の外では、夕焼けが空を赤く染めている。風が、木の葉を優しく揺らしていた。
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「今日は、カイくんは来ないんですか?」
「ええ……今日は、来ないみたいです」
エリオは、また窓の外を見た。
沈黙が流れる。
リリアは、エリオの横顔を静かに見つめた。いつもの穏やかさの奥に、何かが渦巻いている。言葉にならない何かが、彼の中で動いている。
「エリオさん」
「……はい」
「何か、考えていましたか?」
エリオは、小さく息を吐いた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……カイの言葉が、ずっと心に残っていて」
「カイくんの?」
「ええ。『まだ途中なんじゃないですか』って」
エリオは、自分の手を見た。ペンを持っていない手。もう何年も、ペンを握っていない。
「もしかしたら……本当に、まだ途中なのかもしれない」
「でも、怖いんです」
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リリアは、黙ってエリオの言葉を待った。
風が、カーテンを揺らしている。
エリオは、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「また書いて、また傷つくのが怖い」
「また誰かに否定されるのが怖い」
「自分の物語が、誰にも届かないことを確認するのが怖いんです」
エリオの声は、静かだった。でも、その静けさの中に、深い痛みが滲んでいた。
「だから……書かないことにしたんです」
「書かなければ、傷つかない」
「書かなければ、失望しない」
「そう思って……」
エリオは、空っぽの本棚を見た。
「この店を開いたんです」
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リリアは、エリオの言葉を静かに受け止めた。
夕陽が、二人を照らしている。
「エリオさん」
「はい」
「昔のこと、聞いてもいいですか?」
エリオは、少し驚いたように目を見開いた。それから、小さく頷いた。
「……ええ」
リリアは、優しく微笑んだ。
「エリオさんが、物語を書いていた頃のこと」
「教えてください」
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エリオは、しばらく黙っていた。
遠い記憶を辿るように、視線が宙を彷徨う。
それから、ゆっくりと語り始めた。
「……子供の頃から、物語が好きでした」
「本を読むのが好きで、いつも図書館に通っていました」
エリオの声は、少しずつ柔らかくなっていく。
「たくさんの物語を読んで、たくさんの世界を知って」
「それで、いつか自分も書きたいって思うようになったんです」
「誰かを笑顔にする物語を」
「誰かの心を温める物語を」
リリアは、静かに頷いた。
エリオは、続けた。
「二十歳の時、初めて小説を書きました」
「拙い文章でしたけど、必死に書いて」
「出版社に送ったら……運良く、デビューできたんです」
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エリオの目が、少し遠くを見ている。
「デビュー作は、小さな話題になりました」
「『優しい物語』『心が温まる』って、言ってもらえて」
「嬉しかったです。本当に」
「自分の物語が、誰かに届いたんだって」
エリオは、小さく笑った。でも、その笑顔はすぐに消えた。
「それで……調子に乗ったんです」
「次はもっと良いものを書こうって」
「もっとたくさんの人に読んでもらおうって」
「そう思って、二作目を書きました」
エリオの声が、少し震えた。
「でも……」
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沈黙。
夕陽が、さらに深い橙色になっている。
エリオは、ゆっくりと言葉を続けた。
「二作目は……酷評されました」
「『つまらない』『陳腐だ』『デビュー作の方が良かった』って」
「レビューを読むたびに、心が削られていきました」
エリオの手が、少し震えている。
「一番辛かったのは……」
「『この作家は、もう終わった』って書かれたことです」
リリアは、息を呑んだ。
「まだ二作目だったのに」
「まだ、始まったばかりだったのに」
「もう終わったって、言われたんです」
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エリオは、自分の手を握りしめた。
「それから……書けなくなりました」
「ペンを握ると、あの言葉が頭に浮かんで」
「何を書いても、誰かに否定される気がして」
「自分の物語が、価値のないものに思えて」
エリオの声が、かすれていく。
「怖くなったんです」
「物語を書くことが」
「誰かに読んでもらうことが」
「全部、怖くなってしまったんです」
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リリアは、エリオの手にそっと触れた。
温かい。でも、震えている。
「エリオさん……」
エリオは、リリアを見た。
「だから、逃げたんです」
「物語を書くことから」
「自分自身から」
「全部、逃げ出したんです」
エリオの目が、潤んでいた。
「この店を開いたのも……誰かの物語を聴くことで、自分の物語を書かなくていい言い訳を作りたかったんです」
「書けない自分を、正当化したかったんです」
「本当は……ずっと、書きたかったのに」
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風が、強く吹いた。
カーテンが大きく揺れる。
リリアは、エリオの手を優しく握った。
「エリオさん」
「……はい」
「物語って、誰のものだと思いますか?」
エリオは、少し戸惑ったように目を瞬かせた。
「誰のもの……?」
「はい」
リリアは、穏やかに微笑んだ。
「読む人のものですか?」
「それとも、書く人のもの?」
エリオは、答えられなかった。
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リリアは、窓の外を見た。
夕焼けが、空を赤く染めている。
「私はね……」
「物語は、風みたいなものだと思うんです」
「風?」
「はい」
リリアは、エリオを見た。
「風は、誰かが作るものじゃない」
「ただ、そこにあるもの」
「誰かに届けるために吹くんじゃなくて」
「ただ、吹きたいから吹くの」
エリオは、リリアの言葉を静かに聴いていた。
「物語も、そうじゃないですか?」
「誰かに読んでもらうために書くんじゃなくて」
「ただ、書きたいから書く」
「それが、物語の始まりなんじゃないかな」
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エリオの胸に、何かが響いた。
――書きたいから、書く。
その言葉が、心の奥深くに沈んでいく。
「でも……」
エリオは、俯いた。
「誰にも届かない物語に、意味はあるんでしょうか」
リリアは、首を傾げた。
「意味?」
「ええ。読まれない物語に、価値はあるんですか?」
リリアは、少し考えた。
それから、優しく微笑んだ。
「風もね、誰にも気づかれないことがあるの」
「でも、吹いているの」
「それでいいんじゃないかな」
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エリオは、リリアの言葉を噛みしめた。
風は、誰にも気づかれなくても吹いている。
それでいい。
――そうか。
――物語も、そうなのかもしれない。
エリオの心に、小さな光が灯った。
「リリアさん」
「はい?」
「あなたは……いったい、何者なんですか?」
リリアは、少し困ったように笑った。
「風、だって言いましたよね」
「でも、人間じゃないですか」
「……どうでしょうね」
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リリアは、立ち上がった。
夕陽が、リリアの髪を照らしている。淡い桜色が、橙色に染まって輝いていた。
「私はね、エリオさん」
「誰かの願いを運ぶ風なの」
「だから、ここに来たんです」
エリオは、リリアを見上げた。
「私の……願い?」
「はい」
リリアは、優しく微笑んだ。
「エリオさんの願いを、運びに来たんです」
「でも、願いは私が叶えるものじゃない」
「エリオさん自身が、叶えるものなの」
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風が、また吹いた。
店内に、夕陽の光が溢れている。
エリオは、リリアの言葉を静かに受け止めた。
――自分自身が、叶える。
――自分の願いを。
エリオの心が、少しずつ動き始めていた。
「……もう一度、書いてみようかな」
小さな声。
でも、確かな声。
リリアは、嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「きっと、書けますよ」
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夕陽が、沈んでいく。
空が、紫色に染まり始めた。
リリアは、扉へ向かった。
「また、来ますね」
「ええ。待ってます」
カランコロン、と鈴が鳴る。
リリアが去った後、エリオは一人、窓辺に座っていた。
夕闇が、静かに店内を包んでいく。
エリオは、自分の手を見た。
――もう一度。
――もう一度、ペンを握ってみよう。
空っぽの本棚が、静かに佇んでいた。
でも、もう空っぽじゃない気がした。
何かが、そこに生まれようとしている。
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風が、優しく吹いている。
新しい物語が、生まれる予感。




