第43話「カイの物語」
次の日の午後、リリアは再びシルバーペン書店の扉を開けた。
カランコロン、と鈴の音が響く。
店内には、静かな時間が流れていた。窓から差し込む陽の光が、空っぽの本棚に柔らかな影を落としている。木の床は古びているけれど、丁寧に磨かれていて、歩くたびに小さな軋みを立てた。
エリオは、昨日と同じ場所に座っていた。
窓辺の椅子。手には、やはり一冊の本。
彼は本から顔を上げ、リリアを見て穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃい、リリアさん」
「こんにちは、エリオさん」
リリアは、エリオの向かいの椅子に座った。テーブルの上には、白い陶器のカップが二つ。湯気が立ち上り、ハーブティーの香りが漂っている。
「よかったら、どうぞ」
「ありがとうございます」
リリアはカップを手に取り、そっと口をつけた。温かい。優しい味。ミントとカモミールが混ざったような、心が落ち着く香り。
風が、窓の外で木の葉を揺らしている。
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「今日は、お客さんは来ないんですか?」
リリアが尋ねると、エリオは少し首を傾げた。
「さあ……来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「予約とか、しないんですか?」
「しないんです。風のように、ふらりと来る人を待っているだけで」
エリオは、カップを両手で包み込んだ。
「それに、ここは本屋ですから」
「本が、ないのに?」
「ええ。本がないのに、本屋なんです」
エリオは、どこか自嘲するように笑った。
リリアは、その笑顔を静かに見つめた。エリオの笑顔には、いつも微かな影が混じっている。優しさの奥に、何かを諦めたような、そんな色が滲んでいる。
――この人は、何を失ったんだろう。
リリアは、そっと思った。
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その時、扉の鈴が鳴った。
カランコロン。
「こんにちは!」
明るい声。カイだった。
昨日と同じ、元気な笑顔で店に入ってくる。リリアを見つけると、少し驚いたように目を見開いた。
「あ、リリアさん! また来たんですね!」
「うん。また、来ちゃった」
リリアは、柔らかく微笑んだ。
カイは、三つ目の椅子に座った。エリオがもう一つカップを取り出し、お茶を注ぐ。カイは嬉しそうにそれを受け取った。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
三人は、しばらく黙ってお茶を飲んだ。窓の外では、風が優しく吹いている。木の葉が揺れる音。遠くで鳥が鳴く声。静かで、穏やかな時間。
でも、カイの表情には少し陰りがあった。
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「……また、聴いてもらえますか?」
カイが、ゆっくりと口を開いた。
エリオは、静かに頷く。
「もちろん」
カイは、カップを両手で握りしめた。視線は、テーブルの上。
「俺……やっぱり、まだわからないんです」
「何が?」
「自分のこと」
カイの声は、昨日よりも少し小さかった。明るさの奥に、不安が滲んでいる。
「みんな、進路を決めてて」
「将来のこと、ちゃんと考えてて」
「でも、俺は……何も見えなくて」
エリオは、何も言わずに聴いていた。ただ、静かに。カイの言葉を、丁寧に受け取るように。
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リリアも、黙ってカイを見ていた。
カイは、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「親は、安定した仕事に就けって言うし」
「先生は、自分の好きなことを見つけろって言うし」
「友達は、一緒に大学行こうって言うし」
「でも、俺は……」
カイは、唇を噛んだ。
「俺は、何がしたいのか、わからないんです」
風が、窓の外で囁いている。
カイの言葉が、店内に静かに響いていた。
「好きなことも、やりたいことも、わからない」
「自分の物語が、どこへ向かっているのか、全然見えなくて」
カイは、顔を上げてエリオを見た。
「エリオさんは……自分の物語、わかってましたか? 俺くらいの歳の時」
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エリオは、少し目を細めた。
遠い記憶を辿るように、視線が窓の外へ向く。
「……わかっていた、つもりでした」
「つもり?」
「ええ。物語を書く。それだけは、確かだと思っていました」
エリオは、自分のカップを見つめた。湯気が、ゆっくりと立ち上っている。
「でも、それは本当に自分の物語だったのか」
「今でも、わからないんです」
カイは、黙った。
エリオの言葉が、心に重く沈んでいく。
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リリアは、そっと口を開いた。
「カイくんは……物語が、何だと思う?」
カイは、リリアを見た。透き通る水色の瞳。優しくて、でもどこか遠い。
「物語……?」
「うん。自分の物語って、何だと思う?」
カイは、しばらく考え込んだ。
それから、ゆっくりと言葉を探すように答えた。
「……わからないです」
「でも、きっと……」
カイは、自分の胸に手を当てた。
「ここに、あるんじゃないかって」
「心の中に?」
「はい。誰かに教えてもらうものじゃなくて」
「自分で見つけるものなんじゃないかって」
リリアは、静かに微笑んだ。
「そうかもしれないね」
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エリオは、カイの横顔を見ていた。
真剣な表情。でも、どこか迷っている。
――この子は、自分で答えを見つけようとしているんだ。
エリオの胸に、何かが引っかかった。
昔の自分を見ているような気がした。物語を書きたいと思っていた、あの頃の自分。何も恐れず、ただ前を向いていた自分。
でも、いつの間にか失ってしまった。
自分の物語を、見失ってしまった。
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「俺……」
カイが、また口を開いた。
「物語を、作りたいのかもしれないです」
エリオとリリアは、カイを見た。
カイは、少し照れたように笑った。
「何か、形にしたいんです」
「自分の中にあるものを、言葉にしたり、絵にしたり、音にしたり」
「それが何なのか、まだわからないけど」
「でも……作りたいんです」
カイの目が、少し輝いていた。
迷いながらも、前を向こうとしている目。
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エリオは、胸が締め付けられるような気持ちになった。
――作りたい。
その言葉が、心に刺さる。
昔、自分もそう思っていた。
物語を作りたい。誰かに届けたい。
でも、今は――。
「エリオさん」
カイの声で、エリオは我に返った。
「はい?」
「エリオさんは、もう物語を書かないんですか?」
エリオは、息を呑んだ。
カイの真っ直ぐな目。純粋な問いかけ。
「……書けないんです」
「どうして?」
「わからなくなったから」
エリオは、視線を落とした。
「物語が、何なのか」
「誰に届けるものなのか」
「何のために書くのか」
「全部、わからなくなってしまったんです」
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沈黙が、流れた。
風だけが、静かに音を立てている。
カイは、エリオの言葉を噛みしめるように黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……でも、エリオさんは今、物語を聴いてますよね」
「え?」
「俺の話を、聴いてくれてる」
「それも、物語じゃないですか?」
エリオは、ハッとした。
カイの言葉が、心に響く。
「俺の物語を、ちゃんと受け取ってくれてる」
「それって……すごく、嬉しいんです」
カイは、少し恥ずかしそうに笑った。
「だから、エリオさんの物語も……きっと、誰かに届いてたんじゃないかな」
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リリアは、二人のやり取りを静かに見守っていた。
カイの言葉が、エリオの心に届いている。
エリオの表情が、少しずつ変わっていく。
――ああ、風が吹いている。
リリアは、そっと思った。
――この二人の間に、優しい風が吹いている。
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「……ありがとう、カイ」
エリオは、小さく微笑んだ。
「でも、私にはもう……」
「まだ、わからないだけじゃないですか?」
カイは、真剣な目でエリオを見た。
「俺が、自分の物語をまだ見つけられてないみたいに」
「エリオさんも、まだ途中なんじゃないですか?」
エリオは、何も言えなかった。
カイの言葉が、胸に深く沈んでいく。
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風が、また吹いた。
カーテンが揺れる。
リリアは、窓の外を見た。
空が、少しずつ明るくなっている。
雲の切れ間から、陽の光が差し込んできた。
「……物語は、まだ途中」
リリアは、小さく呟いた。
「だから、わからないんだよ」
エリオとカイは、リリアを見た。
リリアは、穏やかに微笑んだ。
「風も、どこへ吹くか決めていないの」
「ただ、吹き続けているだけ」
「それでいいんじゃないかな」
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カイは、大きく息を吸った。
それから、笑顔を見せた。
「そっか……それでいいのか」
「うん」
リリアは、優しく頷いた。
カイは、立ち上がった。
「ありがとうございます、エリオさん、リリアさん」
「今日も、聴いてもらえて嬉しかったです」
「また、来ます!」
明るい声を残して、カイは店を出ていった。
鈴の音が、静かに消える。
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リリアとエリオ、二人きりになった。
静かな店内。
陽の光が、空っぽの本棚を照らしている。
エリオは、じっとテーブルを見つめていた。
リリアは、そっとエリオに声をかけた。
「エリオさん」
「……はい」
「カイくんの言葉、どう思いましたか?」
エリオは、ゆっくりと顔を上げた。
「……刺さりました」
「刺さった?」
「ええ。心に、深く」
エリオは、自分の胸に手を当てた。
「私は……本当に、物語を失ったんでしょうか」
「それとも、ただ見失っているだけなんでしょうか」
リリアは、静かに微笑んだ。
「それは、エリオさん自身が見つけることだと思います」
「でも……」
リリアは、空っぽの本棚を見た。
「空っぽだからこそ、新しいものが入るんじゃないですか?」
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エリオは、リリアの言葉に、ハッとした。
空っぽだからこそ、新しいものが入る。
――そうか。
――失ったんじゃなくて、空っぽになったんだ。
エリオの心に、何かが芽生え始めた。
小さな、でも確かな何か。
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風が、優しく吹いている。
リリアは、窓の外を見た。
空が、明るい。
――この人の物語も、まだ途中なんだ。
――風が、きっと導いてくれる。
リリアは、そっと微笑んだ。
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店内に、静かな時間が流れていた。
空っぽの本棚に、新しい物語が生まれる予感。
風が、それを運んでくる。




