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リリアと天使の羽 〜羽ばたく願いと風の奇跡〜   作者: たくわん。
第11章(最終章) 空っぽの本屋さん
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第43話「カイの物語」


次の日の午後、リリアは再びシルバーペン書店の扉を開けた。


カランコロン、と鈴の音が響く。


店内には、静かな時間が流れていた。窓から差し込む陽の光が、空っぽの本棚に柔らかな影を落としている。木の床は古びているけれど、丁寧に磨かれていて、歩くたびに小さな軋みを立てた。


エリオは、昨日と同じ場所に座っていた。


窓辺の椅子。手には、やはり一冊の本。


彼は本から顔を上げ、リリアを見て穏やかに微笑んだ。


「いらっしゃい、リリアさん」


「こんにちは、エリオさん」


リリアは、エリオの向かいの椅子に座った。テーブルの上には、白い陶器のカップが二つ。湯気が立ち上り、ハーブティーの香りが漂っている。


「よかったら、どうぞ」


「ありがとうございます」


リリアはカップを手に取り、そっと口をつけた。温かい。優しい味。ミントとカモミールが混ざったような、心が落ち着く香り。


風が、窓の外で木の葉を揺らしている。


-----


「今日は、お客さんは来ないんですか?」


リリアが尋ねると、エリオは少し首を傾げた。


「さあ……来るかもしれないし、来ないかもしれない」


「予約とか、しないんですか?」


「しないんです。風のように、ふらりと来る人を待っているだけで」


エリオは、カップを両手で包み込んだ。


「それに、ここは本屋ですから」


「本が、ないのに?」


「ええ。本がないのに、本屋なんです」


エリオは、どこか自嘲するように笑った。


リリアは、その笑顔を静かに見つめた。エリオの笑顔には、いつも微かな影が混じっている。優しさの奥に、何かを諦めたような、そんな色が滲んでいる。


――この人は、何を失ったんだろう。


リリアは、そっと思った。


-----


その時、扉の鈴が鳴った。


カランコロン。


「こんにちは!」


明るい声。カイだった。


昨日と同じ、元気な笑顔で店に入ってくる。リリアを見つけると、少し驚いたように目を見開いた。


「あ、リリアさん! また来たんですね!」


「うん。また、来ちゃった」


リリアは、柔らかく微笑んだ。


カイは、三つ目の椅子に座った。エリオがもう一つカップを取り出し、お茶を注ぐ。カイは嬉しそうにそれを受け取った。


「ありがとうございます!」


「どういたしまして」


三人は、しばらく黙ってお茶を飲んだ。窓の外では、風が優しく吹いている。木の葉が揺れる音。遠くで鳥が鳴く声。静かで、穏やかな時間。


でも、カイの表情には少し陰りがあった。


-----


「……また、聴いてもらえますか?」


カイが、ゆっくりと口を開いた。


エリオは、静かに頷く。


「もちろん」


カイは、カップを両手で握りしめた。視線は、テーブルの上。


「俺……やっぱり、まだわからないんです」


「何が?」


「自分のこと」


カイの声は、昨日よりも少し小さかった。明るさの奥に、不安が滲んでいる。


「みんな、進路を決めてて」


「将来のこと、ちゃんと考えてて」


「でも、俺は……何も見えなくて」


エリオは、何も言わずに聴いていた。ただ、静かに。カイの言葉を、丁寧に受け取るように。


-----


リリアも、黙ってカイを見ていた。


カイは、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「親は、安定した仕事に就けって言うし」


「先生は、自分の好きなことを見つけろって言うし」


「友達は、一緒に大学行こうって言うし」


「でも、俺は……」


カイは、唇を噛んだ。


「俺は、何がしたいのか、わからないんです」


風が、窓の外で囁いている。


カイの言葉が、店内に静かに響いていた。


「好きなことも、やりたいことも、わからない」


「自分の物語が、どこへ向かっているのか、全然見えなくて」


カイは、顔を上げてエリオを見た。


「エリオさんは……自分の物語、わかってましたか? 俺くらいの歳の時」


-----


エリオは、少し目を細めた。


遠い記憶を辿るように、視線が窓の外へ向く。


「……わかっていた、つもりでした」


「つもり?」


「ええ。物語を書く。それだけは、確かだと思っていました」


エリオは、自分のカップを見つめた。湯気が、ゆっくりと立ち上っている。


「でも、それは本当に自分の物語だったのか」


「今でも、わからないんです」


カイは、黙った。


エリオの言葉が、心に重く沈んでいく。


-----


リリアは、そっと口を開いた。


「カイくんは……物語が、何だと思う?」


カイは、リリアを見た。透き通る水色の瞳。優しくて、でもどこか遠い。


「物語……?」


「うん。自分の物語って、何だと思う?」


カイは、しばらく考え込んだ。


それから、ゆっくりと言葉を探すように答えた。


「……わからないです」


「でも、きっと……」


カイは、自分の胸に手を当てた。


「ここに、あるんじゃないかって」


「心の中に?」


「はい。誰かに教えてもらうものじゃなくて」


「自分で見つけるものなんじゃないかって」


リリアは、静かに微笑んだ。


「そうかもしれないね」


-----


エリオは、カイの横顔を見ていた。


真剣な表情。でも、どこか迷っている。


――この子は、自分で答えを見つけようとしているんだ。


エリオの胸に、何かが引っかかった。


昔の自分を見ているような気がした。物語を書きたいと思っていた、あの頃の自分。何も恐れず、ただ前を向いていた自分。


でも、いつの間にか失ってしまった。


自分の物語を、見失ってしまった。


-----


「俺……」


カイが、また口を開いた。


「物語を、作りたいのかもしれないです」


エリオとリリアは、カイを見た。


カイは、少し照れたように笑った。


「何か、形にしたいんです」


「自分の中にあるものを、言葉にしたり、絵にしたり、音にしたり」


「それが何なのか、まだわからないけど」


「でも……作りたいんです」


カイの目が、少し輝いていた。


迷いながらも、前を向こうとしている目。


-----


エリオは、胸が締め付けられるような気持ちになった。


――作りたい。


その言葉が、心に刺さる。


昔、自分もそう思っていた。


物語を作りたい。誰かに届けたい。


でも、今は――。


「エリオさん」


カイの声で、エリオは我に返った。


「はい?」


「エリオさんは、もう物語を書かないんですか?」


エリオは、息を呑んだ。


カイの真っ直ぐな目。純粋な問いかけ。


「……書けないんです」


「どうして?」


「わからなくなったから」


エリオは、視線を落とした。


「物語が、何なのか」


「誰に届けるものなのか」


「何のために書くのか」


「全部、わからなくなってしまったんです」


-----


沈黙が、流れた。


風だけが、静かに音を立てている。


カイは、エリオの言葉を噛みしめるように黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。


「……でも、エリオさんは今、物語を聴いてますよね」


「え?」


「俺の話を、聴いてくれてる」


「それも、物語じゃないですか?」


エリオは、ハッとした。


カイの言葉が、心に響く。


「俺の物語を、ちゃんと受け取ってくれてる」


「それって……すごく、嬉しいんです」


カイは、少し恥ずかしそうに笑った。


「だから、エリオさんの物語も……きっと、誰かに届いてたんじゃないかな」


-----


リリアは、二人のやり取りを静かに見守っていた。


カイの言葉が、エリオの心に届いている。


エリオの表情が、少しずつ変わっていく。


――ああ、風が吹いている。


リリアは、そっと思った。


――この二人の間に、優しい風が吹いている。


-----


「……ありがとう、カイ」


エリオは、小さく微笑んだ。


「でも、私にはもう……」


「まだ、わからないだけじゃないですか?」


カイは、真剣な目でエリオを見た。


「俺が、自分の物語をまだ見つけられてないみたいに」


「エリオさんも、まだ途中なんじゃないですか?」


エリオは、何も言えなかった。


カイの言葉が、胸に深く沈んでいく。


-----


風が、また吹いた。


カーテンが揺れる。


リリアは、窓の外を見た。


空が、少しずつ明るくなっている。


雲の切れ間から、陽の光が差し込んできた。


「……物語は、まだ途中」


リリアは、小さく呟いた。


「だから、わからないんだよ」


エリオとカイは、リリアを見た。


リリアは、穏やかに微笑んだ。


「風も、どこへ吹くか決めていないの」


「ただ、吹き続けているだけ」


「それでいいんじゃないかな」


-----


カイは、大きく息を吸った。


それから、笑顔を見せた。


「そっか……それでいいのか」


「うん」


リリアは、優しく頷いた。


カイは、立ち上がった。


「ありがとうございます、エリオさん、リリアさん」


「今日も、聴いてもらえて嬉しかったです」


「また、来ます!」


明るい声を残して、カイは店を出ていった。


鈴の音が、静かに消える。


-----


リリアとエリオ、二人きりになった。


静かな店内。


陽の光が、空っぽの本棚を照らしている。


エリオは、じっとテーブルを見つめていた。


リリアは、そっとエリオに声をかけた。


「エリオさん」


「……はい」


「カイくんの言葉、どう思いましたか?」


エリオは、ゆっくりと顔を上げた。


「……刺さりました」


「刺さった?」


「ええ。心に、深く」


エリオは、自分の胸に手を当てた。


「私は……本当に、物語を失ったんでしょうか」


「それとも、ただ見失っているだけなんでしょうか」


リリアは、静かに微笑んだ。


「それは、エリオさん自身が見つけることだと思います」


「でも……」


リリアは、空っぽの本棚を見た。


「空っぽだからこそ、新しいものが入るんじゃないですか?」


-----


エリオは、リリアの言葉に、ハッとした。


空っぽだからこそ、新しいものが入る。


――そうか。


――失ったんじゃなくて、空っぽになったんだ。


エリオの心に、何かが芽生え始めた。


小さな、でも確かな何か。


-----


風が、優しく吹いている。


リリアは、窓の外を見た。


空が、明るい。


――この人の物語も、まだ途中なんだ。


――風が、きっと導いてくれる。


リリアは、そっと微笑んだ。


-----


店内に、静かな時間が流れていた。


空っぽの本棚に、新しい物語が生まれる予感。


風が、それを運んでくる。


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