第40話「心を込めた練習」
朝の教室は、ざわめいていた。
リリアは廊下の窓辺に立ち、教室の様子を眺めていた。子供たちが机を端に寄せ、教室の中央に広いスペースを作っている。
「今日から、本格的な練習なんですね」
リリアは小さく呟いた。
教室の前では、リオが楽譜を抱えて立っている。その表情は――少し緊張しているけれど、昨日までとは違っていた。迷いが消えている。
「みんな、集まって!」
リオの声に、子供たちがワイワイと集まってくる。全部で二十人ほどだろうか。元気いっぱいの顔が並んでいる。
ソラもその中にいた。
少し緊張した面持ちで、でも目は輝いている。
「今日から、音楽会の練習を始めます」
リオの言葉に、子供たちは「おー!」と声を上げた。
「でもね、その前に――先生、みんなに言いたいことがあるの」
リオは深く息を吸い込んだ。
子供たちは静かに、リオを見つめる。
「先生ね――音楽、あんまり得意じゃないの」
教室が、一瞬静まり返った。
「音程も、よく外しちゃうし、リズムもずれちゃう。ピアノも、上手じゃない」
リオは笑った。
少し照れくさそうに。
「だから――もしかしたら、先生のピアノでみんなが歌いづらくなっちゃうこともあるかもしれない」
子供たちは、じっとリオを見ている。
「でもね」
リオは子供たちを見渡した。
「先生、みんなと一緒に頑張りたいの。音楽会、成功させたい」
「先生!」
一人の男の子が手を挙げた。
「先生が一生懸命なのは、みんな知ってるよ!」
「そうそう!」
別の女の子も頷いた。
「先生、いつも遅くまで練習してるもん!」
「え……見てたの?」
リオは驚いたように目を丸くした。
子供たちは笑っている。
「音楽室の電気、ついてたもん!」
「先生、めっちゃ練習してるよね!」
リオは目頭が熱くなった。
子供たちは――ちゃんと見てくれていた。
「ありがとう、みんな」
リオは笑顔で頷いた。
「じゃあ――一緒に頑張ろうね!」
「おー!」
子供たちの元気な声が、教室に響いた。
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リリアは廊下で、静かに微笑んでいた。
「リオさんは――もう、大丈夫ですね」
風が、吹く。
窓から吹き込む風が、リリアの髪を揺らした。
「でも――ソラちゃんは、まだ……」
リリアの視線は、ソラに向いていた。
ソラは子供たちの中で、少し俯いている。
「言えないんですね」
リリアは小さく呟いた。
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「じゃあ、まずは『風の歌』を歌ってみよう!」
リオが楽譜を広げた。
子供たちは列になって並ぶ。
リオはピアノの前に座った。
鍵盤に手を置き、深く息を吸い込む。
「いくよ――せーの!」
リオの指が、鍵盤を叩いた。
ピアノの音が響き、子供たちの歌声が重なり始める。
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**♪風が吹く 空の向こう
♪誰かの声が 聞こえてくる――**
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でも、すぐにバラバラになった。
リオのピアノが、少しずれている。リズムが一定じゃない。子供たちは戸惑いながらも、必死についていこうとする。でも、合わない。
「あ、ごめん! もう一回!」
リオは慌てて手を止めた。
子供たちは笑っている。
「先生、ちょっと早かったよ!」
「うん、そうだね……ごめん」
リオは苦笑いした。
「もう一回、いくよ!」
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二度目。
三度目。
四度目。
何度やっても、リオの伴奏は上手くいかなかった。
リズムがずれる。
テンポが安定しない。
時々、音を外す。
でも――。
子供たちは文句を言わなかった。
むしろ、楽しそうに笑っている。
「先生、頑張れー!」
「次は合わせようね!」
リオは、涙が出そうになった。
でも、笑顔で頷く。
「うん! ありがとう!」
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五度目。
リオの伴奏は、やっぱり少しずれていた。
でも――今度は、子供たちがリオに合わせようとしてくれた。
歌声が、少しずつ揃い始める。
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**♪風が吹く 空の向こう
♪誰かの声が 聞こえてくる
♪見えないけれど 感じるもの
♪それは優しい 風の歌**
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完璧じゃなかった。
音程も、リズムも、まだバラバラ。
でも――。
リリアは目を閉じた。
「温かい」
心が、温かくなる。
完璧じゃないけど、心がこもっている。
一生懸命で、優しくて、温かい。
歌が終わった。
「やったー! できた!」
子供たちは笑顔で、互いにハイタッチしている。
リオも、嬉しそうに笑っていた。
「みんな、ありがとう!」
「先生も、ありがとう!」
教室は笑顔で溢れていた。
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「あの――先生」
小さな声が聞こえた。
みんなが振り返ると、ソラが手を挙げていた。
でも、その手は震えている。
「ソラちゃん? どうしたの?」
リオが優しく問いかけた。
ソラは俯いて、小さな声で言った。
「あの……ソロパート……」
「ソロパート?」
「わたし……歌いたい、です」
教室が、静まり返った。
ソラは顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいる。
「でも、わたし――音痴だから……みんなに迷惑かけちゃうかもしれない」
「ソラちゃん……」
「それでも――歌いたいです」
ソラの声は震えていた。
でも、まっすぐだった。
「ダメ、ですか……?」
静寂が落ちた。
子供たちは、互いに顔を見合わせている。
その時――。
「いいと思う!」
一人の男の子が手を挙げた。
「え……?」
ソラは驚いたように、その子を見る。
「だって、ソラちゃん――いっつも楽しそうに歌ってるじゃん」
「そうそう!」
別の女の子も頷いた。
「音痴だけど、なんか――聴いてると元気になるんだよね」
「本当に……?」
ソラの目から、涙が溢れた。
「本当だよ!」
「ソラちゃん、頑張って!」
「応援するよ!」
子供たちは笑顔で、ソラに声をかけた。
ソラは涙を拭いながら、嬉しそうに笑う。
リオもソラの隣に歩み寄り、優しく頭を撫でた。
「ソラちゃん、ソロパート――お願いできる?」
「……はい!」
ソラは力強く頷いた。
教室は、温かい拍手で包まれた。
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リリアは廊下で、静かに拍手を送っていた。
「言えたんですね、ソラちゃん」
風が、吹く。
「願いが――形になり始めている」
リリアは微笑んだ。
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練習は続いた。
リオがピアノを弾き、ソラがソロパートを歌う。
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**♪手を伸ばせば 届きそうで
♪でも掴めない 風の音――**
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やっぱり、音程は外れていた。
時々、大きくずれる。
リオの伴奏も、少しリズムがずれている。
でも――。
子供たちは笑っていた。
誰も、笑い者にはしなかった。
「ソラちゃん、いいよ!」
「そのまま、頑張って!」
応援の声が、ソラを包む。
ソラは涙を浮かべながら、最後まで歌い切った。
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**♪それでもいいの ここにある
♪心に響く 風の歌**
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歌が終わった。
教室は、温かい拍手で溢れた。
ソラは泣きながら、笑っていた。
「みんな……ありがとう」
リオも、涙を拭いながら笑っている。
「ソラちゃん、素敵だったよ」
「本当、ですか……?」
「本当だよ」
リオは優しく頷いた。
「心を込めて歌えば――それが、一番大切なことなんだから」
ソラは嬉しそうに、何度も頷いた。
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練習が終わった後。
子供たちが帰り支度をしている中、リオはソラを呼び止めた。
「ソラちゃん」
「はい?」
「勇気を出して、言ってくれてありがとう」
リオは優しく微笑んだ。
「先生もね、ソラちゃんに勇気をもらったの」
「先生が……?」
「うん」
リオは頷いた。
「ソラちゃんが『歌いたい』って言ってくれたから――先生も、頑張ろうって思えた」
ソラは目を丸くした。
「だから――一緒に頑張ろうね」
「はい!」
ソラは笑顔で頷いた。
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リリアは廊下で、その様子を見守っていた。
「もうすぐ――」
リリアは小さく呟いた。
「音楽会、ですね」
風が、吹く。
「願いが――羽になる日が、近づいている」
リリアは空を見上げた。
秋の空は高く、雲が流れていく。
「あと少しだけ――待っててね」
リリアは微笑んだ。
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夕暮れ。
リオとソラは、音楽室で二人きりで練習していた。
「もう一回、歌ってみようか」
「はい!」
ソラは深く息を吸い込む。
リオがピアノを弾き始めた。
ソラが歌う。
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**♪風が吹く 空の向こう
♪誰かの声が 聞こえてくる――**
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やっぱり、音程は外れている。
リオのピアノも、少しリズムがずれている。
でも――。
リオは涙を浮かべながら、ピアノを弾き続けた。
「素敵だよ、ソラちゃん」
「本当、ですか?」
「本当だよ」
リオは笑った。
「音楽会――きっと、成功するよ」
「はい!」
ソラも笑顔で頷いた。
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リリアは音楽室の扉の前に立ち、中の様子を静かに見守っていた。
「もうすぐ――」
リリアは小さく呟いた。
「願いが、叶う」
風が、優しく吹いている。
音楽室からは、ソラの歌声が聞こえてくる。
音程は外れているけど、温かくて、優しい歌声。
そして、リオのピアノ。
少しリズムがずれているけど、心がこもっている。
リリアは微笑んだ。
「音楽会――楽しみですね」
風が、リリアの髪を撫でた。
秋の夕暮れ。
風が運ぶのは――願いが羽になる、その予感だった。




