第39話「風の問いかけ」
夕暮れの音楽室は、静かだった。
リリアは窓辺に立ち、外を眺めていた。校庭では子供たちが帰り支度をしている。笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「また、ここに来たんだね」
リリアは小さく呟いた。
三日連続で、この学校に来ている。風が導くまま、毎日ここへ足が向く。
扉が開く音がした。
「あ、リリアちゃん!」
振り返ると、ソラが笑顔で駆け込んできた。その後ろから、リオもゆっくりと入ってくる。
「こんにちは、ソラちゃん。リオさん」
リリアは微笑んだ。
ソラはリリアの隣に駆け寄り、窓の外を一緒に眺める。
「今日も来てくれたんだね!」
「はい。風が、ここに来なさいって言うので」
「風が?」
ソラは首を傾げた。
リオも不思議そうに、リリアを見つめる。
「リリアって、不思議なこと言うよね」
「そうですか?」
リリアは少し困ったように笑った。
リオは音楽室の中央にあるピアノの前に座り、鍵盤に手を置いた。でも、音は鳴らさない。ただ、じっと鍵盤を見つめている。
「リオ先生」
ソラがリオの方を向いた。
「音楽会の練習、明日から本格的に始まるんだよね」
「うん……そうだね」
リオの声は少し沈んでいた。
ソラも、少し表情を曇らせる。
リリアは二人の様子を静かに見守った。
「ねぇ、リリア」
リオが顔を上げた。
「あなた、音楽のこと――どう思う?」
「音楽……ですか」
リリアはピアノの方へ歩いていった。
リオとソラが、リリアを見つめる。
「お二人に、聞きたいことがあるんです」
リリアの言葉に、二人は顔を見合わせた。
「音楽って――誰のためにあるんでしょう」
静寂が落ちた。
リオは答えられなかった。
ソラも、じっと黙っている。
「分からない……?」
リリアは優しく問いかけた。
リオは俯いて、小さく頷く。
「分からないの。ずっと考えてるんだけど……」
「私も」
ソラも小さな声で言った。
「歌うことは好きだけど……なんで好きなのか、分からない」
リリアは窓の方へ歩いた。
そして、窓を開ける。
風が吹き込んできた。
優しい風。秋の匂いを運ぶ風。
「風はね」
リリアは目を閉じた。
「誰にも聴こえないけど――確かに、そこにあるの」
リオとソラは、リリアの言葉を聞いている。
「風は音を立てるけど、形はない。触れるけど、掴めない」
風が、音楽室の中を吹き抜けていく。
壁に貼られた楽譜が、少しだけ揺れた。
「音楽も――同じかもしれませんね」
リリアは振り返った。
「形はないけど、確かにそこにある。聴こえるけど、掴めない」
「でも――」
リオが口を開いた。
「でも、音楽には『正しい』ものがあるでしょ? 正しい音程、正しいリズム……」
「それは」
リリアは微笑んだ。
「誰が決めたんでしょうね」
リオは息を呑んだ。
「風にも、『正しい吹き方』なんてないでしょう?」
リリアの言葉に、ソラが小さく笑った。
「そっか……風は、好きに吹いてるもんね」
「はい」
リリアは頷いた。
「強く吹いても、優しく吹いても――風は、風」
リオは何も言えなかった。
ただ、リリアの言葉を聞いている。
「リオさんは――どうして、音楽の先生になったんですか?」
リリアの問いかけに、リオは少し驚いたように顔を上げた。
「それは……」
リオは鍵盤を見つめた。
「音楽が、好きだったから」
「上手だったから、ですか?」
「……違う」
リオは首を横に振った。
「上手じゃなかったの。むしろ、下手だった」
「じゃあ、どうして?」
「だって――」
リオは目を閉じた。
「音楽を聴くと、心が温かくなったから」
その言葉に、リリアは微笑んだ。
「それです」
「え……?」
「それが、答えなんじゃないでしょうか」
リリアはリオの隣に座った。
「音楽は――誰かの心を、温かくするためにあるんです」
リオは目を見開いた。
ソラも、息を呑んでいる。
「上手とか下手とか――そんなこと、本当は関係ないのかもしれません」
リリアは鍵盤に手を置いた。
そして、一つの音を鳴らす。
ポロン――。
音は静かに響いた。
「この音も――上手でも下手でもない。ただ、そこにあるだけ」
リオは涙ぐんでいた。
でも、今度は悲しい涙じゃなかった。
「ソラちゃん」
リリアがソラの方を向いた。
「あなたは――どうして、歌いたいんですか?」
ソラは少し考えた。
それから、小さく答える。
「楽しいから」
「楽しい……」
「うん。歌ってると、なんか――心が軽くなるの」
ソラは笑った。
「音痴だけど、それでも楽しい」
「それが、答えなんですね」
リリアは微笑んだ。
「音楽は――楽しむためにあるんです」
風が、また吹いた。
カーテンが揺れて、影が動く。
「お二人とも――もう、答えは分かってるんですよ」
リリアは立ち上がった。
「ただ、怖くて、認められなかっただけ」
リオは顔を上げた。
その目は、まだ少し迷っている。
「でも……私が指揮をしたら、子供たちが……」
「子供たちは」
リリアは窓の外を見た。
「リオさんが一生懸命なのを、ちゃんと見ていますよ」
「本当に……?」
「はい」
リリアは頷いた。
「心を込めていれば――それは、必ず伝わります」
ソラが立ち上がった。
「先生」
ソラはリオの手を握った。
「私ね、先生の指揮、好きだよ」
「ソラちゃん……」
「だって、先生――すっごく一生懸命だもん」
ソラは笑った。
「音程とか、リズムとか、よく分かんないけど……先生が楽しそうにしてたら、私も楽しいの」
リオの目から、涙が溢れた。
でも、今度は笑っていた。
「ありがとう、ソラちゃん」
リオはソラを抱きしめた。
ソラも、嬉しそうにリオに抱きつく。
リリアは静かに、その様子を見守った。
「願いが――芽生え始めている」
リリアは小さく呟いた。
風が、優しく吹いている。
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「ねぇ、リリアちゃん」
ソラがリリアの方を向いた。
「音楽会でね、合唱するの。『風の歌』って曲」
「風の歌……」
リリアは興味深そうに首を傾げた。
「聴かせてもらえますか?」
「いいよ!」
ソラは嬉しそうに頷いた。
それから、少し恥ずかしそうに笑う。
「でも、音痴だから……変かもしれない」
「大丈夫ですよ」
リリアは微笑んだ。
「心を込めていれば――風が、ちゃんと運んでくれますから」
ソラは深く息を吸い込んだ。
リオがピアノの前に座り、鍵盤に手を置く。
「じゃあ……歌うね」
ソラが歌い始めた。
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**♪風が吹く 空の向こう
♪誰かの声が 聞こえてくる
♪見えないけれど 感じるもの
♪それは優しい 風の歌**
**♪手を伸ばせば 届きそうで
♪でも掴めない 風の音
♪それでもいいの ここにある
♪心に響く 風の歌**
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ソラの歌声は、やっぱり音程が外れていた。
時々、大きくずれる。
でも――。
リリアは目を閉じた。
「温かい」
心が、温かくなる。
ソラの歌は、下手だった。
でも、心がこもっていた。まっすぐで、優しくて、一生懸命で。
歌が終わった。
リリアは目を開けて、ソラに拍手を送った。
「素敵でしたよ、ソラちゃん」
「本当?」
ソラは嬉しそうに笑った。
リオも、優しく微笑んでいる。
「本当です」
リリアは頷いた。
「風が――ちゃんと、運んでくれましたから」
ソラは不思議そうに首を傾げた。
でも、嬉しそうに笑っている。
リオが立ち上がった。
「リリア」
「はい」
「私ね――決めた」
リオの目は、もう迷っていなかった。
「完璧じゃなくても……心を込めて、指揮する」
「そうですか」
リリアは微笑んだ。
「それが、リオさんの願いなんですね」
「願い……」
リオはその言葉を繰り返した。
「そうかもしれない。これが、私の願い」
ソラも立ち上がった。
「私もね、決めた!」
「ソラちゃんも?」
「うん! ソロパート、歌いたいって――ちゃんと言う!」
ソラは拳を握りしめた。
「音痴でも、いい。心を込めて歌う!」
リリアは二人を見つめた。
「それが――お二人の、願いなんですね」
風が、吹いた。
音楽室の中を、優しい風が吹き抜けていく。
「もうすぐ――」
リリアは小さく呟いた。
「願いが、羽になる」
でも、その言葉は誰にも聞こえなかった。
ただ、風だけが――その言葉を運んでいった。
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夕日が沈んでいく。
音楽室は、オレンジ色に染まっていた。
リオとソラは、笑顔で話している。
音楽会のこと。合唱のこと。これからのこと。
リリアは窓辺に立ち、空を見上げた。
「願いは――もう少しで、形になる」
風が、リリアの髪を撫でる。
「もう少しだけ――待っててね」
リリアは微笑んだ。
秋の夕暮れ。
風が運ぶのは――二つの願いが、羽になる予感だった。




