第38話「音を外す二人」
朝の光が、校庭を照らしている。
リリアは校門の前に立ち、深く息を吸い込んだ。秋の匂い。少し冷たい空気の中に、どこか甘い香りが混ざっている。金木犀だろうか。
風が、吹く。
「また、ここに来たんだね」
リリアは小さく呟いた。
昨日リオと出会った学校。風は今日も、リリアをここへ導いた。
校庭からは、子供たちの声が聞こえてくる。
元気いっぱいの笑い声。走り回る足音。誰かが「待って!」と叫んでいる。
リリアは微笑んだ。
「賑やかだね」
風が、また吹いた。
その風に乗って――小さな歌声が聞こえてきた。
「……歌?」
リリアは耳を澄ませた。
歌声は、校庭の隅から聞こえてくる。
リリアは歩き始めた。
校庭の端、大きな木の下。そこに一人の女の子が座っていた。
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女の子は、歌っていた。
小さな声で、でも一生懸命に。膝を抱えて座り、空を見上げながら歌っている。
でも――。
リリアは立ち止まった。
「音程が……」
女の子の歌は、音程が全部外れていた。
メロディーは分かる。きっと、何かの童謡だろう。でも、一音一音が微妙にずれていて、時々大きく外れる。
それでも、女の子は歌い続けていた。
まっすぐに、一生懸命に。
リリアは静かに近づいた。
女の子はリリアに気づいていない。まだ歌っている。
「♪……そらを、とんで……♪」
女の子の声が、風に乗って消えていく。
歌が終わった。
女の子は小さく息を吐いて、また膝を抱えた。
「素敵な歌ですね」
リリアが声をかけると、女の子はビクリと肩を震わせた。
慌てて振り返る。
「わ、わわっ! 聴かれてた!?」
女の子は真っ赤になって、両手で顔を覆った。
「ごめんなさい。勝手に聴いちゃって」
リリアは申し訳なさそうに言った。
女の子は指の隙間から、リリアをチラリと見る。
「あの……お姉ちゃん、誰?」
「リリア。旅をしている者です」
「旅……?」
女の子は不思議そうに首を傾げた。
それから、恥ずかしそうに手を下ろす。
「私、ソラって言うの」
「ソラちゃん」
リリアは名前を繰り返した。
ソラは小さく頷く。
「さっきの歌、とっても素敵でしたよ」
リリアの言葉に、ソラは目を丸くした。
「え……本当?」
「はい」
「でも……私、音痴だよ?」
ソラは俯いた。
その声は小さくて、少し震えている。
「音程、全然合ってないし……みんなに笑われちゃうから、いつもここで一人で歌ってるの」
リリアはソラの隣に座った。
ソラは少し驚いたように、リリアを見上げる。
「ソラちゃんは――歌うことが、好きですか?」
リリアの問いかけに、ソラは小さく頷いた。
「……うん。大好き」
「そうなんですね」
「でもね」
ソラは膝を抱きしめた。
「来月、音楽会があるの。クラスで合唱をするんだけど……ソロパートがあるんだよね」
「ソロパート……」
「うん。本当はね、歌いたいの。みんなの前で、ちゃんと歌ってみたい」
ソラの目が、少しだけ輝いた。
でも、すぐにまた曇る。
「でも、無理だよね。音痴だから」
「無理って――誰が決めたんですか?」
リリアの言葉に、ソラは顔を上げた。
「え……?」
「ソラちゃんが歌いたいなら――それでいいんじゃないでしょうか」
リリアは微笑んだ。
ソラは戸惑ったように、リリアを見つめる。
「でも……笑われちゃうよ?」
「笑われるかもしれませんね」
リリアはあっさりと頷いた。
ソラは少し驚いたように、目を瞬かせる。
「でも――」
リリアは空を見上げた。
「心を込めた歌は、風が運んでくれますよ」
「風……?」
「はい」
リリアは風を感じた。
優しい風が、二人の髪を撫でていく。
「風はね、どんな歌も運ぶの。上手でも、下手でも」
ソラは何も言えなかった。
ただ、風の音を聴いている。
「本当に……?」
ソラの声は小さかった。
リリアは微笑むだけで、答えなかった。
その時――。
「ソラちゃん!」
遠くから声が聞こえた。
二人が振り返ると、校舎の方から一人の女性が歩いてくるのが見えた。
リオだった。
「あ、リオ先生!」
ソラは立ち上がって、手を振る。
リオはソラに気づき、小さく手を振り返した。
それから――リオはリリアに気づいた。
目を見開く。
「あなた……昨日の」
「こんにちは、リオさん」
リリアは微笑んだ。
リオは戸惑ったように、リリアとソラを交互に見る。
「ソラちゃんと、お友達なの?」
「今、お会いしたばかりです」
「そうなんだ……」
リオはソラの隣に座った。
ソラは嬉しそうに、リオに寄り添う。
「先生、どうしたの?」
「ソラちゃんを探してたの。もうすぐ授業が始まるから」
「あ、そっか!」
ソラは慌てて立ち上がった。
それから、リリアの方を振り返る。
「リリアお姉ちゃん、また会える?」
「はい。風が吹いたら、ね」
リリアの言葉に、ソラは首を傾げた。
でも、嬉しそうに笑って、校舎の方へ駆けていった。
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ソラが去った後、リオは静かにリリアを見つめた。
「あなた……本当に、誰?」
「リリアです」
「それは分かってるけど……」
リオは言葉を探すように、少し黙った。
「何だか、不思議な人ね」
「そうですか?」
「うん」
リオは小さく笑った。
昨日とは違う、少し柔らかい笑顔。
「昨日、あなたが言ってくれた言葉……ずっと考えてたの」
「言葉……?」
「音楽って、何のためにあるのかって」
リオは空を見上げた。
「まだ、答えは分からないけど……でも、少しだけ楽になった気がする」
「そうですか」
リリアは微笑んだ。
「ソラちゃんも――音楽が好きなんですね」
リリアの言葉に、リオは頷いた。
「うん。あの子、歌うことが大好きなの」
「でも、音痴なんですよね」
「……うん」
リオは少し複雑そうに頷いた。
「あの子ね、ソロパートを歌いたいって思ってるんだと思う。でも、言い出せないでいるの」
「どうしてですか?」
「音痴だから……笑われるかもしれないって、怖いんだと思う」
リオの声は優しかった。
「私もね、同じだから……気持ちが分かる」
リリアはリオを見つめた。
「リオさんも、ソラちゃんも――同じ願いを抱えているんですね」
「願い……?」
「音を外しても、心は――ちゃんとそこにあるのに」
リリアの言葉に、リオは息を呑んだ。
「それなのに――怖くて、一歩が踏み出せない」
「……そうかもしれない」
リオは俯いた。
でも、その表情は昨日のように暗くはなかった。
「ねぇ、リリア」
「はい」
「あなたは――音楽が、好きですか?」
リオの問いかけに、リリアは少し考えた。
それから、微笑む。
「音楽――というより、音が好きです」
「音?」
「はい。風の音、水の音、鳥の声……そういう音が」
リリアは目を閉じた。
「音楽も、そういう音の一つなのかもしれませんね」
「音の、一つ……」
リオはリリアの言葉を繰り返した。
その時、校舎の方からチャイムの音が鳴った。
「あ、授業が始まっちゃう」
リオは慌てて立ち上がった。
「リリア、また会える?」
「はい。風が吹いたら」
リリアの答えに、リオは不思議そうに笑った。
「風が吹いたら、ね」
そう言って、リオは校舎へと駆けていった。
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リリアは一人、木の下に座ったまま、空を見上げた。
「二人とも――同じなんだね」
風が、吹く。
「音を外しても、心は――ちゃんとそこにある」
リリアは小さく呟いた。
「でも、怖くて、一歩が踏み出せない」
風が、リリアの髪を撫でる。
「願いは――もう少しで、形になる」
リリアは微笑んだ。
「もう少しだけ――待っててね」
風が、また吹いた。
木の葉が揺れて、影が踊る。
リリアは立ち上がり、また歩き始めた。
風が導くままに。
秋の朝。
風が運ぶのは――二つの小さな願いだった。




