第37話「風が聴いた、泣き声」
風が、吹いている。
リリアは立ち止まり、空を見上げた。
灰色の雲が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空。でも、風だけは優しく吹いている。
「どこへ行けばいいの?」
リリアは小さく呟いた。
風は答えない。ただ、そっとリリアの髪を撫でるように吹き抜けていく。
――ああ、そうか。
風は、いつも答えを教えてくれるわけじゃない。
ただ、導いてくれるだけ。
リリアは歩き始めた。
風が導くままに、石畳の道を進んでいく。
街は静かだった。
秋の夕暮れ時。家々の窓からは暖かい灯りが漏れ、どこかから夕飯を作る匂いが漂ってくる。リリアは深く息を吸い込んだ。
――幸せな匂い。
そう思いながら、リリアはさらに歩を進める。
やがて、小さな丘の上に、一つの建物が見えてきた。
学校だった。
校舎は古びているけれど、温かみがある。校庭には鉄棒やブランコが並び、秋の風に揺れていた。子供たちの笑い声が――もう聞こえない。きっと、みんな家に帰ったのだろう。
でも。
リリアは立ち止まった。
風が――何かを運んでくる。
音だった。
いや、音というよりは――
「泣き声……?」
リリアは首を傾げた。
誰かが、泣いている。
風は校舎の方へ吹いていく。
リリアはその風に導かれるまま、校舎の中へと入っていった。
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廊下は静かだった。
靴音だけが、コツコツと響く。
リリアは歩きながら、耳を澄ませた。
泣き声は――どこから聞こえてくるのだろう。
風が、一つの扉の前で止まった。
その扉には、小さなプレートがかかっている。
**『音楽室』**
リリアは扉に手をかけた。
ゆっくりと、扉を開ける。
音楽室は静かだった。
窓からは夕日が差し込み、部屋全体をオレンジ色に染めている。壁には楽譜が貼られ、棚にはタンバリンやトライアングルが並んでいる。
そして――部屋の奥、ピアノの前に一人の女性が座っていた。
若い女性だった。
たぶん、二十代半ば。茶色の髪を後ろで一つに結び、白いブラウスに黒いスカート。教師のような服装。
でも、その女性は――泣いていた。
ピアノの鍵盤に手を置いたまま、肩を震わせて泣いている。
リリアは静かに部屋の中へ入った。
足音を立てないように、そっと。
「あの……」
リリアが声をかけると、女性はビクリと肩を震わせた。
慌てて涙を拭い、振り返る。
「あ、ごめんなさい! 誰か入ってくるなんて思わなくて……」
女性は慌てて立ち上がろうとしたが、リリアは小さく首を横に振った。
「いいんです。私が勝手に入ってきたので」
リリアは微笑んだ。
女性は戸惑ったように、リリアを見つめている。
「あなた……誰?」
「リリアです。旅をしている者で」
「旅……?」
女性は不思議そうに首を傾げた。
でも、それ以上は聞かなかった。代わりに、小さく息を吐いて、また椅子に座り込んだ。
「ごめんね。変なところ、見せちゃって」
「いえ」
リリアは女性の隣に歩み寄り、ピアノの横に立った。
女性は少し驚いたように、リリアを見上げる。
「あなた……泣いていましたね」
リリアの言葉に、女性は俯いた。
また、目元に涙が浮かんでいる。
「……うん。泣いてた」
「どうして?」
リリアの問いかけに、女性は小さく笑った。
でも、それは笑顔じゃなかった。苦しそうな、自嘲するような笑い。
「私ね……音楽の先生なの」
「音楽の先生……」
「うん。でもね――」
女性は鍵盤に指を置いた。
そして、一つの音を鳴らす。
ポロン――。
音は静かに響いた。
でも、女性の表情は暗いままだった。
「私ね――音痴なの。ピアノも、上手く弾けない」
「音痴……?」
「そう。音程が分からない。リズムも取れない。歌えば音を外すし、ピアノを弾いてもずれちゃう」
女性は自分の手を見つめた。
その手は震えている。
「なのに、音楽会でピアノを弾きながら、みんなをまとめる役を任されちゃって……。子供たちは一生懸命練習してるのに、私が足を引っ張ってるの」
「そんなこと……」
「そんなことあるのよ」
女性は強い口調で言った。
でも、すぐに力が抜けたように、また俯く。
「ごめん。怒鳴るつもりじゃなかった」
「いえ」
リリアは静かに女性の隣に座った。
女性は驚いたように、リリアを見る。
「あの……」
「お名前、教えてもらえますか?」
リリアの問いかけに、女性は少し戸惑ったように頷いた。
「リオ。リオ・ハミングって言うの」
「リオさん」
リリアは名前を繰り返した。
リオは小さく頷く。
「リオさんは――音楽が、好きですか?」
リリアの問いかけに、リオは目を見開いた。
そして――ゆっくりと、頷いた。
「……好き。大好き」
「そうなんですね」
「でもね、好きなだけじゃダメなの。ちゃんと弾けなきゃ、先生失格でしょ?」
リオの声は震えていた。
また、涙が溢れてくる。
「子供たちは一生懸命なのに……私が、ちゃんと弾けなくて……ごめんって、毎日思ってる」
リオは両手で顔を覆った。
肩が小刻みに震えている。
リリアは静かに、風を感じた。
窓の外から、優しい風が吹き込んでくる。
「リオさん」
リリアは静かに呟いた。
「音楽って――何のためにあるんでしょうね」
リオは顔を上げた。
涙で濡れた目で、リリアを見つめる。
「……え?」
「音楽って――何のために、あるんでしょう」
リリアは窓の外を見つめた。
風が、木々を揺らしている。
「上手に演奏するため? 完璧に歌うため?」
リオは答えられなかった。
ただ、リリアの言葉を聞いている。
「それとも――」
リリアはリオの方を向いた。
その瞳は、透き通るような水色。
「誰かの心を、動かすため?」
リオは息を呑んだ。
「リオさんは、音楽が好きなんですよね」
「……うん」
「子供たちも、音楽が好きなんですよね」
「……うん」
「だったら――それでいいんじゃないでしょうか」
リリアは微笑んだ。
リオは戸惑ったように、リリアを見つめる。
「でも……」
「風はね」
リリアは窓の方を見た。
「どんな音も運ぶの。上手でも、下手でも」
「風……?」
「風は、誰も責めない。ただ、そこにあるだけ」
リリアの言葉に、リオは何も言えなかった。
ただ、風の音を聴いている。
「音楽も――そうかもしれませんね」
リリアは立ち上がった。
リオは慌ててリリアを見上げる。
「あ、待って――」
「また、会えますよ」
リリアは微笑んだ。
「風が吹いたら、ね」
そう言って、リリアは音楽室を後にした。
リオは呆然と、リリアの背中を見送る。
窓の外で、風が優しく吹いていた。
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リリアは廊下を歩きながら、小さく呟いた。
「この人は――音楽を、愛しているんだ」
風が、リリアの髪を撫でる。
「だから、苦しいんだね」
リリアは空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、夕日が差し込んでいる。
「でも――きっと、大丈夫」
リリアは微笑んだ。
「願いは、もう芽生え始めている」
風が、また吹いた。
リリアはその風に導かれるまま、また歩き始める。
秋の夕暮れ。
風が運ぶのは――小さな願いの、始まりだった。




