第31話「空の涙、恵みの雨」
朝日が、窓を染める。
ソラは目を覚ました。昨夜はほとんど眠れなかった。夢とも現実ともつかない、曖昧な時間の中で――ただ、自分の心と向き合っていた。
窓の外を見る。
今日も、白い空。
でも――何かが、違う。
空気が、少しだけ湿っている。風が、冷たい。そして――空の白さが、昨日までとは違う質感を持っていた。
部屋を出ると、リリアがすでに起きていた。
「おはよう、ソラちゃん」
「……おはよう」
リリアは、窓辺に立って空を見上げている。
「今日は――雨が降るよ」
「え?」
「ソラちゃんが泣かなくても――雨は、来る」
リリアの言葉に、ソラは首を傾げる。
「どういうこと?」
「自然の雨。でもね――」
リリアは、振り返って微笑む。
「ソラちゃんの雨も、一緒に降るかもしれない」
その言葉の意味が、まだ分からなかった。
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朝食の後、ソラは外に出た。
村の中央へ向かう。足取りは、重い。でも――何かに導かれるように、歩いていた。
村の広場には、すでに何人かの村人がいた。昨日と同じ、諦めたような表情。井戸を見つめ、空を見上げ、ため息をつく。
ソラは、広場の中央に立った。
村人たちが、気づく。
「ソラ……?」
「……」
ソラは、何も言わずに立っている。
ハルが、畑から駆けつけてきた。
「ソラ! どうした?」
「ハルさん」
ソラは、ハルを見つめる。
「僕――泣いてもいい?」
その言葉に、ハルは目を見開いた。
「……ソラ」
「嫌われても、いい?」
ハルは、優しく微笑む。
「ああ。泣いていいんだよ」
「……本当に?」
「本当だ。俺は、お前を嫌わない」
ハルの言葉が、胸に染みる。
ソラは、村人たちを見渡した。
昨日、雨を求めた人々。
でも同時に、ソラを恐れた人々。
(怖い)
でも――
(泣きたい)
リリアが、そっと近づいてくる。
「大丈夫だよ、ソラちゃん」
「……リリア」
「ありのままでいいんだよ」
リリアの声が、背中を押す。
ソラは、目を閉じた。
心の中で、溜め込んでいた言葉が溢れてくる。
(寂しかった)
(辛かった)
(泣きたかった)
(でも――怖かった)
(嫌われたくなかった)
(でも、もう――)
――もう、我慢したくない。
ソラは、目を開ける。
そして――
「僕――」
声が、震える。
「僕、ずっと我慢してた」
村人たちが、静かに聞いている。
「泣きたくても、泣けなくて」
「笑いたくても、笑えなくて」
「僕のせいで、雨が降って――みんなに迷惑かけて」
「だから――ずっと、我慢してた」
ソラの声が、大きくなる。
「でも――もう、我慢したくない!」
「泣きたい時に、泣きたい!」
「笑いたい時に、笑いたい!」
「嫌われても――僕は、僕のままでいたい!」
その瞬間。
ぽろり、と。
一粒の涙が、ソラの頬を伝った。
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空が、変わった。
白い空が――灰色に染まっていく。
風が、吹く。
冷たい風。でも、優しい風。
ソラは、泣いた。
声を上げて、泣いた。
涙が、止まらない。
溢れ出す涙。
ずっと我慢していた、心の雨。
空が、曇る。
雲が、集まってくる。
そして――
ぽつり。
雨が、降り始めた。
最初は、小さな雨粒。
でも、すぐに――優しい雨になった。
村人たちは、雨に打たれながら――静かに立っている。
「雨だ……」
「本当に、雨が……」
誰かが、呟く。
雨は、強くなりすぎない。
ソラの涙に合わせるように、優しく降り続ける。
ハルが、ソラに近づいた。
そして――ソラを、抱きしめた。
「よく頑張ったな」
ハルの声が、温かい。
ソラは、ハルの胸で泣いた。
子供のように、声を上げて。
「ハルさん……!」
「いいんだ。泣いていいんだ」
「……っ、うぅ……!」
ソラの涙が、止まらない。
でも――それは、悲しい涙だけじゃなかった。
嬉しい涙。
安心の涙。
解放の涙。
心の中に溜め込んでいた、全ての感情が――涙になって、溢れ出していく。
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その時。
ソラの胸が――淡く光った。
ソラは、はっとして顔を上げる。
「え……?」
光は小さく、でも確かに――ソラの胸から溢れ出ていた。
温かい光。優しい光。
リリアが、静かに微笑む。
「願いが――叶ったんだよ」
「願い……?」
光は、輝きながら形を成していく。
羽だった。
青い羽。
透き通るような、雨雫のような羽。光を反射して、きらきらと輝いている。縁は、淡い銀色に光っていた。
羽は、ソラの手を離れ――空へと浮かんだ。
そして、雨の中を――ゆっくりと天へ昇っていく。
村人たちが、息を呑んで見上げる。
「あれは――」
「羽……?」
「綺麗だ……」
羽は、雨の中を昇っていく。
青い光を放ちながら、天へと。
ソラは、その羽を見上げる。
(これが――僕の願い?)
リリアが、そっと答える。
「“ありのままの自分でいたい”――そうでしょ?」
ソラは、頷いた。
「……うん」
「願いは、叶ったんだよ」
リリアの声が、優しく響く。
「ソラちゃんは――もう、自由なの」
羽が、雲の向こうへ昇っていく。
その瞬間――雨が、少し強くなった。
でも、豪雨ではない。
優しい恵みの雨。
畑を潤し、大地を潤し、井戸を満たす雨。
村人の一人が、ソラに近づいた。
「……ありがとう、ソラ」
その言葉に、ソラは目を見開く。
「え?」
「お前の雨――ありがとう」
別の村人も、頭を下げる。
「ごめんな。辛い思いさせて」
「俺たちが――お前を苦しめてたんだな」
次々に、村人たちが謝る。
ソラは、混乱した。
「……みんな」
ハルが、ソラの肩に手を置く。
「ソラ。お前の雨は――呪いなんかじゃない」
「……え?」
「恵みなんだよ」
ハルは、空を見上げる。
「この雨が――村を救ってくれる」
ソラは、雨に打たれながら――初めて、本当の笑顔を見せた。
泣きながら、笑う。
涙と雨が、混ざり合う。
「僕――泣いてもいいんだね」
「ああ」
ハルは、微笑む。
「何度でも、泣いていいんだ」
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雨は、優しく降り続ける。
リリアは、少し離れた場所で――静かに微笑んでいた。
そして――ふわり、と目を伏せる。
眠気が、襲ってくる。
(また――何かが、消えた)
心の中で、リリアは呟く。
記憶が、ひとつ失われた。
でも――それが何だったのか、もう思い出せない。
(でも、それでいいの)
リリアは、微笑む。
(また――誰かの願いが、叶ったのなら)
風が、リリアの髪を揺らす。
次の風が、もう吹いている。
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雨は、夕方まで降り続いた。
井戸に水が戻り、畑が潤い、川が流れ始める。
村は――生き返った。
ソラは、ハルの家の裏庭で――枯れかけていた野菜たちを見つめていた。雨に打たれて、少しだけ元気を取り戻している。
「元気になったね」
ソラは、野菜の葉に触れる。
ハルが、隣に立った。
「ああ。お前の雨のおかげだ」
「……僕の雨」
ソラは、その言葉を噛みしめる。
「恵みの雨――なんだね」
「そうだ」
ハルは、ソラの頭を撫でる。
「いい顔になったな」
「え?」
「本当の笑顔だ」
ソラは、少し照れくさそうに笑う。
本当の笑顔。
作り笑いじゃない、心からの笑顔。
それが――今のソラにはある。
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翌朝、雨は止んでいた。
空には、青空と白い雲。
そして――虹が、かかっていた。
ソラは、村の広場で――子供たちと遊んでいた。
笑って、走って。
時々、転んで泣いて。
でも、すぐに笑う。
ありのままの自分で。
ハルは、それを遠くから見守っている。
「いい顔だ……」
そして――ふと、空を見上げる。
虹の向こう、遥か高い天に――青い羽が昇っていくのが見えた気がした。
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リリアは、村の外れを歩いていた。
風が導くままに、次の場所へ。
ソラが、駆けつけてくる。
「リリア!」
「ソラちゃん」
リリアは、立ち止まって振り返る。
「もう、行っちゃうの?」
「うん。風が、呼んでるの」
「……そっか」
ソラは、少し寂しそうにする。
でも――すぐに笑顔を見せた。
「リリア、ありがとう」
「どういたしまして」
「僕――泣けるようになったよ」
「うん。見てたよ」
リリアは、優しく微笑む。
「ソラちゃん、いい顔してる」
「……本当?」
「本当」
リリアは、ソラの頭を撫でる。
「これからも――ありのままでいてね」
「うん!」
ソラは、力強く頷いた。
リリアは、また歩き始める。
風が導くままに。
「また、どこかで」
「リリア――!」
ソラは、手を振る。
リリアも、手を振り返す。
そして――ゆっくりと、遠ざかっていく。
ソラは、その背中を――ずっと見送っていた。
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空の遥か高く、青い羽が一枚。
雨上がりの空を、天へと昇っている。
それは、ソラの願いが叶った証。
“ありのままの自分でいたい”
その願いは――天に届いた。
そして――ソラの心に、恵みの雨を降らせたのだ。
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数日後。
雨柳村は、完全に潤いを取り戻していた。
畑には緑が戻り、井戸には水が満ちている。
ソラは、村の子供たちと――泉の近くで遊んでいた。
笑って、泣いて、また笑って。
時々、ソラが泣くと――小雨が降る。
でも、村人たちはもう恐れない。
「ソラが泣いてるぞ」
「優しい雨だな」
「恵みの雨だ」
そう言って、微笑む。
ソラは――ようやく、ありのままの自分でいられるようになった。
ハルは、その姿を見守りながら――空を見上げる。
「孫よ……見てるか?」
空には、青空。
そして、遥か高い天に――小さな青い羽が、昇っていくのが見えた。
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遠く。
リリアは、風が導くままに歩いている。
次の村へと。次の人へと。
風が、優しく吹く。
リリアは、微笑みながら――心の中で呟いた。
(また――誰かの願いが、叶った)
(それでいいの)
記憶は、また少し失われた。
でも――それでいい。
誰かの願いが叶うなら。
誰かが笑顔になるなら。
リリアは、風が導くままに――次の場所へと歩いていく。
空の遥か高く、小さな青い羽が――静かに天へと昇っていった。




