第1話『風の町で』
風が、町を渡っていた。
丘の上に立つと、無数の風車がゆっくりと回っているのが見える。軋む木の音が、まるで誰かの笑い声のように遠くで響いていた。
リリア・カナリアは、白い羽を髪に差したまま、細い道を歩いていた。
風が彼女の金色の髪を揺らし、裾のリボンをくすぐる。通り過ぎるたび、町の人々が目を細めて挨拶をした。
この町は風の町と呼ばれている。どこにいても風が吹き、空気がやさしい。けれど、どこかにひとつ、沈んだ音が混ざっているような――そんな静けさがあった。
石畳の広場を抜けた先、小さな露店が並んでいた。焼き菓子の甘い匂い、風鈴の音、子どもの笑い声。
その中に、ひとつだけ動かない影があった。
木箱を抱えた少女が、露店の隅にしゃがみこんでいた。
年の頃は十歳ほど。風が吹いても、彼女の黒髪はほとんど揺れなかった。
リリアは足を止める。胸の奥が、かすかにざわめいた。
「……ねぇ、それ、オルゴール?」
声をかけると、少女は少し驚いたように顔を上げた。
灰色の瞳が、曇り空のように揺れていた。
「うん。……でも、もう鳴らないの」
「壊れちゃったの?」
「直らないの。誰に見せても、音が出ないって」
少女の声は、風よりも小さかった。
リリアはしゃがみ込み、そっと箱をのぞき込む。
丸い蓋の中心に、小さな羽の模様が彫られている。
それを見た瞬間、胸の奥がわずかに熱くなった。どこかで、同じものを見た気がした。
「きれいだね。お母さんの?」
「……うん。形見なの。だけど、音が鳴らないなら、ただの箱だよ」
そう言って、少女はオルゴールを抱きしめた。
壊れた音の代わりに、風の音が二人の間を通り抜けた。
リリアは微笑む。
「ねぇ、その音、まだ眠ってるだけかもしれないよ?」
「眠ってる?」
「うん。音ってね、風と一緒に目を覚ますの。ちゃんと“願い”が届いたら」
少女は小さく眉をひそめた。
「……願いなんて、もう信じてない」
その言葉が風に溶けた瞬間、リリアの胸の奥で何かがきらりと光った。
見えない羽が震え、淡い光の粒が一瞬だけ舞い上がる。
けれど少女には、それが見えなかった。
リリアは立ち上がり、空を見上げた。風車が、まるで空に祈るようにゆっくり回っていた。
「……あなたの名前、教えてくれる?」
「ミナ。あなたは?」
「リリア。風の旅人だよ」
「風の……?」
ミナは、初めて少しだけ笑った。けれどその笑顔は、ほんの刹那の光だった。
それから、二人は少しだけ町を歩いた。
ミナは口数が少なかったが、リリアが風車を見上げて「どうして全部、同じ向きに回ってるんだろうね」と呟くと、
「この町の風は、丘の上から降りてくるの。だから、みんな同じ方を向いてるの」
と、少し得意げに答えた。
その声に、リリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
ほんのわずかな笑みでも、願いの形になるのだと思った。
広場の端に、古びた噴水があった。
風が吹くたび、水面に小さな波紋が生まれ、光を跳ね返す。
リリアは手を伸ばして、その光を指先に受けた。
冷たい。けれど、その冷たさが心地よかった。
「ねぇ、ミナ」
「なに?」
「そのオルゴール、見せてくれる?」
ミナは少し迷ってから、箱を差し出した。
リリアは両手で受け取り、そっと回してみる。
――カリ、カリ。
金属の軋む音だけが響いた。
音は出ない。
けれど、箱の内側から、わずかに“風”の気配がした。
リリアは目を閉じ、頬に触れる風の流れを感じた。
その瞬間、遠くで風鈴が鳴った。
まるで、何かが呼吸を取り戻したかのように。
「……やっぱり、眠ってるだけみたい」
リリアは微笑む。
「その音、きっとまた鳴るよ」
ミナはうつむき、首を振った。
「そんなの、もういいの」
「どうして?」
「音が鳴っても、もうお母さんはいないから」
言葉が途切れた。
風が、ふたりの間を静かに渡っていった。
リリアは、何も言えなかった。
ミナの声の奥にある痛みが、風の冷たさよりも深く刺さったからだ。
ただ、リリアは小さく呟いた。
「……それでも、願いは生きてるよ」
ミナは顔を上げなかった。
けれど、風が彼女の髪をそっと撫でた。
まるで、“それ”が肯定するように。
日はゆっくりと傾いていった。
夕陽が町を染め、風車が黄金色に輝く。
広場の風鈴が、一斉に鳴り始めた。
「リリア」
「うん?」
「また、明日来るの?」
その声に、リリアは微笑んだ。
「うん。もし風が呼んでくれたら、きっと」
そう言って、彼女は振り返らずに歩き出す。
風が足元で渦を巻き、スカートの裾を揺らす。
空には、薄い羽のような雲が浮かんでいた。
その雲を見上げながら、リリアはそっと呟いた。
「……願いの音が眠る町、か。
風が教えてくれるなら――また、明日もここへ来よう」
遠くで、風車がゆっくりと回る。
その音が、まるで誰かの心臓の鼓動のように響いた。
リリアの胸の奥でも、かすかに羽が震えた。
夜の風が、町を包み始める。
灯りが点り、窓の隙間から、オルゴールの箱を抱いた少女の影が見えた。
彼女は窓際で、何かを見上げている。
リリアには見えなかったが、その目に映っていたのは――
きっと、空を流れる一筋の風だったのだろう。
リリアは微笑んだ。
夜風が彼女の頬を撫で、髪に結んだ羽をやさしく揺らした。
――願いの音が、またひとつ、風の中に溶けていった。




