第10話「心が覚えている庭」
次の日、リリアが庭を訪れると、ユウとエルナが庭の手入れをしていた。
ユウは雑草を抜き、エルナはじょうろで水をやっている。
朝の光が二人を照らして、庭は静かな時間に包まれていた。
「おはようございます」
リリアが声をかけると、ユウが顔を上げた。
「あ、リリアさん。おはようございます」
「おはよう」
エルナも微笑む。
「あなた、昨日もいたわね」
「ええ」
リリアは庭に入り、二人の傍らにしゃがみ込んだ。
「お手伝い、していいですか?」
「もちろん」
ユウが微笑む。
リリアは雑草を抜き始めた。
土の匂いが鼻をくすぐる。
「この庭、久しぶりに手入れするんです」
ユウが言った。
「祖母が祖父を忘れてから、あまり庭に来なくなって。私も忙しくて…気づいたら、こんなに荒れてしまって」
「でも、綺麗になってきましたね」
リリアが言うと、ユウは庭を見回して頷いた。
「そうですね。少しずつ、元の庭に戻ってきてる気がします」
エルナは花壇の端で、じょうろを持ったまま立ち止まっている。
何かを考え込むように、庭を見つめていた。
「エルナさん?」
リリアが声をかけると、エルナははっとして振り返る。
「あら、ごめんなさい。ぼんやりしちゃって」
「何か、思い出しましたか?」
「分からないの」
エルナは困ったように笑う。
「でも、ここにね…何か植えたかったような気がするの」
エルナは花壇の空いた一角を指差す。
「ここに、何か大切な花を植えたかった」
「でも、何だったか…」
ユウが立ち上がり、エルナの隣に来た。
「忘れな草だよ、おばあちゃん」
「忘れな草…?」
「うん。おばあちゃんとおじいちゃんが一番好きだった花」
ユウは優しく言った。
「ここに、二人で植えたんだよ。『庭中を青く染めよう』って」
エルナは目を丸くする。
「…そうだったの?」
「うん」
ユウは微笑むけれど、その目は少し悲しそうだった。
エルナはもう一度、空いた花壇を見つめる。
「じゃあ、そこに植えましょう」
「え?」
「忘れな草。ここに植えたいわ」
エルナが言うと、ユウは驚いた顔をした。
「でも、おばあちゃん…覚えてないんじゃ…」
「覚えてなくても、いいの」
エルナは微笑む。
「何となく、そうしたい気がするのよ」
ユウは何も言えず、ただエルナを見つめていた。
リリアは立ち上がり、二人の傍に来る。
「いいですね。植えましょう」
「リリアさん…」
「忘れな草の種、町で買えますか?」
「あ…はい」
ユウは少し戸惑いながらも頷いた。
「じゃあ、買いに行きましょう」
リリアが微笑むと、ユウも小さく微笑み返した。
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午後、三人は花壇に忘れな草の種を植えた。
エルナが土を掘り、ユウが種を蒔き、リリアが水をやる。
風が吹いて、三人の髪を揺らした。
「この感じ…」
エルナが土を触りながら呟く。
「知ってる」
「え?」
ユウが顔を上げる。
「この感じ、知ってるのよ」
エルナは土をそっと撫でる。
「誰かと一緒に、ここを耕したような…」
エルナの目が、少しだけ遠くを見ていた。
「手が、覚えてるみたい」
リリアは静かに微笑む。
「手が覚えてるんですね」
「そう…手が」
エルナは自分の手を見つめる。
皺の刻まれた、小さな手。
「不思議ね。名前は思い出せないのに、手は覚えてる」
風が吹いた。
ユウは黙って、祖母の横顔を見つめていた。
その目には、また涙が浮かんでいる。
「ユウ?」
エルナが孫の顔を覗き込む。
「どうしたの? 泣いてるの?」
「…ううん」
ユウは涙を拭う。
「何でもない」
「そう?」
エルナは優しく微笑んで、ユウの頭を撫でた。
「泣かないで。ほら、庭が綺麗になったわよ」
ユウは祖母の手に、自分の手を重ねる。
「…おばあちゃん」
「何?」
「おばあちゃんは、おじいちゃんのこと…覚えてる?」
エルナは少し首を傾げた。
「おじいちゃん…?」
「うん。この庭を一緒に作った人」
「ああ」
エルナは庭を見回す。
「覚えてる…のかしら。顔は思い出せないけれど…」
エルナは胸に手を当てる。
「でも、ここが温かくなるのよ。この庭を見ると」
「だから、きっと大切な人だったんでしょうね」
ユウの目から、涙がこぼれた。
「おばあちゃん…」
「どうしたの、ユウ」
「私ね…怖かったの」
ユウは声を震わせる。
「おばあちゃんがおじいちゃんを忘れたら――おじいちゃんは消えてしまうんじゃないかって」
「名前がなくなったら、人は消えてしまうって…」
エルナはユウの涙を、そっと拭った。
「消えないわよ」
「え…?」
「名前は思い出せなくても――ここにいるもの」
エルナは自分の胸を指す。
「温かい人が、ここにいるの」
ユウは声を上げて泣いた。
エルナはそんなユウを、優しく抱きしめる。
リリアは少し離れた場所で、二人を見守っていた。
風が吹いて、リリアの髪を揺らす。
(もうすぐ、かな)
リリアは心の中で呟いた。
(願いが、生まれそう)
風が答えるように吹いた。
しばらくして、ユウは涙を拭いて立ち上がった。
エルナも立ち上がり、庭を見回す。
「綺麗になったわね」
「うん」
ユウが微笑む。
「おばあちゃんとおじいちゃんが作った庭、元に戻ってきたね」
「そうね」
エルナは幸せそうに微笑んだ。
リリアが二人の元に来る。
「エルナさん」
「何?」
「願い、ありますか?」
リリアが静かに聞いた。
エルナは少し考えて、頷く。
「あるわ」
「どんな、願いですか?」
「思い出したいの」
エルナは庭を見つめる。
「名前じゃなくていい。顔じゃなくてもいい」
「でも――この庭で一緒に笑った人のことを、ちゃんと心で覚えていたい」
エルナの声は穏やかだった。
「忘れても、ここに残っているって感じたい」
風が吹いた。
リリアは微笑む。
「願いが、生まれましたね」
「願い…?」
エルナが首を傾げる。
リリアは空を見上げた。
雲が流れていく。
「もうすぐ、叶いますよ」
リリアはそう言って、静かに微笑んだ。
風が庭を巡り、忘れな草が一斉に揺れる。
夕暮れの光が庭を照らして、三人の影が長く伸びていた。
エルナは庭の真ん中に立ち、目を閉じる。
「ありがとう」
エルナは誰に言うでもなく、呟いた。
「この庭を、作ってくれて」
風が吹く。
まるで、誰かが答えているように。




