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第9話「名前のない想い」


朝の光が庭を照らしていた。


リリアは町の宿屋で一夜を過ごし、再び庭へと足を運んだ。

昨日と同じように、風が吹いている。


庭の門の前に立つと、中からユウの姿が見えた。

一人で庭に座り、膝を抱えている。


リリアは静かに門を開けた。

ユウが顔を上げる。


「…また来たんですか」


「ええ」


リリアは微笑んで、ユウの隣に座った。

ユウは何も言わず、また視線を庭に戻す。


風が吹いて、忘れな草を揺らした。


「エルナさんは?」


「家で休んでます。朝ごはんを食べたら、すぐ疲れちゃって」


ユウの声は静かだった。

怒っているわけでもなく、ただ――疲れているような響き。


リリアは何も言わず、ユウの横顔を見つめる。

ユウは小さく息を吐いた。


「…祖母は、私の名前を忘れました」


ユウがぽつりと言った。


「最初は、すぐ思い出してくれたんです。『あら、ユウだったわね』って」


「でも今は…何度教えても、数分後には忘れてる」


ユウの声が震える。


「母の名前も、父の名前も、全部。でも一番辛いのは――」


ユウは言葉を切った。

リリアは静かに待つ。


風が吹いた。


「祖父の名前まで、忘れたことです」


ユウは膝に顔を埋める。


「祖父は5年前に亡くなりました。祖母はずっと、祖父のことを覚えていて。毎朝、祖父の写真に話しかけてたんです」


「でも、半年前から…『この人、誰?』って」


ユウの肩が小さく震えた。


「名前を聞いても、『分からない』って。でも、写真を見ると少し微笑むんです」


「それがまた、辛くて…」


リリアはユウの隣で、庭を見つめる。

忘れな草が風に揺れていた。


「名前を忘れるって、どういうことなんでしょうね」


リリアが静かに言った。


「怖いです」


ユウが顔を上げる。


「名前を忘れるってことは、その人が消えてしまうってこと。祖母の中から、祖父が消えていくんです」


「祖父は…もう、いなくなる」


ユウの目に涙が浮かぶ。


リリアは空を見上げた。

雲が流れていく。


「本当に、そうでしょうか」


「…え?」


「名前を忘れたら、その人は消えるんでしょうか」


リリアはユウを見つめる。

その瞳は、水面のように静かだった。


「でも――エルナさん、昨日言ってましたよね」


「この花、好きだったような気がする、って」


ユウは黙っていた。


「誰が好きだったのか、名前は思い出せない。でも、心は覚えてる」


リリアは庭を見つめる。


「きっとこの庭は、エルナさんと誰かが一緒に作ったんですね」


「…そうです」


ユウが小さく頷く。


「祖父と祖母が、二人で作った庭です。祖父は庭師で、祖母は花が好きで…」


「二人でここに、たくさんの花を植えたんです」


ユウの声が少し和らぐ。


「特に忘れな草は、祖母の一番好きな花でした」


「忘れな草…」


リリアはその花を見つめた。

小さな青い花が、朝の光を受けている。


「祖父が言ってたんです。『この花みたいに、お前のことを忘れないよ』って」


ユウが微笑む。

でも、その笑みはすぐに消えた。


「でも、祖母は忘れた。祖父の名前も、約束も、全部」


ユウは再び膝を抱える。


「私ね、時々思うんです。祖母が祖父を忘れたら――祖父は本当に、消えてしまうんじゃないかって」


リリアは静かに息を吸い込んだ。

風が吹く。


「ねぇ、ユウさん」


「…はい」


「名前って、何だと思いますか?」


ユウは顔を上げる。


「名前…?」


「うん」


リリアは忘れな草に触れた。


「呼ぶためのもの、でしょうか」


ユウは少し考えて、頷く。


「…そうだと思います。名前がないと、呼べないから」


「そうですね」


リリアは微笑む。


「でも――呼べなくても、心の中にいる人は、いますよね」


ユウは黙っていた。


リリアは空を見上げる。


「名前を忘れても、その人が心の中にいるなら――きっと、消えてないと思うんです」


「でも…」


「形は変わるかもしれません。でも、いなくなるわけじゃない」


リリアの声は優しかった。


「エルナさんの中に、ちゃんといますよ。名前のない、でも温かい誰か、として」


ユウの目から、涙が一粒こぼれた。


「…そうだといいんですけど」


ユウは涙を拭う。


「でも、やっぱり怖いんです。祖母が祖父を完全に忘れてしまう日が来るんじゃないかって」


リリアは何も言わず、ユウの隣に座っていた。


風が吹いて、二人の髪を揺らす。


しばらくして、ユウが立ち上がった。


「…そろそろ祖母の様子を見に行かないと」


「うん」


リリアも立ち上がる。


ユウは庭の出口に向かいかけて、振り返った。


「あの…リリアさん」


「はい?」


「あなた、優しいですね」


ユウが小さく微笑む。


「でも――祖母が忘れていくのを止められないなら、優しい言葉も意味がない気がして」


リリアは静かに首を振った。


「止められなくても、いいんです」


「…え?」


「ただ、そばにいるだけで――きっと、何かは残りますから」


リリアは微笑む。


ユウは少し驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。


「…また、来てくださいね」


「ええ」


ユウは庭を出て、家へと向かった。


リリアは一人、庭に残る。

風が吹いて、忘れな草が揺れた。


リリアは庭の真ん中に立ち、目を閉じる。


(この庭、誰かの想いが眠ってる)


リリアは心の中で呟いた。


(名前のない、でも温かい想いが)


その時だった。


「あら」


声がして、リリアは目を開ける。


庭の入り口に、エルナが立っていた。

薄い水色のカーディガンを羽織り、杖をついている。


「こんにちは」


エルナが微笑む。


「あなた…昨日もいたような気がするわ」


リリアは微笑み返した。


「ええ。リリアです」


「リリア…」


エルナはゆっくりと庭の中に入ってくる。


「綺麗な名前ね」


「ありがとうございます」


エルナは庭を見回した。

その目は、何かを探しているようだった。


「この庭ね、誰かと一緒に作ったの」


「誰、ですか?」


「分からないわ」


エルナは困ったように笑う。


「でもね、笑っていたような…優しい声だったような…」


エルナは忘れな草の前にしゃがみ込む。


「この花を植えた時、その人が言ったの」


「『この花みたいに、忘れないよ』って」


エルナの目が潤む。


「でも、名前が…名前が出てこないの」


リリアはエルナの隣にしゃがみ込んだ。

風が吹く。


「名前を忘れても――この庭は、覚えてますね」


「…え?」


「土も、花も、風も。全部、その人の想いを覚えてる」


リリアは忘れな草に触れる。


「だから、消えてないですよ」


エルナは涙を浮かべたまま、微笑んだ。


「…そうかもしれないわね」


風が吹いて、忘れな草が一斉に揺れた。


まるで、誰かが頷いているように。


リリアとエルナは、静かに花を見つめていた。


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