プロローグ
――風が吹く。
それは、世界のどこにでもある、ありふれた風。
けれどその風の中には、たしかに“想い”が混じっていた。
――誰かの願い。
――誰かの祈り。
――そして、もう二度と届かない言葉。
空を渡るその風の中で、ひとひらの羽が舞っていた。
白く、淡く、光を透かす羽。
ひらりと舞い、ゆっくりと落ちていくその軌跡を追うように、少女は立っていた。
リリア・カナリア。
年の頃は十二か十三ほどに見える。
淡い桜色の髪が、風に揺れている。
指先に触れた一枚の羽を見つめながら、リリアは静かに微笑んだ。
「……また、ひとつ、願いが叶ったんだね」
彼女の声は、まるで風鈴の音のように柔らかく響く。
誰に向けた言葉でもない。けれど、その声音には確かな温かさがあった。
周囲を包むのは、春の終わりを思わせる丘の風景。
若草が一面に揺れ、陽射しは柔らかい。
鳥たちが遠くで囀り、土の匂いが心地よく漂う。
世界は穏やかで、何もかもが優しかった。
――ただ、少女の瞳の奥にだけ、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
「この羽、どこへ行くんだろうね」
リリアは空を仰ぐ。
青い空の向こう、どこまでも高く昇っていく羽。
やがて光の粒となり、風に溶けて消えた。
その瞬間、頬を撫でる風がふわりと吹く。
――まるで誰かが“ありがとう”と囁いたかのように。
リリアは小さく息を吸い込み、目を閉じた。
風が髪を撫でる。
草のざわめき、花の香り、遠くの鐘の音。
世界のすべてが混じりあって、ひとつの旋律になる。
その中に――確かに“声”があった。
『……リリア。あなたは、またひとつ、願いを運んだのね』
耳に届いたのは、かすかな囁き。
誰の声なのか、彼女自身にも分からない。
けれど、その声を聞くたびに胸の奥が温かくなる。
「……うん。ちゃんと、届いたよ」
『あなたは、優しい子。でも……その優しさは、時に痛みになるわ』
「……痛み?」
風の声はそれ以上、何も答えなかった。
代わりに、ふっと花弁が舞い、リリアの肩に落ちた。
リリアはそっとそれを指先でつまみ、微笑む。
「ねぇ、風さん。私は……これでいいんだよね?」
答えはない。
けれど、頬を撫でた風が、やさしく肯いた気がした。
――その夜。
リリアは焚き火のそばに座っていた。
旅の途中、森の外れにある小さな石橋の下。
流れる小川の音が、眠りを誘うように“さらさら”と響く。
炎の明かりが揺れて、影が木々を踊らせていた。
リリアはその明滅を見つめながら、小さく呟く。
「……今日、誰かの願いが叶った。
あの人は、もう泣いていなかった。
でもね、私……」
言葉が途切れる。
何を言いたいのか、自分でも分からない。
胸の奥に空いた小さな穴――それが何なのか、掴めなかった。
「……思い出せないの。何を忘れたのかさえ」
焚き火の音が、ぱちりと弾けた。
その音がまるで答えのように響き、リリアは小さく笑った。
「……そっか。きっと、誰かの笑顔を思い出すとき、私は少しずつ忘れていくんだね」
小さな手のひらを見つめる。
そこには何もない。
でも確かに、あの羽を掴んだ感触が残っている気がした。
「それでもいい。だって、誰かが幸せになれたなら……それが、私の“願い”だから」
夜風が静かに吹いた。
星の瞬きが、火の粉のように空を染めていく。
リリアの瞳に、その光が映りこむ。
その光景は、どこか懐かしく、どこか切なかった。
『……リリア。あなたは、どうしてそんなに優しく笑えるの?』
心の奥で、また声がした。
リリアは目を細め、少しだけ上を向く。
「うーん……どうしてだろう。
――きっと、笑わないと、風が泣いちゃうから」
『風が……泣く?』
「うん。風ってね、人の願いの匂いがするの。
誰かの涙を運んだり、笑顔を包んだり。
だから、私が笑っていれば、風も優しくなれる気がするの」
しばらく沈黙が流れた。
川の音が“とぷん”と跳ね、夜の虫の声が重なる。
『……あなたは、本当に不思議な子ね。
でも、私は好きよ。あなたの風が。』
「ありがとう……」
リリアは目を閉じ、風の音に身を委ねた。
やがて瞼の裏で、光が瞬く。
それは――記憶の欠片。
けれど掴もうとした瞬間、風にさらわれて消えていった。
翌朝、世界は金色に包まれていた。
木々の間から差し込む朝日が、霧を透かして輝く。
草に滴る露が、まるで小さな宝石のようにきらめいている。
リリアは目を覚まし、伸びをした。
「……あったかいね。今日の風」
足元には、昨日とは違う色の羽が落ちていた。
それは淡い金色の羽。
手に取ると、かすかに甘い香りがした。
「――ありがとう。きっと、あなたの“感謝”なんだね」
羽は光の粒となって、風に溶けた。
リリアの頬を撫で、空へと昇っていく。
その瞬間、胸の奥にふっと温もりが灯る。
「行ってらっしゃい。
また、誰かの願いのもとへ……」
風が吹いた。
草が揺れ、花びらが舞う。
彼女はその中に身を委ね、ゆっくりと歩き出す。
――そうして、リリアの旅は始まった。
願いを運ぶ風として。
記憶を少しずつ失いながらも、
誰かの想いを抱きしめるように。
そして、まだ知らない。
その“風”の先に、彼女自身の“願い”が眠っていることを――。




